Bounty Dog 【14Days】 79-80

79

 激流の川に、ヒュウラは押し流されていた。水中で延々と身をグルグル回転させられる。
 視力と重力が混沌と化した水の世界に閉じ込められて、ヒュウラはどんどん流されていく。轟く水の音に聴力も役に立たず、呼吸すら真面に出来ない恐怖は、標準状態である無表情を完全に崩した。限界まで目を見開いたヒュウラは必死に水面から顔を上げようと手で水を掻く。
 泡立つ水が揺れて出来る波の隙間から顔を出して念願の酸素を獲得すると、水の轟きの中から小さく声を聞き取った。高速で救助をしようと泳いでくる白鮎族の青年が、切迫した顔をしながら仕切りに指示を叫んできた。
「ヒュウラくん!足を絶対に底に付けないで!!泳いで浮かせて!怖い忘れ物に引っ掛かって死んじゃう!!」
「御意」と言おうと口を開けるが、水が発言を封じ込めた。口の中に川の水が押し寄せてくる。ヒュウラは溺れないように直ぐに口を閉じて、波の間から出した鼻で大きく息を吸い込んだ。顔から露わになっていた感情を再び無にすると、水中に潜って抵抗を止める。
 背を下に向けて仰向けに浮き上がったヒュウラの真下に、無差別に生き物を切り刻む糸の群が敷かれていた。激流は、水中では凶悪さを抑えている。身体の自由を取り戻したヒュウラは延々と流されながら、危地からの脱出方法を考えた。
 魚の亜人が、尾鰭で水を叩きながら追跡する。
 川は二手に分かれた。ヒュウラは右に行こうと身体を傾けるが、大自然の猛威は個の命から選択権を奪い取る。浅瀬になった分岐点で渦と化した水流がヒュウラを左側に押し込んだ。無から動に再び変わった顔のパーツは、焦りを形作って表している。
 流される。どんどん流れが早くなる。魚の亜人が追いかけてくる。上半身に巻かれたストールに引っ掛かっているルアーに結ばれた釣り糸が、三角形に折れた釣竿を引っ張っていた。
 ヒュウラは酸欠の恐怖に襲われる。茶色い手袋を嵌めた手を水面から突き出して水を掻く。魚の亜人は腕を伸ばしてヒュウラの手を掴んだ。が、水にふやけた革の手袋は、持ち主の手から外れて置き去りになる。
 魚は大声で叫んだ。
「ヒュウラくーん!其方は凄く危ない!!泳いで!岸まで泳いで!!」
 返事も反応も、したくても出来ない。魚の亜人は手袋を握ったまま、全速力で泳いだ。ヒュウラは川の底に足を付けようと顔を水底に向ける。人間が作った糸が蜘蛛の巣のように絡まり合って、腐った魚の生首を所々にぶら下げていた。
 狂った遊具が、獲物の肉を喰い千切ろうと川底を這っている。ヒュウラは両足を交互に動かして泳ぎ浮いた。水中を転がってくる石に目を向ける。大きな石が近付いてくると、ヒュウラは手を伸ばして石を掴んだ。手を後ろに回して身体を前のめりにする。
 石を足の平に付けると、踏み台にして力の限り蹴った。弾丸のように高速で跳ねたヒュウラは、直ぐに水の流れに押し流された。
 武器の脚力すら無効にされる。ヒュウラは転がりながら流されていった。川の幅が徐々に広がっていくと、背後から別の音が響いてきた。
 川にある全てを奈落の底に落とす巨大な滝が、手前に釣り糸をバリケードのように這わせて獲物を待ち構えていた。
 白鮎族の青年は、泳ぐスピードを加速させた。尾鰭を上下に振りながら、ヒュウラを捕まえようと両腕を伸ばす。
 水中で口を大きく開閉して何度も指示を伝えてくる。
「ヒュウラくん、泳いで!岸まで泳いで!!」
 ストールから伸びている糸の先に繋がった釣り竿のハンドルが、水流に乗って魚の亜人よりも先行していく。
 ヒュウラは指示に従う余裕が持てなかった。水流が延々とさせてくる後転を自力で止めると、泳ぐ。斜めに向かって必死に泳ごうとする。
 遥か先にある岸へ向かって足を振る。魚も同じ方向に泳ぎ出した。ヒュウラを救おうと必死に泳ぐ。
 水底に落ちている大きな石を、水流が転がした。釣り糸を巻き込んで更に大きく、大きく膨らんでいく。人工の狂気を纏った自然物が水面に浮かぶと、2種の亜人の間に割って入ってきた。魚の亜人は腕を引くと、尾鰭を前に突き出して急停止する。
 石を迂回しようと鰭を動かすが、激流に行動の自由を奪われた。滝が迫る、どんどん迫る。垂直に折れる水の帯の手前に張り巡らされた八つ裂きの罠が迫ってくる。
 ヒュウラは大石に蹴りを放った。水に力を弱められるが、即死級超凶力キックを4、5回受けた石は音を立てて砕ける。
 水中を舞う糸の束を、手袋が脱げた右手で握り閉める。掌の皮膚に食い込む糸の隙間から血が噴き出る。ヒュウラは糸の束で身が流されないように固定しながら岸に向かって泳いだ。滝が更に迫ってくる。
 糸に流されてくる割れた石が連打でぶつかった。徐々に解れて、遂に切れる。命綱を奪われたヒュウラは水中で投げ出された。魚の亜人が尾鰭を振って水面を叩く。大きな波紋が波になる。魚雷のような速さで、魚はヒュウラに接近した。
 ヒュウラは、背から滝の入り口に吸い込まれる。張り巡らされた釣り糸の蜘蛛の巣が背中に当たって肉に食い込むと、
 魚の亜人の腕が、ヒュウラの腕を掴んだ。
 尾鰭が強く水面を叩く。吹き上がった波紋が波を作り出すと、魚はヒュウラを抱き寄せて旋回する。釣り糸の処刑具から離れていくと、激流を逆走して岸へと泳いでいった。
 川底から伸びる釣り糸の束の残骸に、割れた石の塊が2つ絡み付く。石が徐々に持ち上げられると、端と端に石が結ばれた一本の糸切り用の刃になって流れてきた。
 魚の亜人は尾鰭を振って岸へと泳ぐ。抱えられたヒュウラも足を振って一緒に泳ぐ。岸は間近に迫ってきた。歓喜に目を輝かせた魚の亜人が尾鰭を振って最後のダッシュを仕掛けると、
 水中を飛ぶ糸が、魚の尾鰭にぶつかった。

