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ヒダリメの鴉 月下の迎え

部屋の灯りを消した時だった。また扉を叩く音がした。
「こんな時間に・・・。」
私はため息混じりにつぶやいた。きっとまたベルだろうと思った。ほかに訪ねてくる人も思い当たらなかった。部屋の電気を点けなおして、工房へ向かった。満月の四日前、広い工房を十分に照らす、青い月光がふたつの窓から差し込んでいた。私は明かりはつけずに急かす音の方へ向かい、ふと足を止めた。扉は二回叩かれた。鈍い音を立てて。その音はなぜか、不吉な音に思えた。扉の先にいるのが、彼ではないような気がした。誰かが騙して、私をおびき出そうとしているのではないか。得体のしれない不安が込み上げてきた。扉がまた二回、私の思考を遮るように響いて、私は歩き出した。ほら、何も変わらない。工房を歩いていく。私の足音が響いていく。今も扉は叩かれているけれど、もう何も感じない。何か気にしすぎていただけなのだろう。私は扉を開けた。
「え・・・・」
両肩をぐっと掴まれる。
「次は!次はどこなんだ!」
まったく見知らぬ男が、そう叫んでいた。その声は悲痛であり、どこかすがるようでもあった。
「何を・・言って・・・・・」
私は困惑するよりなかったが
「全部!・・・全部!お前がやったことなんだろ!」
男には、私のことなど見えていなかった。
「痛い!離して!」
私は男の手を振りほどき、部屋の中を走って逃げると、男は追いかけてはこなかった。机の上に置いてある火箸を掴んだ。一般的な火箸と違い、鍛冶屋が使う火箸は特別である。長さは一メートル近いものが多く、強く母材を掴むために、鉄の塊のような火箸は重量もあり、振り回せばそれなりの鈍器になった。だがそれは男には伝わらなかった。私が火箸を構えていることが見えてすらいなかった。男はとぼとぼ、足を落とすように、ゆっくりと近づいた。そこに、はたして男の意思はあったのか。後になっては、男の異常さは脳裏にシミとなって残る不気味だった。私はただ掴んだ火箸を振り回して男が近づいてくるのをどうにか防ごうと必死になった。火箸は想像よりも重く、思ったようには振りまわせない。私の拙い反撃は、火箸との舞踏になったが、加速した火箸は偶然男の肩を強打した。男は短く叫び声をあげて、肩を庇いながら、二歩三歩と後ろへ下がっていった。男はひどく疲れたように肩を上げて、息をしていた。
「全部・・・全部お前が・・・・」
男が懐から刃物を取り出した。また小さく、男が呪文のようにつぶやく。私の魂は、生まれて初めて凶悪な殺意を浴びて、脆く脆く崩れたのだった。私の方が、よほどリーチの長い火箸を持っているにも関わらず、おろおろと為す術をなくし、逃げ出すことで頭がいっぱいになった。刺すということに特化した鋭利が、森の野犬の目のように月明かりに青白く輝くと、殺されるという象徴めいた魔力に、死の戦慄に、私の体はたちまち蝕まれていった。男が斬りかかってくる。ぞんざいで投げやりな斬撃が無遠慮に振り下ろされる。私は逃げまどった。刃が肩をかすめ、服が裂け、ほんの少しの切り口から、だらだらと血が溢れ出してきた。男の前で私の命は裸だった。やがて足がもつれて、私は床に上に倒れる。どこで打ったのか、顔がズキズキと痛む。鼻血も垂れている。口の中も切れている。血の匂いと味に、頭の中が淀む。男が押さえるように私の上に乗ったとき、ようやく私の頭は鮮明になって、ああ、私は死ぬのか。と理解した。いつか死ぬのは分かっていたけれど、それがこんな突然、こんな形でこようなどとは、夢にも思わなかった。何か、とてもくやしいような気がした。私は無意識に目をぎゅっとつむった。部屋の中は静かだった。月明かりの音がするほどに。だからその異変に、私はすぐに気が付いた。男が死んでいる・・・。目を開くと、銀の刃が男の喉を貫いていた。男の首が音を立てて床を転がった。男の顔があった場所に、別の顔がある。それは全く見知らぬ顔だった。すらりと伸びた長身。なめらかな輪郭は、性別を感じさせない。男はひざまずき、手を差し伸べると、夜の隙間に差し込むような声で言った。
「姫さま。お迎えに上がりました。」

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