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エッセイ―「大坂なおみって日本人?」

    ここ数年、心に引っかかっていることがある。女子プロテニスプレイヤーの大坂なおみ選手についてである。
    彼女は全米、全豪などグランドスラムを何度も制し、世界ランキング1位にも輝いた実力者。しかし、マスメディアが大きく取り上げるたびに、ずっと違和感を感じていた。
    「やりましたー。日本人の大坂なおみ選手が全米オープンで優勝しました」。そんなアナウンスが流れるたびに、「大坂なおみって日本人なの?」という疑問が沸くのだ。
    見た目は黒人で、流ちょうな英語とは裏腹に日本語がほとんど話せない。私は差別主義者でも国粋主義者でもないが、「これで日本人と言えるの」といつも思ってしまう。
    日本人を名乗るなら、ある程度の日本語をしゃべってほしい。インタビューでは英語一辺倒なのも気になる。
    ハイチ人の父と日本人の母から生まれたが、ほとんどアメリカで育てられ、日本人の心を持てというのも無理かも知れない。
    さらに、言動がアメリカナイズされており、日本人としてのシンパシーがかけらも持てないのである。
    彼女を取り扱うマスメディアも、その辺の事情を察し、大坂なおみが〝日本人らしくない日本人〟であることには皆目触れない。
    では、このあたりの違和感がどうして生ずるのか? それは、日本人が限りなく単一人種、単一言語に属するためである。容姿や言葉は大切である。民族のアイデンティティーに関わるからだ。
     こう述べると、日本人は排他的な民族ーと解釈されてしまうかもしれない。むしろ逆で、日本人ほど他者に寛容で、親和的な民族はいないのである。
    例えば、プロバスケットボールNBAで活躍する八村塁選手は、日本語が少し話せる。それだけで、日本人と認められるのである。
    ちょっとしたメンタリティーの問題なのだ。彼女が少し日本語を話せたら、それだけで周囲の目が変わる。「日本人・大坂なおみ」と大手を振って歩ける。少なくとも、私にはそう思えるのだ。
    
           


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