 糸が滝の下に落ちていった。ヒュウラは岸を手で掴んで身を引き寄せる。腕の力で身体を持ち上げて陸に上がった狼の亜人は、そのまま横向きに倒れた。九死に一生を得て、爆動する心臓を落ち着かせる。
 同じく陸に上がっている魚の亜人は、茂みの中に倒れていた。うつ伏せになって上半身を草から這い出させると、ヒュウラに向かって話し掛ける。
「ヒュウラくん、無事で良かったー。でもねえ、凄く困った事になっちゃった」
 ヒュウラは憔悴した顔で魚の顔を見た。魚の亜人はニッコリ微笑んで茂みから這い出てくると、
 膝上の部分から下の尾鰭が、切り取られて無くなっていた。
 魚は、苦笑しながら言った。
「僕はもう、二度と泳げない」

80

 ヒュウラの目が釣り上がった。ニコニコ笑顔を浮かべている魚の切断された尾鰭から、血は一滴も出ていなかった。断面は白身魚の切り身のような薄いピンク色の肉が露わになっており、真っ白い艶やかな鱗に覆われた表面が、薄ピンクの肉の色と調和している。
 グロテスクさを全く感じさせない非常に綺麗な切断面を己で見てから、魚の亜人はヒュウラに顔を向けて口を開いた。
「僕はあんまり痛いのを感じなくてねえ。今もそんなに凄く痛いって感じないよ。だけど痛覚が全く無いって訳でも無いから、痛いかと聞かれたら痛いって答えるよお。ふふふ」
 クスクス笑い出す。ヒュウラは目を釣り上げたまま身を起こした。腰に巻いた赤い布を解いて、含まれている水を絞って地に捨てる。
 水切りをした赤い腰布を風呂敷のように広げる。魚は布を持って近付いてくるヒュウラに、のんびりと話し掛けてきた。
「しょうがないねえ。ヒュウラくん、お願いだけど僕を」
 ヒュウラは、布を地面に広げて魚を抱え上げた。布の上にうつ伏せに置いて、魚の下半身を布で包む。もう一度抱え上げると、ヒュウラは走り出した。顔は無表情になっていたが、俊足で川上に向かって走った。
 魚はのんびりと、ヒュウラに話し掛ける。
「ヒュウラくん。君は他の命が伝える事を良く聴くべきだ。物凄く後悔する前に」
 川に沿って山を走り登り、ヒュウラは山頂にある大きな池まで辿り着いた。池の傍に敷かれたコンクリートの床に置かれた丸太のベンチに、魚の亜人を横倒しにして置く。
 絶滅危惧種の白い鮎の亜人は、瀕死だった。死が近付いている身体が鈍くも痛みと苦しみを与えてきているらしく、弱々しく息をしながらヒュウラを見上げている。
 微笑み顔を崩さなかった。ヒュウラは魚の上半身に巻かれているストールから釣り竿のハンドルを結んだルアーを外すと、仏頂面で魚を見下げながら、一言だけ言った。
「待っていろ」
 ヒュウラはベンチに魚を置いたまま、踵を返して山を降りていく。置き去りにされた魚の青年はベンチの上で横たわりながら、傍に置かれているアルミのゴミ箱に掛けられた注意看板を凝視した。
『自然環境保全の為に、ゴミは持ち帰りましょう』

