【短編】竜風颯颯として天を噛む
人さらいのような風が吹いていた。南方からやってきたその風は、背を押すように吹き上げて、時折突風のように吹いた。
切り立った崖の、船首の先端に立ち、十六の誕生日を迎えた私は、狩りに使う短剣を腰から引き抜くと、後ろに結んだ髪を切った。突風に乗り、髪は散り散りに飛んでいく。逆光に溶けて見えなくなると、遥かだった。
私は辺り一帯を見渡せるこの崖が好きだった。
しかしハゲ山ばかりが目立つようになって今、郷愁の想いも込み上げなくなっていた。
「カレン!」
私は呼ばれて振り向いた。美しい少年がズボンを両手で握りしめて立っていた。私と目が合って、少し視線を落とした。少年は、彼の美しい母親と同じグリーンの瞳が印象的な少年だった。
「本当に、行くつもりなんだね・・・・」
私は、まだ幼さを残す彼の顔をじっと見つめた。少年は歳のわりには背が低く、高身長のカレンと並ぶと姉弟のように見えた。少年はそれを気にして、隣を歩くとき距離を開けるようになったのをカレンは気づいていた。
「私の父は〈竜を狩る者〉だった。でも十一年前に出たっきり、船は戻らない。」
カレンは言った。
「父は、昔よく言ってた。人は飛空船を開発して、空を自由に飛べるようになった。人が、空の覇者になったんだって・・・。」
「でも神父さんは、竜は殺しちゃダメだって・・・・」
少年は俯いたまま言った。
「神さまだから、殺したらダメだって・・・」
乾いた風が穏やかに吹いていた。私はまた崖から睥睨するように辺りを見渡した。
「神様はどんなに困ってたって助けてはくれないよ。こんなに祈ってるのに、雨の一滴も降らない。もう二月以上も降ってないんだ。このままじゃ山は枯れる。・・・山が枯れて、獲物が獲れなくなったら、村も全滅する。」
俯いたままの少年の顔がとうとう泣きだしそうになっている気がした。私はあえて気にせず続けて言った。
「それに教会だって、竜の肉をシカやイノシシだって言って配ってるよ。・・・みんな気づいてる。神様を殺さないと、人は生き残れないって。」
私は俯く少年に、励ますつもりで言った。
「ライナーも明日おいでよ。男の子は十四歳から船に乗れる。」
「僕は、山羊の世話があるから。ニキもロキも、スッペも死んで、アンも死にそうなんだ・・・・。」
「そうだったんだ・・・・・。」
アンはカレンが名付けた山羊だった。立派な雌山羊に成長していたはずだったが、どうやら死にそうらしい。雨が降らず、草が生えないのだから、
たくさんの山羊が死んだのだろうが、私はそんなことはまったく気づいておらず、何と言うべきか迷った。
「早く、明日になればいいのにね。」
暫くすると、風は再び突風のように吹き始めた。
轟音と砂ぼこりと共に、飛空船は着陸した。久しぶりの帰郷と大地を喜んだ船員たちは、家族や友人に迎えられ、あたたかな時間を過ごした。
竜の肉や鱗を物資と交換し、必要なものを揃えると3日目の昼前には、三人の新人を乗せて、再び空の旅へと出発した。私は小さくなっていく村を眺めて、ほとんど緑のなくなった丘で、山羊とライナーを見つけた。
カン!カン!カン!カン!カン!
