Bounty Dog 【アグダード戦争】 6-8

6

 ヒュウラの思考は完全に停止していた。己が生まれ付き持っている強靭的な脚力を使えば、落下し尽くして地面にぶつかって潰れ死ぬまでに崖か人間が作った『箱』の壁を見付け次第、利用して跳ねながら降りたら無傷で着地出来るとか、正常な思考が動いていれば、この無謀なスカイダイビングを生存出来る結果になるように考えて実行しただろう。例えパラシュートを身に付けていても行動は変わらなかっただろう。ヒュウラはパラシュートの使い方を、ミトに教えられても全く理解していなかった。
 彼は人間が作った救命道具を捨てていた。捨てた理由は2つあった。片方は無意識。もう1つは、脳を支配している絶望という感情だった。
 喪失した心の代わりに脳に宿った、病が起こす狂気的な怠惰。何もかも全てが面倒だった。ーーどうでも良い。ーー

 うつ伏せで大の字になって落ちていく亜人の青年を迎え入れるアグダードの大地と空は、真夜中なのに非常に明るかった。10日程前に兎の亜人2体を人間達から救い出す為にデルタ達と行った、とある人間の国にある摩天楼という巨大な『箱』が犇めき合っていた場所も、夜なのに様々な色をした光が蔓延していて非常に明るかった。だが此の土地を照らしている光は、人間達の富への欲望を現した光では無い。人間達の違う欲望ーー殺戮と破壊が作り出している死の光だった。
 空を飛ぶ爆弾が、落ちた場所の全てを焼き払う。轟音と業火を吹き出して、地の所々が赤々と燃えていた。誰も姿を見た事が無い巨大な存在が広げている真紅の風呂敷のような大きな、大きな、余りにも大きな炎が、広げられている風呂敷の下に居る全ての存在を殺しながら延々と燃え続けていた。
 ライダースーツのような黒い服の腰に巻いた赤い布が、頭上で激しく揺れている。身体の彼方此方から、白くて細い煙のようになった空気が立ち上る。肺が重力に圧迫されて息が殆ど出来なかった。永遠に来ないと想える、だが実際はあと数分も経たずに訪れる、対策が無ければ確実になる死が迫ってくる。だがそんな事もどうでも良かった。
 ヒュウラは全てがどうでも良かった。
 落ちる。空から放り落とされた人間の道具のように、雲から固め落とされた雨の水粒のように、雪の粒のように、氷の粒のように。ヒュウラは何も考えずに落ちた。無機物では無く何かを考えながら此の世で生きる存在である事を放棄していた。
 落ちる。首に付けている機械の発信機から伸びているアンテナが、激しく揺れる。絶滅危惧種という、死なずに生き続ける事が大事らしい己を世話している人間達の組織が作った、己専用の発信機にはありとあらゆる機能が付けられていた。その1つであるスピーカーから、声が聞こえてきた。地から響く轟音と暴風に所々が掻き消されながらも響いてくる、人間の女の声。2人居る何方の人間の女のモノであるかも、どうでも良かった。ヒュウラは一切聴かずに無視した。
 地に身が激突して訪れる死までの距離が縮む。急速に縮む。アグダードの大地が徐々に鮮明になってきた。独特の形をしている人間の街だったが、7割以上が破壊されて瓦礫の山が彼方此方に積み上がっていた。潰れた建物の残骸らしき、高く聳え立つ石作りの壁が緩いカーブを描いて建っており、仮に心が正常だったら、ヒュウラは己が持つ身体能力と壁を使えば、身に圧し掛かっている重力を緩和させる工夫を少しすれば難なく無傷で着地する事も可能だった。
 心が壊れているヒュウラは壁を無視した。うつ伏せの大の字の恰好から微塵も動かずに無機物のように落下する。目を瞑るという現実逃避もしなかった。死ぬ運命を受け入れて、死んで、迎え入れて貰うつもりだった。冥土に居る己の”友”に。
 仏頂面が僅かに崩れた。ヒュウラは笑った。彼は笑い方を余り知らない。口角だけ上げる不器用な笑顔を浮かべて上機嫌になると、
 背中に何かが強くぶつかった。

 ミト・ラグナル保護官が、背中から己を抱えてきた。胸の部分を強く抱き締めてくる手の片側に、パラシュートのスイッチを握っている。
 ミトは眉を吊り上げて、風と爆音に搔き消されない大声でヒュウラを叱咤した。
「駄目よ、ヒュウラ!死んじゃ駄目!!あなたは絶対に喪失(ロスト)しちゃ駄目なの!!」

