恋とはなんぞや
恋ってなんだ?
先ほど、邦画『恋は光』を見終えた。この作品は、恋とは何かを定義しようと、恋についてあらゆる角度から哲学的に言語化を試みる大学生、西条(男)と他3人の女性との関係性も描く、ロードムービー的物語である。
「恋」について真剣に考えたことが無かったので、この機会に考えてみようと思う。
大学生になり、恋が何なのか今ひとつ分からなくなったと感じる。
小学生から高校生にかけては、恋をするきっかけは「容姿がタイプか否か」だった。当時から賢そうな顔立ちの子がタイプだったので、探せば学年の中に1人はタイプの女の子がいた。その子の姿を見たり、考えているだけで幸せな気分になるので、「これが恋なんだな」と解釈していた。
でも、大学生になり、恋をするきっかけが「その人の中身が好きか否か」に変わった。分かりやすい大きな変化があったわけではない。ただ、大学入学を機にタイプの人がたくさん見つかるようになったのが一因だと思う。というか、ストライクゾーンが広がった。入学時にインスタというものをインストールしたことで、タイプの女性を無限に見つけることができた。さらに大学のキャンパスでも、大学1年でも女子の化粧やオシャレのレベルがぐっと上がるので、周りはタイプの女子でいっぱいだ。キャンパスの真ん中で適当に石を投げてもタイプの女の子に絶対当たると思う。でも、ドンピシャのタイプだからと言って「=好き」とは思わなくなった。次第に、「目の保養」と「好き」という感情は別物になっていった。
大学生になり、「その人の価値観が好きか否か、その人の性格が好きか否か、その人が発する言葉が好きか否か」というものに変わった。
だから、「顔がタイプ」という理由で言い寄ってくる女子のことを信用できなくなったし、マッチングアプリやインスタを介した出会い、サークルの友人からの紹介、というものも信用できなくなった。2,3回会った程度で好きになるもんかね?と。信用できない、というのは個人的な感情なので一方的に不信感を抱いて申し訳なかった、と後になって反省することが多い。2,3回会っただけで恋をするのも中々に素敵だと今は思う。
当然のことながら人それぞれに「恋」の在り方は異なる。こじらせた考えをもつ自分が絶対的に正しいんだ!とは思えないようになった。顔がタイプだったことから始まる恋も素敵だ。これという、その人が好きな理由を言語化できない恋も素敵だ。一緒に居て一番落ち着くから、という恋も素敵だ。自分らしく居られるから、という恋も素敵だ。
少し辛辣なことを踏み込んでいえば、世の中のカップルには、本当にパートナーに恋している場合もあれば、恋人らしいことを楽しむのが好きという浅い恋の場合もあると思う。恋に軽いも重いも、薄いも濃いもあるし、善も悪もあるはずだ。でも、その人が「恋」だと思えば、それが恋なんだと思う。
なので、「その人の価値観が好きか否か、その人の性格が好きか否か、その人が発する言葉が好きか否か」という恋の定義も、現時点では自分の中で怪しくなってきている。
いろいろ考えたけど、やっぱりこの言葉にたどり着く。
どうにかしてこのnoteを読んでくれた人が納得できる「恋」の定義を見つけ出したかったが、どうも難しい。なので、せめて、個人的な「恋」の定義に関してはかっこよく答えておきたいところ。
外面以菩薩内心如夜叉。顔は菩薩のように優しいが、心は夜叉のように恐ろしい。恋をすると心が温かくなる。けど沼れば沼るほど、綺麗じゃなくなっていくし、実は元からそんなに美しいものでもなかったよ、ということが言いたかった。とある小説の受け売りだが笑。
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