Bounty Dog 【14Days】 75-76

75

 ヒュウラは、白鮎族の青年の背に乗って水の中に飛び込んだ。蛇道の水路を通って滝に飛び移り、滝壺に落ちて浮き上がり、渋柿の木と落葉樹が左右に並んで生い茂る谷川を渡って行く。
 亜人に乗って川下りをしながら、亜人は仏頂面で空を仰いだ。色濃くハッキリと形付いていた雲は、時の流れと共に淡く薄い雲に変わっている。
 近付いてくる冬季の訪れを感じる肌寒さを含んだ風が、水飛沫に濡れる身体に吹き当たる。あらゆる所から冷たいモノを浴びていても何の反応もしないヒュウラに、背に乗せながら泳いでいく魚の青年は、澄んだ高めの声でのんびりと話し掛けてきた。
「スピードアップするよ。あと、小さな滝を幾つか登るから、しっかり捕まっててえ」
「御意」
 ヒュウラは返事をして、魚の両肩を茶色い手袋を嵌めた手で握った。跨っていた背中に両足を置いて中腰で立つと、ストールのような象牙色の布を引っ張って手綱のようにする。
 白鮎族の青年は、尾鰭を大きく振った。急激に魚の泳ぐ速度が上がる。ヒュウラはストールを掴んだまま立ち上がり、板の上に乗ったサーファーのように水の上を高速で滑った。板代わりの大魚は前方に現れた小さな滝を垂直で登って行く。魚の背中を踏んだまま身を伏せて、ヒュウラも一緒に滝を登っていった。
 リバーアクティビティを満喫して、2種の亜人の川渡りは終わりを迎える。小さな川を通って大きな湖沼に辿り着くと、魚の青年は岸まで泳いで行ってヒュウラを陸に降ろした。腕の力で水から出てくると、岸の側に建っている小屋を指差した。
 魚はのんびりと口を開く。
「お疲れ様、着いたよ。彼処は人間のお家」
 直ぐに言葉を加えた。
「だった所。今は誰も住んでないよ。道具がいっぱい置いてるんだ、僕のお気に入りの場所だよ」

 返事も反応もせず、ヒュウラは仏頂面のまま小屋の外観を観察した。隣で尾鰭を敷いて立っている青年と同じく全体が真っ白いログハウスは、周囲から吹く湿気を含んだ冷たい風に当てられて、白いペンキで塗られた窓枠をカタカタ揺らした。
 ヒュウラは小屋へと歩いて行く。魚の青年も尾鰭で跳ね飛びながら後を付いて行くと、細い丸太を重ねて作られている白い扉の前で止まった。ヒュウラは仏頂面のまま片足を振り上げて、暫く静止してから足を戻して、取手を手で握って扉を押す。
 扉はすんなりと開いた。内側に付いている錆びた南京錠が、音を立てて床に落ちる。薄暗い小屋の中は広々としており、2階建てのログハウスの下階部分は、通路に併設された台所の先に6畳ほどの居間があり、部屋の中央に丸太を切り出して作られた大きなテーブルが設置されている。
 天板に本が積み重なって置かれていた。壁に殆ど空っぽになった木製の小さな本棚と、幼児用のプラスチックの玩具が入った木の箱が置かれている。 
 ヒュウラは、部屋の最奥に置かれた大きな水槽を発見した。ヒュウラが入っても容易に収まる巨大な硝子の容器の中には、水の底に敷き詰められている砂利からワカメが伸びてユラユラ揺れているだけで、他の生き物は居ない。
 エアーポンプが、空っぽの水の世界で酸素の泡を吹き出している。天井の無い水槽の背後にある窓硝子は、枠がへし折れて粉々に割れていた。
 魚の青年は尾鰭でピョンピョン跳ねながらテーブルに近付くと、側で横倒しになって床に置かれている木の椅子を起こして座った。ニコニコ笑いながら、テーブルの上に散乱した本の一冊を掴んで引き寄せる。
「きっとね、遠くから遊びに来てちょっと暮らして帰る用に作ったお家だろうね、此処。僕、他の亜人達の事も人間の事も、このお家にある本を読んで知ったんだ。此処は本がいっぱいあるよ。ヒュウラくんも気に入ると思うよ」
 魚は人間の本を開いた。『かわのおさかなずかん』と表紙に書かれている子供用の図鑑を捲りながら、亜人の青年は本と亜人の友達を交互に見つめる。ヒュウラは仏頂面のままテーブルに近付くと、天板の上に積み重なっている本の小山から、3冊を掴んで手元に引き寄せた。