7

 ヒュウラが反応した。足を振ってくる。背にくっ付いているミトを攻撃しようと、即死キックを後ろに向かって振ってくる。
 宙でうつ伏せに落ちており更に背後に向かって振っている為、膝が曲がってしまって思い通りに足が動かず、あらゆる生き物の肉体を骨ごと砕いて挽肉化させる凶悪な蹴りはミトの体をかすりもしなかった。
 防衛反応をされたが、ミトは微塵も驚かなかった。迷彩柄のズボンを履いた両足を前に出してヒュウラの胴を抱えるように組む。己の身と相手の身を固定してから、ミトはヒュウラを抱えている右腕に掴んでいるスイッチに親指を添えた。狼の亜人であるヒュウラが唸ってから吠えて手を噛み、指の骨をへし折ろうとし、殴るか肘打ちをして己を振り解こうと抵抗してくる事を覚悟したが、実際は足蹴り以外の反応を相手はしてこなかった。
 ミトはスイッチを押した。己の背に張り付いていたパラシュートが解けて開く。
 カーキ色の巨大な布が、上空に放り出されて広がった。弧を描いて半月型になったパラシュートと紐で繋がっているミトが、起動スイッチから手を離してヒュウラの身をしっかりと背中から抱えた。落下速度が急激に下がる。弾丸のような速さで死に直進していた命は、救済をしに来たもう1つの命が持っている命綱に生存を保証されながら、緩やかに地に向かって降りていく。
 アグダードの大地が更に近付いてきた。パラシュートの布に風が纏った土埃と黒煙が叩き付けられる。戦争地の街は創作御伽噺のパニック映画以上に悲惨な状態だった。紫と黒と赤に覆われている人間の街はミサイルという爆弾に襲われていた。ミサイルが爆発して発生する閃光と轟音が延々と見えて響いてきた。
 この街を襲っているのは、人間への復讐に狂った亜人じゃなかった。この街を襲っている存在は人間だった。この街で生きている人間達を襲っている化け物は、襲われている存在と同じ人間だった。
 ミトは、亡き上司が任務中に良く呟いていた独り言を思い出した。上司の声が頭の中で響いた。
(我々の敵は保護対象では無い。何時だって人間なんだ)
 1体の生き物も頭に浮かんだ。黒いダボダボのローブを着て、黒いバンダナと数珠のような飾りを巻いた銀髪の頭に、雪のように白い肌、裸足、瞳孔の濁った赤い目をして、黒い大きな獣耳が生えている。物心が付いたばかりだと思う程に非常に幼い姿をした子供の亜人だった。
 ーーローグ。凄く可愛かった鼠の亜人。魔法で爆弾を作って、数え切れない数の人間と上司を殺した。でも、あの子が其れをした原因は……。
 ヒュウラだってそう。『超過剰種』の猫の亜人リンちゃん、リングも。保護した亜人も、喪失した亜人も皆、絶滅危惧種の生き物も皆。そうなってしまっている原因は……。
 人間。此の世界で起こる狂気の原因は、ほぼ全てが人間の仕業。ーー
 ミトは、これから降り立つ此の土地に居る人間以外の生き物を、どんな存在でも全て人間から保護したいと思った。
 人間によって地獄と化しているアグダードの街が、熱気と悪臭と炎を吹き出しながら人間の少女と亜人の青年を迎えた。

 パラシュートは無事に作動していた。ゆっくりと地表が近付いてくる。姿勢を横向きから縦向きにしたミトは、微塵も動かなくなったヒュウラに対して安堵と心配と苦痛に満ちた罪の意識を同時に感じると、両腕で彼をしっかりと抱えて、胴に組んでいた両足を離した。
 着地準備をする。湾曲して建っている巨大な石の壁の間を着地ポイントに指定する。ヒュウラは手をダラリと伸ばして顔を伏せていた。パラシュートが重力を緩和させて1人と1体はゆっくりと宙から地に降りていく。ミトの頭上で舞っていたドラム型弾倉付きのサブマシンガンが彼女の背中に張り付くと、ミトが小さな溜め息を吐いてから着地点を凝視して、笑った。
 笑った途端に、飛んできたミサイルがパラシュートの布にぶつかった。