 ヒュウラは俊足で滝の傍まで戻ってきた。滝の入り口に張られている釣り糸の罠を一瞥してから、滝壺を覗き込む。
 白鮎族の切り取られた尾鰭が、壁から突起している岩の上に乗っていた。糸に細切れにされずに綺麗な形で岩に乗っている尾鰭は、落ちてくる水の帯を浴びて徐々に岩の外へと押し出されていた。
 翡翠色の宝石のように艶やかで美しいヒレが、まるで生きているようにピクピク揺れている。ヒュウラは尾鰭を凝視しながら、其処に辿り着くまでの経路を探した。目的物が乗っている一枚岩以外は、垂直の岩壁しか見当たらない。
 仮に岩場に飛び乗って尾鰭を拾っても、崖から降りる事も登る事もヒュウラには困難だった。足場にする別の崖も無い絶望的な環境で、ヒュウラは滝の底に押し出されそうになっている尾鰭を見ながら、口を開いた。
 友である亜人の名前を呟いた。
「リング」

 胴から手足まで蓑虫のようにロープでぐるぐる巻きに縛られてログハウスに置き去りにされているリングは、壊れたテーブルの上で1人でニャーニャー鳴き声を上げていた。クレヨンのような画材で描かれた鮪の刺身のイラストの横に『おさしみ』と文字が書かれた子供の絵本のページを眺めながら、弱々しく一声鳴いてぼやく。
「ウニャー。ニャー、捨てられた……ニャー、デルタ、倒す!ブニャー!!」
 怒りが満ち溢れると、リングは頭と腰を振りまくって抵抗し出した。床をゴロゴロ転がってログハウスの外に転がり出ると、そのまま苔と水草が生えた地面を転がり進む。
 木にぶつかって、袋の中に柄を入れて立て掛けられていたヒュウラの巨斧を倒す。リングは横向きになった巨大な刃にロープを擦り付けて、拘束具を切り裂いた。自由になった身体で立ち上がると、大きく一声鳴いてから、天に向かって呟いた。
「ニャー。ヒュウラあー、何処ニャ?」
 山の彼方から、音が聞こえてきた。甲高い笛のような音色が聞こえてくる。
 リングは両手をオレンジ色の毛が生えた尖り耳に当てて、前のめりになる。音に耳を傾けると、聞こえてきたメロディに反応して嬉しそうに鳴き声を上げた。
「ニャー!ヒュウラ、あっち!コレ、持つ、直ぐ行くね!!」
 リングはヒュウラの巨斧を掴んで両手で担ぎ上げる。もう一度大きな鳴き声を上げると、川上に向かって走り出した。