 横に並べた本を、右から順番にテーブルの上に開く。1冊目『おいしいたべものいっぱい』と表紙に描かれた本は、表紙が分厚くて固い紙の素材で出来ており、ツルツルとしたビニール加工が施されている。中身は10ページも無い子供の絵本で、クレヨンで描いたような人間の食べ物の絵が、食べ物の名前を示す世界共通語の文字と一緒に描かれている。
 『おせんべい』の文字の横に海苔が張り付いた醤油煎餅のイラストが描かれたページを開いた状態で、ヒュウラは1冊目をテーブルの上に放置する。無表情のまま2冊目を指で摘んで、開いた。
 全ページがツルツルしている素材の紙で出来た100ページ程ある本のタイトルは『月刊ルアーフィッシング。淡水魚・海水魚生体別完全攻略。特集・スイートフィッシュの釣り方。御愛読御礼・特別付録付き』。川の写真と整列した人間の文字でページがビッシリと埋められており、中に小魚の形をした釣り針付きのプラスチック人形が入っている紙の箱が挟まっていた。
 ヒュウラは紙の箱を手で千切り破り、中から偽物の魚を掴み取って腰のポケットに入れる。新たな人間の道具を手に入れると、ヒュウラは雑誌を放り捨てて黒い表紙の本を持った。
 3冊目の本に、タイトルは書いていない。漆黒の表紙の中に挟まっている紙は、植物では無く動物の革で作られていた。ヒュウラは顔を伏せたまま数秒静止して、仏頂面のまま指を動かした。本を開こうとして、
 魚の亜人に静止された。
 水掻き付きの手で本を押さえ付けてくる魚の青年から、温和な印象が消えていた。生気を感じない作り物のような目がヒュウラを睨み付けてくると、
 刹那で再び元の生き生きとした優しい目に戻った。
「ソレは落書き帳だよ。読まなくても大丈夫」
 のんびりと呟いた魚の青年が、手で押さえた黒い本を引っ張る。ヒュウラは仏頂面のまま、
 青年から本を奪う。口だけを動かして一言だけ言葉を発すると、魚の亜人は動きを止めた。
 青い目が見開いて、直ぐに戻る。ヒュウラは黒い本を背後に放り投げた。
 本は、水槽の中に入った。ワカメだけが生きている水の世界に沈んで、黒い塊のままふやけていった。

76

 魚の亜人に勧められた何冊かの本を捲り読んでから、ヒュウラは人間の別荘で物色を開始した。木の枝を組んで作られた梯子を登って2階に侵入すると、2段ベッドに挟まれた寝室を通って、屋根裏部屋に繋がるアルミ製の梯子を見つける。
 梯子の1段目に足を乗せて跳ね上がると、粉砕した梯子と2階の床の一部が1階のテーブルを潰し割る。1階の壁側で本を読んでいた魚の亜人が驚愕して穴開きの天井を見上げると、屋根裏部屋に既に上がっているヒュウラは並んで積まれている大きな木の箱の中を漁り出した。
 海釣り用の太い釣り竿を1本掴んで引っ張り出す。脚で竿を押さえて少し力を加えると、アルミの撓り棒は細い木の枝のように簡単に折れた。
 ポケットの中からルアーを取り出し、無理矢理二等分にした竿を繋げている釣り糸に結び付ける。異様な形をした釣り道具を更に踏み割って3等分にしてから纏めてポケットに納めると、ヒュウラは屋根裏部屋の底に開いた四角形の穴から飛び降り、2階に開けた穴を通って1階までショートカットで降りた。
 壊れたテーブルと本の残骸を踏みながら、ヒュウラは壁に寄り掛かって本を読んでいる魚の青年に近付いていく。
 魚は小声で歌を歌っていた。澄んだ高めの声が、妖艶な音色を奏でている。
 ヒュウラは何の反応も示さなかった。顔に付いた全てのパーツを微塵も動かさず、後頭部に手を添える。首輪の背面に付いた通話ボタンを指で連打すると、口を動かした。
「もう捕まえる」
 人間の保護官達に信号を送っている狼の青年に視線を向けて、魚の青年はニッコリと微笑んだ。『淡水魚の飼い方』とタイトルが書かれた本を閉じて、のんびりと返事をする。
「そっかあ。そうだねえ、君は人間の保護活動のお手伝いをしてるんだもんね。でももう少しだけ、僕とお話しをしてくれないかな?」
 魚は壁から背を離して、尾鰭でピョンピョン跳ねながら小屋の外に出た。湖沼へと向かっていくと、ヒュウラは無表情で後を付けていく。
 浸水した魚が促してきたので、ヒュウラは魚の亜人の背中に乗った。湖沼から沢に出て、再び川下りを行う。