8

 どの人間が何処から攻撃してきたのか一切不明だった。爆弾がパラシュートに大穴を開ける。布が瞬く間に燃えて、紐で結ばれている人間の少女と亜人の青年から命綱が喪失(ロスト)した。
 衝撃波をまともに受けて双方一緒に吹き飛ぶ。斜め上方向から下方向になって再び高速で落ちる。落下する。街自体は他所者を迎え入れたが、街に巣食っている狂人達は、相手が他所者であろうが無かろうが目に付いたモノは全て排除しようと爆弾をぶつけてきた。
 再び死に向かって落ちる。ミトはパニックになり掛けていた。ヒュウラだけは守ろうと抱えている腕に力を込める。己の身体をクッションにして地に激突すれば、己は間違い無く殉職するがヒュウラは助けられると直感で思った。絶滅危惧種を保護する為にミトは動く。身を力の限り引いて、ヒュウラを上に、己は下向きになるよう位置を調整しようとすると、
 ヒュウラが動いた。
 彼はミトを背負ったまま、街に聳え立っている石の壁の内の1つを着地ポイントに定めた。石壁の頂上部が見えると、ミトごと身体を斜めにする。壁に足の裏を付けると、膝を曲げて伸ばして、跳ね飛んだ。
 バネのように跳ねた狼の亜人は、人間の少女をおんぶしたまま進行方向に現れた別の石壁に飛び乗った。湾曲した壁の側面を、全速力で走り出す。
 ヒュウラとミトを狙っているように、ミサイルと大砲が次々に飛んできた。石壁にぶつかって爆発する。ヒュウラは後方が激しく燃え上がっている壁を俊足で走り降りると、再び跳ね飛んで、壁と壁の隙間にある幅の狭い道の上に跳ね飛びながら着地した。
 大砲とミサイル弾は標的を見失って、攻撃を諦めた。死を2度回避した亜人の青年は、背の上に乗っている少女ごと全くの無傷で、紛争地帯アグダードに降り立った。

 ミトは余りにも予想外の結果になり、酷く混乱していた。脳から分泌されたアドレナリンによる焦燥感と興奮が神経を掻き乱したものの、謎の冷静さが後に生まれ出て、終始黙ったままの状態になった。
 止まってしまっていた呼吸を、思い出したように深く行う。アグダードの空気は焼けるように熱い上に酷い臭いを含んでいた。砂漠地帯特有の凍えるような夜の寒さが、ヒュウラの背中にしがみ付きながらぶら下がっている己の足先を這っている。
 表情豊かなミトは、今の状態をどう顔で表現して良いのか分からなかった。悩みに悩んだ末に、眉を大きくハの字にした得意の困り顔になって、ヒュウラから腕を離してから地に足を付けた。
 ヒュウラに向かって微笑む。背中越しに相手に礼を言った。
「ヒュウラ、ありがとう。怪我はーー」
 ミトは途中で口を動かす事を止めた。
 振り向いてきたヒュウラは、何時もの無表情では無かった。口は横棒に近い形に結ばれて閉じていたが、金と赤の目が剥き出ているように見開かれていた。
 片目5億エードの宝石になる眼球が、収まっている窪みから飛び出そうになっている。口角が上がった。
「そうか」
 返事をしてきたが、ミトはこれ以上話し掛ける事を止めた。恐怖で全身が震え上がった。
 狂人がする、狂った笑顔をしていると思った。

 腰の一部が激しく震える。ミトはポケットから支給されたアンテナ付きの通信機を取り出すと、前面に付いた応答ボタンを押した。ボタンを押した途端に女の声が喋り出す。声はシルフィ・コルクラートのものだった。
『電話に出たということは、無事に現場に着いたようね。ヒュウラも喪失(ロスト)せずに何より』短い溜息を吐いてから、ぼやいた。『パラシュートを捨てたのは、流石に私も驚いたわ』
 ミトは様々な想いが頭の中でグチャグチャになった。余り味わいたくない紛争地帯の生々しい空気を吸って吐いて、脳と心を落ち着かせる。口元に機械を添えて、ミトは現上司に事務的な口調で報告した。
「こちらラグナル、任務地・アグダード地帯に着きました。ヒュウラも傍に居ます、何方も無傷です。此処は極めて危険なので直ぐに移動します。集合場所を教えて下さい」
 上司は予想外の応答をしてきた。
『そんなものは無いわ。自由に行動を許可する。ヒュウラの首輪の探知機能で、あなた達の場所は把握しているから。早速保護任務を開始しなさい。ヒュウラ、目立つ場所に行っちゃ駄目よ』
「え?ちょっと!?」
 通信が一方的に切られた。
 ヒュウラが動き出した。彼方に向かって黙々と歩いていく。1人と1体が降り立った場所は、街の外壁に近かった。直ぐ傍に街道らしき開けた空間が見える。現在は真夜中なので闇に覆われていて何も見えなかった。ミサイルと大砲が爆発する音で非常に騒がしい街とは真逆の、平和を感じる静けさに包まれていた。
 ヒュウラは、ミトの理想と逆の場所に行こうとした。街に向かって歩いて行く。
 ミトは驚愕と強いショックを受けた。ショックは昨日から立て続けに何度も何度も受けているが、今受けているショックが最も強烈で辛かった。
(彼が、死のうとする)ミトは涙目になった。相手を必死に追い掛けた。ヒュウラは死に場所を探すように、アグダードの地獄の街を放浪しようとしていた。
 ミトは決意した。正直、今のヒュウラは非常に怖かった。だが彼女は、だからこそと強く心に決めた。
 ーー彼はリーダーを失って心が壊れてる。狂い掛けている。私が守らないと。私が命掛けで保護しないと。ヒュウラの心を治してあげないと。ーー