「お幸せに」の言葉に違和感をもつのはなぜか?
大学の友人とコイバナをしていると、結婚の話が出てくる。
カップルの恋愛と夫婦の愛の違いとは。
将来的に結婚したいか、今は全然興味ないか。
そこで挙がる話題が「結婚することイコール幸せなのか?」
「結婚して幸せになってね」と言われると、「今まで俺/私が幸せじゃなかったってこと??」と反発する人が少なからずいる。今まで自分が感じた幸せだった思い出がないがしろにされたように感じるからかもしれない。
最近読んだ漫画でこの「結婚する=幸せになる」論争を解決しそうなキーワードを見つけた。
結婚は新しい家族と新しい人生を育んでいく、人間特有の「幸せ」で、今まで経験した他の何かに代替できない「幸せ」の形だと思うし、家族を養ったり守ったりする責任も発生する。18歳以上しか経験できない数あるうちの1つの段階として捉えられるだろう、という見方だ。
「お幸せに」に違和感を覚える人は、「幸せ」は1人1本しか所有することができないと考えているからではないだろうか?
「幸せは1人1本で、幸せになるというのはそれを豊かにするか否かである」と考えているから、結婚以前以後も、今も昔も、それぞれに違う「幸せ」が存在すると考える人に、自身の一本造りの「幸せ」を否定されたと感じるのではないか?
「寄木造りの幸せ」という価値観を持たない人は、自身の「一本造りの幸せ」を意識するあまり視野が狭くなり、「寄木造りの幸せ」をもつ人が存在することを想像できていないのではないだろうか?
「お幸せに」に違和感を覚える人を非難したかったわけではない。ただ、過剰に反応する人がいたので自分の考えを書いた。
伝わりましたかね?
人に伝えるのって難しいですね。
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