 ヒュウラは渋柿の葉を丸めて作った草笛を吹き鳴らしていた。リングに伝わるように、猫の鳴き声に似たメロディで自然の楽器を奏でている。
 巨斧を担いだリングが、滝の下まで走ってきた。崖の上から見下ろしてくる友に向かって大きな鳴き声を上げる。ヒュウラは無表情のまま口に咥えた草笛を吹くと、右の腕を伸ばして白鮎族の尾鰭を指差した。左手に三角形に折れた釣り竿とルアーを掴んでいる。
 リングは尾鰭に気付くと、舌で唇を回し舐めて歓喜の鳴き声を上げた。
「ニャニャー!ご馳走、美味しそう!魚、あいつ、切り身、したニャ?」
 ヒュウラは無視して命令する。
「行け」
 リングは『了解』を大きな鳴き声で伝えた。斧を担いだまま滝の横の石壁に向かって全力疾走すると、足首を捻って壁を走り登る。
 難なく尾鰭の置かれた一枚岩まで登っていくと、更に少し登ってから足を壁から離して岩の上に着地した。水を浴びて跳ねながら艶やかに光る美しいヒレを目の当たりにして、リングの食欲が急激に増す。
 ヒュウラは、目を爛々とさせるリングが鰭を口で咥えようとした同じタイミングで、右手でルアーを握り、三角形に折れた釣り竿を滝の下に垂らす。
 リングの側まで釣竿が下りてくると、突然の道具を差し出されてリングは首を傾げる。天を仰いでヒュウラを見てくると、ヒュウラは無表情で竿を尾鰭に付けては離すを繰り返す。
 リングは趣旨を理解して首を大きく縦に振った。鳴き声を上げて頷きながら呟く。
「ニャー。ヒュウラ、魚、取りたい。ニャー、手伝うね」
 リングは手に掴んだ巨斧を石壁に叩き付けた。刃が石の間に挟まって棚板のように突き刺さる。
 尾鰭を手で握り拾ったリングは、横向きに刺さった斧の刃の上に尾鰭を置いた。三角形に折れた釣竿が手元に下されてくると、リングは竿を開いて尾鰭に突き刺そうとする。
 が、頭上から仏頂面で見下げてくるヒュウラの視線に、棘を感じて竿を閉じた。服の袖に付いた赤い飾り紐を解いて、三角形の竿の中に差し込んだ尾鰭と竿を結び付ける。2本の飾り紐を使って、しっかりと尾鰭を固定した。
 即席のテーブルで作業を終えたリングが鳴き声で合図をすると、ヒュウラはルアーを持って後退し出した。釣り糸で結ばれた竿と尾鰭がリングの頭上にどんどん持ち上げられていくと、リングは目を爛々と輝かせながらヒュウラの作業を応援した。
「ニャー。ご馳走、引っ張れニャー。ソレ、焼く、一緒に食べようね」
 尾鰭は滝の上に登って、リングの視界から消えた。リングは岩の上で胡座をかいて座り、ヒュウラから次の指示が来るのを待つ。
 待つ。待つ。延々と待つ。待ちぼうけをしたリングは次第にソワソワ身を動かして眉を寄せると、巨斧を石壁から引き抜いて背負い、足首を捻って石壁を走り登った。
 滝の上に着くと、川辺を走り回ってヒュウラを探す。姿の見えない友に向かって大きく2、3度鳴き声を上げると、草笛の音色が返事をした。
 音色は、山の登る方向から聞こえてきた。足元に顔を伏せると、帯のようになった浅い水溜りが同じ方向へと伸びていた。
 リングは察した。鳴き声交じりに呟く。
「ウニャー。魚、取られた、置いて行かれた……ブオオニャアアアア!ヒュウラ、倒す!ニャー、お前の友!!」
 猫の怒りが頂点に達した。巨斧を振り回しながら理不尽な友を倒す為に追い掛ける。猫と狼が白い魚を目指してマラソンを開始すると、猫の背後から人影が現れた。
 ミト・ラグナルが、亜人達を追跡した。

 ミトは通信機の赤と黄色の点が表示された画面を切り替えて、機械を耳に添えた。緊張した面持ちで正面を向くと、斧を振り回しながら走るリングの背中が見える。
 合わせて、粒のように小さいが彼方にヒュウラの背中も見えた。白い大きな魚の尾鰭のようなモノを抱えて山を駆け登っていく。
 右の足先から襲い掛かる激しい痛みを無視して、ミトは全力疾走した。リングは腕が疲れたのか、斧を振るのを止めてブニャブニャ鳴きながら斧を担いで走り始める。ミトは通話を開始した。上司のデルタに近況報告を行う。
「こちらラグナル。F147から159まで移動中。前方にリングを見付けました。彼女の目先にヒュウラもいます!2体とも山を登っています!!」
『了解した、ラグナル保護官。ターゲットもきっとその先にいる。”彼”を含めて3体とも保護してくれ。最悪デコピン以上になってしまうが、麻酔弾でリングとヒュウラは撃て』
「了解しました、リーダー!!」
 ミトは通信機をポケットに入れて、ドラム型の弾倉が付いたサブマシンガンを構えた。若干引き摺っていた右足を気合で強引に動かす。少女が気合入れに放った雄叫びを聞いて、リングがミトの存在に気付いた。強靭的に柔らかい関節を使って、首だけを背後に振り向ける。
「ビニャー!!」
 大きく一声鳴いて小さく飛び上がり、猫は走るスピードを上げた。ミトも走る速度を上げる。銃身を持ち上げて、照星(フロントサイト)越しに亜人達を覗く。先頭を走るヒュウラは一切反応しなかった。
 咥えていた草笛を口から離して捨て落とすと、狼の亜人は突然直角に曲がった。
 激流の川に向かって走り出す。リングとミトが追い掛ける。ヒュウラは川の縁の近くで足を大きく振り上げると、地面を蹴って斜めに飛び上がった。
 高く高く飛び上がって、川の向こう岸まで飛び越える。踏まれた地面が割れた。落とし穴のように深い大きな穴が開く。ヒュウラが着地すると同時に、リングが止まれずに穴に落ちた。猫の鳴き声で悲鳴が上がると、ミトは穴の手前で急停止して通信機を取り出し、上司に状況を伝えた。
「ラグナルです、ヒュウラに川を飛び越えられました!この川は流れが早過ぎます!!リングはヒュウラに倒されたので直ぐに回収出来ます。リンちゃんを回収してから、大回りになりますが渡れる場所まで移動します!!」