報竜鈴のベルが鳴ったのは深夜になったときだった。新しい環境に慣れてきた安眠を邪魔されて、私は不機嫌に目を覚ました。風の音がひどく大げさに呻っている。窓は真っ暗で何も見えなかった。
「何やってんだい!早く支度しな!竜が出たよ!」
数少ない女性船員の一人がドアを開けて私たちを叩き起こしに来た。
「竜だ!竜だよ!」
隣のベッドでは、私と同じ新人の女の子が、子どもようにはしゃいでいた。カビ臭いベッドを、ほこりを立てて揺らす彼女は、私より随分と幼いように見えた。今回は珍しくも新人に女が二人もいて、私は奇しくも一人部屋を逃したわけであった。
「あなた、本当に十六なのよね?」
私は着替えていく彼女にそう言ったが、「じゃあ私行って来るからー」と、彼女は飛び出して行ってしまった。私もうかうかしていられないと、後を追うように部屋を出た。
「ほ~げきーーじゅ~んびーー」
独特の調子が、絶え間ない風の中で耳に飛び込んできた。
「てーーー!」と号令が下れば、大砲は一斉に火を噴いて、微動が骨に残った。私が中甲板から甲板に顔を出したときには、船員たちは一糸乱れぬ動きで一斉射撃をしていた。噴煙と砲撃音が風に流されていく。私の服は強風にあおられてバタバタと波を立てた。砲術長が双眼鏡を手に方向と角度を指示し、砲兵は速やかに大砲を動かして、ぴたりと静止する。また爆音。
私は機械的な彼らの動きに見惚れつつ、射角の示す方向を覗き込んだ。
今夜は月もない夜で、暗視灯の光は手元が見えないほどにか弱い。私は目を凝らしたが、深い闇はとぐろを巻くように渦巻いて、世界は闇に蟠踞されていた。
私はどこかムキになって絶対的な力に抗するように、しばらく闇を睨み続けた。時間も忘れ、ぐっと凝視し続けていると、闇の先で、何かとてつもない大きなものが動いた。ふと、忘れていた恐怖心を思い出したように、私は後ずさりした。
「こりゃ、夜は私たちの出番はなさそうだね。」
私の肩を支えて言ったのは、さっきカレンを叩き起こした女性船員のラーセンだった。
「弾でも・・・運びますか?」
私は彼女の顔を見上げて、取り繕うように言った。
「いや、寝る。」
「え?」
思いがけない返答に私は驚きを隠せなかった。忙しそうな砲兵たちの様子を見て、自分たちだけ寝るというのは何とも忍びなく、彼女の意図を図りきれなかった。ラーセンは高身長のカレンよりもさらに背が高く、大抵の男たちよりも大きかった。力がないはずもなく、むしろ砲弾くらいなら、小脇に抱えて運べそうなほどだった。
「あんた、今何か失礼なこと考えただろ?」
「い、いやぁ~・・・」
そんなことは言われ慣れているのか、彼女の鋭さに私はぎくりとして苦笑いを浮かべたが、普段笑い慣れていない私は、へへっと妙な笑みを浮かべるに終わり、なんだかかわいそうな子を見るような目をされて、私は何か腑に落ちない気がした。
「いいかい。私たちの仕事はなんだ。」
彼女は改まって言った。
「竜にトドメを刺すことです。」
私が淀みなくそう答えると、ラーセンは言った。
「そうだ。私たち近接兵は竜狩りの花形だが、同時に最も危険な役回りだ。だがその分報酬もデカい。過去に逆鱗を取った奴には、100万マルクが支払われたこともある。」
噂では聞いていたものの、それはカレンの想像以上の金額だった。100万マルクといえば、一年は何もしないで暮らしていけるような額だった。
「分かっただろ?」
唖然とする私に彼女は言った。
「いざってときに、疲れてて力が出せませんなんてことになりたくないだろ?だから、今は寝ろ。」
「それに、見てみな。」
彼女が示す方を覗いて、私ははっとした。さっきまで忙しなく動いていた砲兵たちが、砲撃の手を止めていた。
「この闇と風だ。無暗に撃っても当たるものでもないし、弾が風に流されて、隣り合う弾どうしが接触すれば、爆発でこっちが被害を受ける。今夜はある程度傷を負わせたら、日が昇るまで追いかけるに徹するのさ。」
そう言って彼女は颯爽と甲板を下りて行った。
しかし船は視界の悪い中、逃げる竜を追いかけるのである。急旋回に、急降下、急上昇を繰り返し、とても休めるようなものではなかった。結局カレンが眠れたのは、随分と時間が経ってからで、目覚めたときには、完全に日が昇ってしまっていた。
飛空船はまるで寝ている者を起こさぬように緩やかに航行していた。
窓から刺す白い光に、私は朝の気だるさを覚えて飛び起きた。あれから竜はどうなったのだろうか。まさか竜を狩っていてこんなに静かなはずもないだろうし、ひょっとすると自分は寝過ごしてしまったのではないか。