 片手で青年のストールを手綱のように掴んだヒュウラは、空いたもう片手で腰のポケットを弄り、折れた釣り竿とルアーのセットを取り出す。プラスチックで作られた魚の人形に付いた釣り針をストールに引っ掛けると、釣り糸が伸びる先に結ばれている三つ折りの釣り竿を三角形にして持った。ストールから手を離してハンドルを両手で持ち、直ぐにハンドルから手を離して両手でストールを握る。
 自分の身に細工が施された事に気付かない魚の亜人は、尾鰭を振って高速で泳ぎながら、のんびりと腕を水面から伸ばして、指で右方向を示した。ヒュウラが仏頂面で右を見ると、遠方の水辺で横に並んで釣りをしている、この国に生きて住んでいる人間達の姿が見えた。
 お互いに話を言って聞いて談笑しながら、水中に垂らした釣り糸を魚が引っ張るのを待っている。釣り糸付いた露が七色に光っていた。二等分された渋柿の木の葉も一枚張り付いている。
 目が一生遊んで暮らせる莫大な金になるヒュウラにも、絶滅危惧種の白鮎族の青年にも気付かない人間達を放置して、2種の亜人は更に川を下っていった。

 亜人2体は、山の下流に近い沢まで移動した。川の奥に大きな長い滝が現れると、魚の亜人の青年はヒュウラを背に乗せたまま泳ぐスピードを急激に上げる。ストールを掴んだヒュウラを乗せたまま一気に滝を登ると、頂上で大きく跳ねて宙を飛んだ。
 空を泳ぐ魚に乗ったヒュウラは顔を伏せて足下に広がった地上を見る。水の角度が垂直になる地点の手前に、張り巡らされた透明な線が見えた。
 水中に住む蜘蛛の巣を彷彿とさせる異様な物体を飛び越えて、2種の亜人は川に落ちた。魚でしか動く事が出来ない激流を難なく泳ぎ進んでいく白鮎族の青年は、己を板のようにして大股で背に踏み乗っているヒュウラに頭を踏まれてもニコニコ微笑んでいた。もう一度頭を踏まれて、のんびりとだが漸く苦言する。
「痛いよう、息出来ないよう、やめてねー」
「御意」
 口だけ動かして一言返事してから、ヒュウラは握っているストールからぶら下がる折れた釣り竿セットを川に落ちないように引き寄せてから、魚の後頭部から足を離した。
 亜人が亜人に乗って行っている生き物サーフィンは、川の最上部に辿り着くまで続いた。緩やかな流れになった水の道は、徐々に幅が狭まって小さな池に繋がっていた。
 見上げた天に広がる白濁した青色の空に、消えてしまいそうな程に薄くなった半透明の雲が流れている。池の辺りまで泳いでヒュウラを岸に降ろした魚の青年は、水から陸に上がってから、指で一辺を示して話し掛けた。
「着いたよ、此処も僕のお気に入りの場所。山と川が一望出来るんだ。キャンプに来た人間達も観察しやすいよ」
 ヒュウラは無表情のまま、水掻き付きの指が示す先に首を向けた。コンクリートの床の上に、人間が丸太を組んで作ったベンチが置かれている。並んで、野外用の灰皿スタンドとアルミで出来た野外用のゴミ箱が設置されており、細い棒を編んだような形状をしたゴミ箱の側面に、人間の文字で注意文が書かれている看板がぶら下がっていた。
『自然環境保全の為に、ゴミは持ち帰りましょう』
「人間って、忘れ物が凄く多いんだよー」
 のんびり呟いた魚の青年は、尾鰭でピョンピョン跳ね進んで、ベンチに腰掛けた。促されたヒュウラも魚の横に座る。腕と脚を組んで無表情のまま、前方に広がっている絶景を眺めた。
 新緑の山々に生い茂る幾多の種の木々が、夕刻に近付く空で沈もうとしている太陽の光を浴びて、燃えるような紅色に染まっている。渋柿の木々が、熟れた赤い実を粒のように光らせていた。自然のイルミネーション達の間で、渓流が光り輝きながら、傾斜に広げた着物の帯のように真っ直ぐ伸びては折れて、くねって山の水を運んでいる。
 水鳥達が鳴き声を上げて飛び上がり、小さな魚達が水面から跳ね飛んだ。粒のように見えた命が行う動作を見て、ヒュウラは隣に座っている超希少種の亜人に顔を向けた。絶滅仕掛けている真っ白い魚人はヒュウラの視線に気付いて満面の笑顔を返す。水掻き付きの片腕を伸ばしてヒュウラの頬に触れると、指で虹彩が金、瞳孔が赤い不思議な目を目蓋の上から撫でた。
 魚の青年は温和な青い目でヒュウラを見つめながら、口を開いた。
