Bounty Dog 【14Days】 24-25

24
 
 泥の臭いを含んだ涼しい風が流れる洞窟内で、少年の声が何度も響き渡る。空気を突き刺すように勢いよく何度も伸ばされたカイの人差し指が高速で文字を書き、親指と重なって勢い良く弾く。
「コレで!どうだあああ!!」
 叫び声と共に、弾かれる指の爪から音が出る。空気は無音で何も反応しない。石の上に座りながら顎の下に両手の平を付けて膝に肘を乗せている黒ローブの子供は、静寂する空間を見てから、大股開きで息を切らしながら立っているカイを一瞥して大きく被りを振った。
「駄目ー。またまた1つも原子を刺激出来てない」
「え?!くそー、じゃあ次はこっちだ!!」
 右に90度向きを変えて、怒涛の勢いで人差し指を突き伸ばす。文字書きを空中で行ってから指弾きをするを何十回と行っても、空気から何の反応も示されなかった。
 子供は眉を寄せながら口を開く。
「もー。全然居ない所ばかりずっと突いてるよ、カイ。空気の原子は飛び回っているから、追いかけちゃ駄目だよ。来るのを待つんだよ」
「いや!オレは原子が見えねえんだよ!!だから分かんねえんだよ、追うとか来るとか言われても!!」
 半泣きになりながら抗議したカイは、高速で指を突き伸ばし続ける。次第に指の動きが遅くなって左手に抱えていた原子操作術の本を地に落とすと、膝から崩れ落ちて正座をするような格好になった。
 カイは絶望感で号泣する。 
「うええええん!うええええん!何故答えてくれないんだあああ原子!!でもオレは絶対操作するんだあああ!うおおお!!うおおおおおおん!!」
「ごめんね。ボク、無茶言っちゃった」
 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で叫びながら、半狂乱で空気を突き続ける少年に、黒ローブの子供は罪悪感を抱き始める。刺繍入りのフードが膨れて横に伸びてから縮み萎むと、長い袖から出る小さな手を顎に添えながら渋い顔をした。
「カイ可哀想。うーん、だけどこのままだと埒が明かなさそう。どうしようか……」
 地に這わせていた子供の視線が、偶然目に写った一点で固定する。カイの足元で転がっている重厚な本は開けた状態となっており、紙の端が折れて一部が破けてしまっているが、ペケ印が描かれた図と規則正しく並んだ人間の文字が子供の大きな赤い目に写る。
 風が気まぐれにページを数枚捲る。動きが止まって示されたページを眺めると、細めていた目が丸くなった。
 ペケ印が書かれた図の周囲に、手書きでメモが記されている。カイの書いたらしき子供っぽい汚い字も合わせて見受けられるが、知的な人物が書き記したものだろうその記述は、別の意味で字が砕けられていて読み難いが、無駄な表現や言い回しは一切無かった。
 黒ローブの子供は、本に目を釘付けにして黙読する。
 内容は、人間の文字でこのように記されていた。簡単な数学の式が数個。元素記号が数種。矢印が術式の図に伸びていて、印の柄の下に2つの単語。『スチール。誤。』ーー正解。ーー術式らしきミミズが這ったような模様が横に小さく書かれているが、自分は知らないものだった。唯、原子への”お願い”の内容は推測出来る。『活性』の反応も、これが原子が読める文字になっている事も。
 更にメモは続く。多くの単語がページの端に散らばっている。『精製』、『人工』、『元素』、『科学』。
 ……『ローグ』、『人間』、『罪』。
 ……『原子』、『物質』、『密集』。
 黙読を終わらせる。
(そう。原子は手繋ぎするけど混ざらない。これを書いた人間は、凄く頭が良いね)
 無意識に大きく頷いたので、フードの端が目を覆う。銀色の前髪ごと指で持ち上げて視界を確保すると、小さくだが再び頷いた。
(……成る程。納得)
 黒ローブの子供はカイを見る。正座でベソをかきながら右手の人差し指で空気を突き続けている少年に、優しく話し掛けた。
「カイ」
「何だー?邪魔するなー」
 首だけを振り向かせたカイの、赤黒く腫れた下眼瞼に半分埋まった紫の瞳が涙を溜めながら子供の顔を見つめてくる。哀れな程憔悴した少年に微笑み顔を向けた子供は、刺繍入りのフードを指で挟んで少し持ち上げた。
 額に巻かれた、数珠のような頭飾りの一部が見える。直ぐにフードが飾りを隠して、瞳孔の濁った赤い大きな目が三日月形になる。
「邪魔しないよー。あのねー、この洞窟の向こうには何があるの?」
「林と沼。さっき言ったじゃん!この泥臭え空気は、其方から漂ってきてるんだよ」
 カイは鼻を啜り動かして空気を嗅ぐジャスチャーをする。同じ動作をした黒ローブの子供は鼻腔を刺激する自然の臭いに暫し物思いに耽ると、
 石から降りて歩き出す。カイの手を掴んで立たせると、洞窟の奥へと引っ張った。
「カイ、今から其処に行くよ」
 カイは幾度目かの怪訝顔を向ける。子供は満面の笑顔を返して言った。
「カイでも操作出来る方法。其処ならありそう」

