かしましかしましまし Vol.21(藤居)〜波を聞いてくれ〜 V
昼間などは依然として30度を平気で超えてくる猛暑が続いております。できる限りお外にいる時間を減らしたいと願ってやまないぼくですが、みなさんはどうでしょうか。
たまのアウトドアはやぶさかではないのですが基本的には家(と言っても外より室温の方が高い)で扇風機でも回しながら映画やドラマを見たりするのがよいですね。
ぼくは映像作品を鑑賞したあと軽い感想とみた記録を残せるようにFilmarksというアプリを利用しております。
ウェブ版だとこんな感じ。
ちなみにぼくのアカウントは @gotchatatsu になります。特に面白くもないですが感想など残しておりますので興味のある方ぜひフォローしてください。
近頃あの有名なヤクザ映画、「仁義なき戦い」シリーズにハマっておりまして、昨日も3作目の「仁義なき戦い 代理戦争」をみ終えて、感想を投稿したところです。
なんでこんな話を始めたかと言いますと、先述の感想を投稿した後にふと何気なく自分が見てきた映画の一覧を覗いてみたんです。こういうのって結構人によってはその人らしさがよく反映されたリストになってたりするもんなんでしょうが、ぼくの場合はまあしっちゃかめっちゃかでした。
直近12作がこんな具合です。
右下のセーラームーンが逆にパンチありますね。
もちろん毎日欠かさず鑑賞しているだとか、1日に何本も見るってことはそうそうないので、各映画ごとにそれなりの期間が空いて入るのですが、それにしても傾向があまりにもわからない...
例えば下の「スコットピルグリム」はかの大人気映画「ベイビードライバー」のエドガーライト監督によるめっちゃハイテンションなおふざけ連発のB級映画です。タイトルの通り邪悪な7人の元カレ(カノもひとり)となんかようわからん力でしばき合ってました。そしてその次に鑑賞している「男たちの大和 / YAMATO」は言わずもがな、世界最高峰の軍艦と称される戦艦「大和」の乗組員たちを描いた、硬派も硬派の戦争映画です。
ちょっと高低差ありますねやっぱり。もちろん作品自体のおもしろさは硬派軟派関係ないんですけど、確実にベクトルが違う感じがします。
そして「復活の日」という先週話題に少し挙げた邦画を挟んでゾンビ映画「ゾンビランド」の2作目をみてます。ゾンビ映画好きなんですよね。
そしてその後に来るのが、「戦争のはらわた」という戦争映画です。
「死霊のはらわた」ではないですよ。あっちはB級ゾンビ映画の金字塔ですからね、「戦争のはらわた」はめちゃめちゃ硬派に第二次世界大戦えがいてますから、全然違う作品です。
そして「はらわた」で連想したとかいうわけではないのですが、ヤクザ映画「仁義なき戦い」シリーズへと転換していきます。(2作目の後にガンダムがしれっとおりますね)
こういうのって良い言い方をすると多趣味ってことになるのでしょうが、やっぱり「浅く広く」って感じがちょっといやらしいというか真実味がないような気がしてしまいます。
ぼくは「〜オタク」って言われるような一点特化型の趣味を持った人の方が魅力的に感じます。そういう「一貫性」はあくまでその人固有のもので、キャラクター性を醸すものだと思っているからです。
そしてこのキャラクター性みたいな部分に変に自覚的で、キャラメイキング的な感覚で作品を摂取(もう「消費」って言ってしまいたいです)しているのがぼくのこのFilmarksに表れている事実の深層心理な気がします。シミュラークル的?(これがもう浅いんですよね...)
これはぼくが10年くらい前からぼんやり思い至っている「負い目」のような人間性の一つです。なんかいつの間にかぼくの懺悔を恥ずかしげもなく披露しちゃってしまいすみません。
つまり何がいいたかったかといいますと、ぼくはミーハーなんです。ただそれを矯正することはもう諦めております。なんせ変に自覚的なので、今までの自分がぶち壊れるような衝撃がこの身に降りかからない以上自発的に変わることはできないんです。
なので、ミーハーはミーハーでも「良いミーハー」になりたいと思います。
それはものを見る目があるミーハーということです。
そしてこれは殊にバンドに関しては、それなりに自信を持ってやってます。
ぶっちゃけるとぼくが書く曲は「オタク」ではなく「ミーハー」の音楽だと思っています。しかし自分が信じる良い音楽だけを取り入れて曲を作っているつもりです。今後とも「良いミーハー」としての矜持を作品として形にしていけたらと思いますので、よろしくお願いいたします。
それでは「良いミーハー」の代表例、我らが楽曲Wavesの歌詞解説、続きを始めていこうと思います!(ちなみに作詞作曲はぼくじゃありません滝汗)
前回も前々回に引き続きA3の部分の歌詞解説を行なっていきましたね。
「街」は何に寄りかかっているのか。「光の群衆」とは何をさすのかなど、我ながら考察も熱い展開を迎えられたのではないかと思います。
「彼ら」は「操り人形」であり自らの進路を方向ずけるための「手綱」も失ってしまいました。そんな彼らは、「縫い目にそびえる墓地」や「積まれた石ころ」の下に眠る死者の元へ惹き寄せられていきます。
そして「寄りかかる街」というフレーズを取り上げた際、「街」が寄りかかっているものはその「死者」であると考察しました。
そして「街」は「社会」の言い換えであり、「社会」は「操り人形たち」によって形成されたものだとも言いましたね。
燦然と輝く「光の群衆」が照らし出す彼ら(社会)の運命はいかに。
次の段にいきましょう。
灯台に備わるサーチライトは、浅瀬や暗礁に船が乗り上げないようにするなどに使われ、いわば「道標」のような役割を持ちます。
この「道標」を示し続けてくれるはずの灯台に「波」が覆い被さります。
ようやくきました。「波」。
「道標」はそもそも何のため、もとい「誰のため」にあったのか。それは当然「彼ら」のためと言えるでしょう。「彼ら=操り人形=渇いた靴=淡色のコート=死者」。しかしこれは「波」に攫われてしまいます。
ただこの展開は何も唐突なことではありません。
こちらで展開した考察にもありますが、
この上段にあります、「手綱」の存在。これは何度も言うように自分の進路を決めたり時にはそれを御したりしてコントロールするためのアイテムです。
すなわち「選択」の道具だと言えます。ただそれは呆気なく失われてしまい、今や「運命」のなすがままに、そして「死者」に無抵抗に引き寄せられています。
「道標」たる「サーチライトを背負った灯台」ももはや逃れる余地なく「波」に攫われていきますが、ここまでついてきてくださった方ならこれはもう必然的な出来事だと思えますね。
そしてこの歌はそんな生きる指針を失ったある種絶望的な「彼ら=社会」に対してある提案をします。
「還ろう、悲しみを波にさらして」
次回に続く
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