不安に駆られてカレンは髪も整えず中甲板から続く外階段にポップコーンのように飛び出した。やはり、窓からの陽光が物語っていた通りだった。
のんびりとした風が鼻をくすぐっていくだけ。小春日和だった。気の落ちた重い足取りで、私はそのまま階段を上って、甲板に上がった。甲板で砲兵たちは昨夜と打って変わってゆるりと過ごしている。やはり自分は寝過ごしてしまったのだろう。そう思って引き返そうとしたときだった。
「ちょうど起こしに行くところだったんだ。」とラーセンが言った。
傍らに髭を生やしたドワーフを伴っているようだったが、私はそんなことはどうでもよかった。するとラーセンは察したのか
「竜はまだ追っている途中さ。」と言った。
その意味はよく分からなかったものの、私は懐疑的になるよりも嬉しくなった。それがひどく幼く見えたのだろう。きっとそれは同居人のせいなのだけれど、ラーセンは私を娘のように撫でた。
「竜を追っている途中って、どういう意味?」
私は気恥ずかしさからか、遮るように尋ねた。船はどう見ても竜を追っているようには見えない。よく晴れた日の滋味を堪能して遊覧していた。昨夜の暴れん坊はもういなくなっている。
「さて、」
ラーセンはそう言うと、甲板から身を乗り出した。しばらくそうしていて、そうしている間、彼女の長い髪は朝日に包まれ、白銀の水面をたゆたうように靡いていた。
「なあ、風読み!」
ラーセンは急に大きく振り返ると、艦橋の上の男に言った。
「少しアレに近づけとくれよ。こいつに見せてやりたいんだ!」
風読みと呼ばれた男が、何か合図を返し、ほどなく、船は向きを変えて進み始めた。ぐっと持ち上げられるような浮遊感と共に、風は兇器に変わった。細長い風が切るように船上を走っていく。
「ラーセン、何を見せてくれるんだ。」
強い風の中、抗う声を張りながら、私はラーセンの傍に寄った。彼女は促すような仕草をして私をもっと近くに寄せると、娘のように肩に手をやり、彼方を指さした。
「何・・・あれ。」
空が光っていた。幾千もの赤い光が散らばって、きらきらと光っていた。
「血結晶さ。」
ラーセンは言った。船は血結晶が広がる空へまっすぐ向かっていく。
「これは竜から出た血なんだ。」
空の上では竜から流れ出した血は、下に落ちていくのではなく、結晶となって空を漂う。それが陽光を浴びて輝いているのである。
竜狩りはその跡を辿り、竜を追い詰めていくのだ。しかし竜は賢い生き物である。人間が血を辿ってきているということを分かっており、風に血結晶を運ばせて、欺く個体もおり、風読みはそうしたダマしも見抜きながら、竜の航路を辿るのが役目だった。
「きれい・・・・」
船は血結晶の空へと分け入っていく。光に包まれていく。一面が赤い光の花畑だった。
「血結晶は、またの名を、竜の星屑というんだ。」
私は船の傍を流れる結晶に向かって手を伸ばした。
すると触れたか触れないかの瞬間に、結晶は砂になって空に散っていった。それから船はますます血結晶の銀河へと向かって進んでいった。やがて船体は結晶を砕きながら進むようになると、散っていく塵が空に川を描き出す。
すぐに消えてしまう赤い塵はたなびいて伸び、
私たちの辿った航路に、煌めきの航跡を残した。
船はさながら星の海を裂いて走る砕氷船だった。群星を抜けたとき、船の前には巨大な血結晶が現れた。船体の大きさを優に超える巨大な血結晶。船は迂回するように進むことを選び、私たちは息をのむ巨大さに唖然としながらその塊を眺めていた。そのときだった。
血結晶が突然破裂したのである。当然、船は当たってもいなかった。
突然のことに、されど驚く暇もなく、巨大な塊は猛威となって私たちを襲う。赤い血吹雪に呑み込まれ、船体が大きく揺れる。私は飛ばされないように、必死に垣立にしがみついていた。悪魔が笑ったような一時が過ぎて、猛吹雪はゆるやかに収まり始める。私たちは安堵の息を吐き、脳天に浮かべた安い未来に楽観した。
しかし現実はそれを嘲嗤うかのように、一陣の風と共にそいつは現れた。
「野郎!血結晶に隠れてやがった‼」
ラーセンが叫ぶ。と、刹那、大翼を広げた白い竜が天を震わせた。
それは戦いの鳴箭であった。竜は船に突撃し、船体は大きく揺れ、傾いていく。鋼鉄が軋む嫌な音が響き、船はひっくり返ろうとしていた。漫ろなる竜の出現に、呆気に囚われていた私たちは、容易く後手に回り、ただ耐えるしかなかった。私は清々しい空に放り出されそうになったところを、間一髪のところでラーセンに手を掴まれ、九死に一生を得ていた。しかし船は竜に押され続け、ゆっくりと、だが確実に逆さまに返ろうとしていた。
〈後編に続く〉