25

 洞窟の最奥に行くのに、10分も掛からなかった。眩い光が差し込む方向に2人が小走りで向かっていくと、出口は入口よりも大きな穴を開けていた。
 子供達が頭の遥か上に天井がある大穴を潜ると、なだらかな下り坂になった道の左右に、針葉樹が並んで生えている。青々とした枝木が太陽の光を遮って、木蔭の隙間で七色の光が土の地面に粒のようになって輝いていた。
 涼しくて泥臭い湿った向かい風が強くなる。先を歩く黒ローブの子供が被っている刺繍入りのフードが風に煽られると、フードの隙間から出ている数珠飾りと黒いバンダナの端が大きく揺れた。
 子供は片手でフードを抑えながら、もう片方の手でカイの右手を握る。泣き止んだ目を怪訝そうに細める少年の顔を見ずに後ろ手に引っ張りながら、子供は鼻歌を歌いながら真っ直ぐ伸びた広い土道を歩いて行く。程なく道が途切れて開けた空間に辿り着くと、
 背の高い花と雑草が生い茂る藪の原っぱの中央に、幅が10メートル程ある巨大な水溜りがあった。
 青々とした苔が縁に生えている自然の貯水庫の中に、豊富な種類の魚が泳いでいる。黒ローブの子供は水辺に歩み寄ると、しゃがんで水の中の魚達を観察する。自由気ままに過ごしている小さな生き物達は、頭上で目を爛々と輝かせている大きな生き物の視線を無視して思い思いに進んでいくと、一匹の茶色い魚が水面に上がってきて、突き出した口をパクパクと開閉した。
「コレが沼?わー泳げるくらいに大きいね」
「アホな顔して水から出てるそいつは、フナ。あと居るのはカエル、エビ、スズキ、マス、ドジョウ、ナマズ。カレイもいるぞ。ヌマガレイって言って、トマトと煮込んで食ったら美味いんだってさ」
 黒ローブの子供の傍でしゃがんだカイは、面白げの無いものを見るような目で、水から顔を出して口を動かしているフナを見る。水面近くを飛んでいる小さな虫を数匹食べた魚が、口を閉じた状態でぼんやりと遠くの景色を延々と眺めていると、
 両手で水を掬ったカイに洗顔攻撃をされて、驚いたように素早く沼の中に潜っていった。
「今は全部保護されてるから、勝手に摂って食っちゃ駄目だけどな。さて続き、原子操作術の実験の続きしようぜー」
「うん。原子の事を考えよう」
 立ち上がったカイと黒ローブの子供は、お互いの距離を離しながら移動する。向かい合わせになって止まると、沼の淵の近くに立っている黒ローブの子供は、右手の指を数字の「1」を示す形にした。
 空気を見つめてから、カイの紫色の目を見る。自身の目を七色に移り変えていくが、数秒も経たない内に元の赤色に戻った。
 指で天を示したまま、小さな口を開く。
「カイ、問題。原子って何種類あるか知ってる?」
「ん?原子……は知らねえが、元素は118種類だ。でもオレは未だ未だいっぱい、人間が見つけてねえ元素が、この世界にあると思ってる!!」
 子供の目の色の異変に気付かず、カイは自信満々に答える。掴んでいた白い鞄を肩に掛け、脇に挟んでいた本を代わりに両の腕で抱え、純粋で曇りが無い瞳を煌めかせて見つめてくる少年に、子供は真顔で返事をする。