「僕、人間の本で自分の種が絶滅しそうだって事も、人間が絶滅しそうな僕達を保護している事も知ったんだ。僕の種が絶滅寸前なのは、色んな理由が絡まってるんだよ。ひとつは水が汚くなったから。僕の暮らしている川は未だ毒が流れてきていないけど、そのうち流れてくるかもね。キャンプに来る人間が、此処にずっと住もうとしているらしいから」
 ヒュウラは無表情のまま、顔に触れてくる魚の手を振り解いた。魚の青年は微笑みながら腕を引き戻すと、のんびりと言葉を続ける。
「後は……あーでもコレは、僕の種だけの問題じゃないや」
 魚の亜人はベンチの隅を後ろ手で掴んで正面を向いた。温和な印象を与える青い目を細めて、愛おしそうに美しい山と谷川の景色を眺めている。
 ヒュウラも同じ方向を見て、同じ景色を眺めた。魚の青年は小さな声で歌を歌い出すと、数分間奏でたメロディを唐突に止めて再びヒュウラに振り向いた。
 ニコニコ笑いながら、独り言のように話し出す。
「生き物は、人間も他の生き物も生まれてから向かう道は、最期は死ぬっていう同じ道なんだ。生き物の1つの種が皆んな死んで居なくなる『絶滅』は、今は人間による影響が大きいけど、それよりも多い原因は自然淘汰なんだよ。他の生き物達が進化して生き残っていく中で、進化出来なくて生き残れ無くなって居なくなるんだ。誰のせいでも無い、それはその生き物の種の運命なんだ」
 ヒュウラは返事も反応もしない。振り向く事も無く横顔を見せてくる狼の亜人に、魚の亜人は目を三日月形に細めた。
「君の種は凄く力が強いし頭も良い。人間が居なかったら、きっとこの世界で代わりに覇権を持っていたかもね。でも僕達、亜人種は人間に比べたらきっと弱いのかもね。でも人間だって自然では全然強くない」
 狼の反応は無だった。魚は言葉を続ける。
「君のような脚力は無い。僕のような泳ぎの速さも無い。垂直の壁を登ることは出来ないし、綺麗な音を出せる羽を持っていないし、手だけで穴を掘れない。見えない物質を見る事が出来る目も、勿論持っていない」
 ヒュウラが顔を向けてきた。首以外の全てのパーツが微塵も動かない狼に、魚は満面の笑顔をしながら話し続ける。
「人間は知恵があったから他の生き物よりも強くなったんだと読んだ本に書いていたけど、僕は違うと思う。動物や植物や亜人の方がきっと遥かに賢い。人間がこの世界で覇権を握れたのは、ありとあらゆる物を食べようとして食べ、利用しようとして利用する狡猾さだよ」
 魚は横目で、ゴミ箱に書かれている看板を一瞥した。『自然環境保全の為にーー』。ベンチに座りながら舟漕ぎをすると、尾鰭を浮かせて翡翠色のおおきなヒレに太陽の光を当てる。宝石のように艶やかに光る己の身体の一部を地に付けて、絶滅危惧種の亜人は人間を語った。
「人間はこの世界にあるもの全てを支配し尽くそうとする。その狡猾さが他の生き物より遥かに秀でていたから、彼ら彼女らは覇権を握れたんだ。貶すものじゃないよ、凄く天晴な力」
 ヒュウラは無表情のまま、首を傾けた。魚の亜人は口角を上げて嬉しそうに笑う。
 言葉を続けた。
「だから僕はそんな人間ですら、とても好きだし尊敬してる。だけど、とても恐ろしいとも思うんだ。自然に住む生き物は皆んな流れていく川の流れを、自分だけ堰き止めているんだから」
 魚の亜人はベンチから腰を上げた。尾鰭でピョンピョン跳ね飛びながら、池の方へと向かっていく。
 ヒュウラは無表情で、ゆっくりと歩いて後を追った。水辺を眼前にして、魚の青年がヒュウラに振り向く。
 ニッコリと微笑んだ魚は、ヒュウラの首を覆うアンテナが付いた機械の輪を見ながら尋ねた。
「ヒュウラくん。君に僕の保護をお願いしている人間と君は、一体どんな関係なの?」
 ヒュウラは口だけを動かして答える。
「デルタとミト。俺の友」
 魚の青年は、満面の笑顔をして呟いた。
「友達かあー、良いなあ。じゃあ君も人間の事が大好きなんだね」
 ヒュウラは、即答した。
「何とも思わない」
「君って良く分からない。不思議な子だねえ」
 魚の青年は苦笑してから、縁にしゃがみ込んで池の中に尾鰭を浸す。ヒュウラは目をやや釣り上げて、背を向けて水に浸かる魚の亜人を見た。
 魚の亜人の上半身に巻かれている象牙色のストールから、糸に結ばれた釣り竿のハンドルがぶら下がっていた。