 落葉樹の根元で、足を投げ出した格好で座っている水濡れの青年は、外していた銀縁の眼鏡を目に掛ける。手の中に収めている、眼鏡のフレームに引っ掛かっていた釣り糸を見ると、糸にこびり付いた生き物達の腐った肉に、心が強い痛みを受ける。
 デルタ・コルクラートは顔も傷付いていた。リングから受けた無数の引っ掻き傷が殆どだが、デルタは頬に付いた違う物に手で触れた。
 白鮎族の青年に平手打ちされて出来た腫れ傷を撫でながら、ミトに返事をした。
「了解した。必ず彼を保護してくれ、私の恩人だ」
 デルタは側に置かれていた白銀のショットガンを掴んだ。銃口を下にして杖のようにすると、身を持ち上げて起き上がり、足を引き摺りながら歩き出した。

 ヒュウラは池に戻ってきた。池の側にあるコンクリートの床の上に置かれたベンチに向かって走っていくと、座部を見て、金と赤色の独特の目を釣り上げる。
 尾鰭を座部に置き、首を左右に振って、一点を凝視すると、すかさず駆け出した。池に向かって這いずっていく白鮎族の青年を背中から抱えて捕獲すると、ベンチに連れ戻す。
 ヒュウラは尾鰭の切れた魚の亜人に、切れた尾鰭を渡した。座部の上に横たわった魚は弱々しく笑うと、諭すようにヒュウラに話し掛ける。
「ヒュウラくん。コレはもう繋がらないし、もし繋がっても、尾鰭だから多分きっと動かせないよお」
 ヒュウラは目を釣り上げたまま、口を動かして言った。
「生きろ」
 左手に掴んだルアーと釣竿から、釣り糸を外す。尾鰭と魚の切れた断面を合わせて糸で結びつけようとすると、
 大きく被りを振った魚の亜人は、怒ったように目を釣り上げてヒュウラに言った。
「ヒュウラくん。それは”人間”の考え方だ」
 魚の亜人の青い目に優しさは消えていた。ヒュウラは金と赤の目を見開いて魚の顔を凝視する。白鮎族の青年は、雪のような白から青になった肌に付いた綺麗な顔で険しい表情をすると、震える口を動かしてヒュウラに諭した。
「自然だったら、僕はもう泳げないからこのまま死ぬしか無い。それで良いんだよ。今日死ぬ僕は、僕を食べる他の強くて賢い生き物達が明日を生きていく為の栄養になる。それが弱肉強食、命の循環っていうものだよ」
 腕に並んで付いているナイフのように鋭いヒレで、釣り糸を切り裂いた。尾鰭がベンチの下に落ちる。ヒュウラは落ちた尾鰭を拾って、魚に手渡した。魚は苦笑しながら自分の体の一部を受け取り、片手で抱える。
「皆んな皆んな命は、命同士を支え合う役目を持って産まれて死ぬ。人間は放棄してるんだよ。自然から与えられている、命の本来の役目を」
 魚は腕の力で身を起こした。ベンチに腰掛けるように座ると、ヒュウラを見つめる。ヒュウラの顔は無表情になっていた。
 魚は再び優しい目をして微笑んだ。苦しみに耐えた引き攣った笑顔をして口を開く。
「ヒュウラくん。お願いだよ、歪めないで。これはねえ、僕が君に1番話しかった事なんだ」
 尾鰭を抱えて、魚の亜人はヒュウラを見つめる。ヒュウラは仏頂面をしながら魚を見返した。
 魚の亜人は、懇願した。
「歪めないで、歪めないで。ヒュウラくん、僕の望みを叶えて」
 ヒュウラは静止していた。死にゆく友を見つめる金と赤の目に、感情の変化を感じなかった。顔の全てのパーツが1ミリも動かない。無表情の狼の亜人は魚の亜人を見ながら数歩後退りをすると、
 口だけを動かして答えた。
「御意」
 ヒュウラは魚の亜人に蹴りを放った。魚の亜人は、屈託のない晴れやかな笑顔で笑った。
 口パクでヒュウラに5文字で感謝の言葉を言った。蹴りを受けた魚の青年は、粉砕して挽肉になった。
 凶撃に巻き込まれて潰れ壊れたベンチとゴミ箱が、瓦礫になって彼方へと蹴り飛ばされた。ゴミ箱から外れた看板も砕け壊れると、全ての命に対する新たなメッセージを宙を舞っている間、示した。
『自然』『に、』『帰りましょう』