「そうだね。原子も細かい種類はいっぱいいるし、ボクの知らない原子も居るかもね。けど、大きく分けると5つなんだ。ボクは5つの原子を”見分けて”、触れて、術式で色々なお願いをする」
 指が前に折られて、爪の先がカイの顔に向く。
「5つの原子は、炎、水、雷、土、あと『圧』。君達”人間”は『重力』や『浮力』や『磁力』って呼ぶやつかな。ボクが好きなのは炎の原子。で、カイに教えたいのは水の原子を操作する方法の1つだよ」
 手首を捻り、指先は沼の方へ向けられる。水の上に仄かに霧が掛かっており、周囲を覆う林の木々が風に揺れて細かい葉音を響かせている。沼の水面にさっきのフナが再び顔を出して、口を開閉しながら2人の子供の様子を眺めていた。
 遠くから断続的に、水が跳ねる音がする。
「此処は洞窟よりも水の原子に溢れてる。だけど此処でも、そのままだと空気の中の原子は飛び回ってるから、原子が見えないカイが刺激するのは凄く難しい」
「ええっ?!じゃあどうすりゃあ良いんだよ?!オレまたビービー泣いちゃうぞ!?」
 既に半泣きになったカイは、本を抱える腕に力を込める。黒ローブの子供は微笑すると、沼を指していた手と指をカイに向け、グルグルと回して縦に振った。
「大丈夫。カイは泣かずに、その指でボクのように原子に触れられる。ヒントは、密集」
(見事な迄に)
 横目で沼を一瞥して、フナを気だけで追い払う。子供がカイに微笑み掛けると、水面の上に浮かんでいる霧が水辺の藪の上まで広がっていった。
「此処には丁度、其れに当てはまるモノがある。カイはボクより上手なやり方を知ってそう。そんな気がする」
 指をぶかぶかの袖の中に入れて満面の笑みをする子供に、カイは目を釣り上げて自分の手を上げる。左手で本を抱え、右手の人差し指を伸ばして空気を睨むと、原子の気配を捕らえようと五感を研ぎ澄ませる。
 聴覚が水飛沫の音を捉える。視覚が、空気の中の見えない物体を凝視する。淡く白い霧が足首まで垂れてきて、肌寒さを足から頭に徐々に感じてくる。
 鼻が沼からの泥の臭さと、湿気た落ち葉の生臭さと、微かに漂う香ばしい匂いを含んだ酸素を吸う。口から二酸化炭素を吐いてから両の目を見開くと、翔ける前の準備運動をするように、短い足でその場を跳ね始めた。
 黒ローブの子供は唐突に背を向けると、沼へと歩いていく。淵まで進んで足を止めると、その場でしゃがんで両腕の袖を捲り上げた。
「カイ。ちょっと待ってて、準備するから」
「分かった!原子、其方だな!うおおおおおお!行くぜ刺激するから待ってろ!!」
 意味不明な返事に首を傾げた子供は、後ろを振り向いて目を丸くする。カイは全速力で駆け出すと、沼の外周に沿って遠方へと走っていった。

 突然置いて行かれた子供が被っている刺繍入りの黒いフードが、横に膨らんで萎む。呆気に取られてその場で暫く静止していたが、我に返ると、慌ててカイを追いかける。
 カイは暴走に近い勢いで、沼をぐるりと半周する。断続的に聞こえてくる水の跳ねる音が徐々に大きくなってくると、
 沼の淵でしゃがみ込んでいる、2人の男を見つけた。