 ヒュウラはゆっくり歩いた。赤い自分の腰布で包んだモノを抱えながら、池に向かって歩いていく。
 池の縁の前で止まると、ヒュウラは身を伏せて布を広げた。形をもう留めていないが”彼”だったモノを両手で掴んで、池に放り投げた。
 ソレが池の水に解されて一面に広がった。魚が寄り集まってきて、ソレを突いて食べた。
 空を飛ぶ鳥が鳴く。風が吹く。木がそよぐ。動物達が山道を走っていく。雲が流れ過ぎる。日の光が落ちていく。
 ヒュウラは池の水面だけを見つめていた。表情は変わらない、仏頂面のまま。ただ頭の中で響いていた。もう此の世界に居ない”友”の声が響いていた。
(人間は放棄してるんだよ、自然から与えられている自分の本来の役目を。歪めないで。歪めないで)
 何度も何度も、のんびりとしているが『自然と共に生きる』事に対して全てを悟っていたかのような威厳のある、あの声が頭の中で延々と響いていた。


 保護官達が池に到着すると、ヒュウラは速やかに拘束された。デルタは池の縁に座り込むと、悲鳴のような怒号を叫んだ。塞ぎ込んで拳で地面を何度も何度も何度も殴る。
 ミトは、胴を縛られて座らされているヒュウラの両肩を掴んで振り向かせた。ヒュウラはいつもと同じ、感情が一切分からない仏頂面をしていた。
 象牙色のストールを後ろ手に握っている。ルアーが布の端に引っ掛けられてぶら下がっている。涙を流さない、眉を寄せない、目も釣り上げない人形のような表情をしている亜人の青年を見て、ミトは思った。
 ーー私はヒュウラが好き。保護して良かったと思う、出会えて良かったと思う……だけど。ーー
 肩を握る手に力が加わる。全身が震える。相手へ抱く感情は、強い憎悪に変わっていた。
(このロボットみたいな顔が時々、無性に腹が立つ!!)
 絶滅危惧種を殺した絶滅危惧種を、デルタは部下の保護官に指示をして速やかに輸送させた。足もロープでぐるぐる巻きにされて男性保護官の肩に後ろ向きに担がれたヒュウラは、無表情のまま手からストールを離して、川の中に落とした。
 ストールは水と一緒に流れていく。自然の一部として河川に攫われていく『彼』の形見が見えなくなると、ヒュウラは瞼を閉じた。顔を伏せて眠るように力を抜くと、デルタはヒュウラを担いで歩いていく部下を追いながら、震え出した通信機をポケットから取り出して、耳に当てた。
 機械から、保護組織の最上幹部の男の声が響いた。激昂した上司はデルタの耳の鼓膜を破ろうとする音量で非難を始めた。
『情報部から聞いた!!Sランク、喪失(ロスト)だと?!何て事をしてくれた!!だから初めから亜人なんかを使うのは反対だったんだ!!』
 (……”なんか”?)言われた言葉を非常に不快に思ったが、デルタは異論を唱えず反応もしなかった。上司は金切声を上げながら部下を延々と侮辱する。否定と圧力を散々に掛けてくると、此方に後頭部を向けて運ばれていくヒュウラを見ると同時に、機械の先にいる幹部が怒鳴り声で言い放った。
『コルクラート。あの馬鹿犬を、今直ぐに保護施設に送り込め!!』

【14Days】続 81