Bounty Dog【Science.Not,Magic】0-θ

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「誰か、俺を助けて下さい」
 タクト・ディスペルは死に掛けていた。特に腰が死に掛けている。痛みは胸からも襲ってきており、左胸の肋骨付近からも強い痛みを感じていた。ストレスだった。数ヶ月間受け続けている過度なストレスと、数ヶ月間殆ど休まずに、中腰で作業に明け暮れていたせいだった。
 北東大陸上部の自然豊かな国にある小さな寒村にある自宅のベッドで、タクトはうつ伏せになって倒れていた。見舞いに訪れていた農夫の1人が、彼の腰に即効性があると人間達の間で評判が高い第1類医薬品の冷湿布を、介の字の形になるように貼ってやる。
 感覚を喪失し掛けていた19歳の青年の、腰の感覚が蘇った。腰は蘇ったが胸の神経から未だ攻撃を受けてウンウン唸っている青年が寝ているベッドの横に、紙の山が積み上がっている。農夫は困り顔をしながら、最上の紙を1枚手に持って眼前に掲げた。
 紙はポスターで、探し人と世界共通語で書かれていた。引き伸ばされた写真が1枚載っており、9歳の男児の上半身が写っている。白い肌に赤紫色の目。胸元まである長い水色系銀髪を赤いシュシュで二つ括りをしている子供は、一見しただけで生意気な性格だと分かる、ニヤついた笑顔をしていた。
 農夫は”クソガキ”と書きたいと思った名前の箇所に、クソガキと書かれずにフルネームが書かれていた。失踪日は3月下旬。今日は6月6日で、既に2ヶ月以上行方不明になっている、まごうことなきクソガキだった。
「誘拐じゃ……無いですよね?」タクトが枕に顔を埋めたまま呟いた。「あの……半年前に煙のように消えたらしい、大量殺人鬼のテロリストにとか」
「家出だよ」
 農夫の男は、冷ややかな顔をして連邦国家から一時帰省している大学教授に返事した。彼の眼前でうつ伏せ寝している此の青年は、10歳離れた幼い弟の世話と農作業をしながら自宅で毎晩黙々と勉強していた。両親が病死しており通っていた小学校は中退しているが、世界一入学と進級が難解だと評判の北東大陸連邦国家にある某大学の理学部に11歳の時に独学だけで超飛び級合格し、半年も経たずに理学の全単位を取得し、1回生から大学院生に超飛び級した後に12歳で博士号を取得した、理学と化学と科学の天才である。
 全人類の10億人に1人居るか居ないかの超人頭脳を持った男の弟が、現在行方不明だった。農夫はベッドの上でうつ伏せのままシクシク泣き始めた若き天才大学教授の塩水に濡れている顔の近くに、小さな紙を1枚置いた。
 紙は手紙で、御世辞でも綺麗だといえない殴り書きのような子供の字で、エゴ極まり無い文章がデカデカと書かれている。
『兄貴へ。スーパーウルトラハイパースペシャル格好良い原子操作術士になる旅に出るぜ。探さないでOK。 カイ・ディスペル』
「スーパーウルトラハイパースペシャル、迷惑掛けやがった」腰痛&胸痛に苦しめられながら未だシクシク泣いている兄の方に向かって、極々普通の頭脳を持って生まれて生きている農夫の男は、長い長い溜息を吐いてから言葉を続けた。
「タクト。俺な……あいつを農家にしたかったんだ」
「俺も農家になって欲しいんです」タクトは塩水濡れ枕から顔を上げて即答した。腰の白い肌に介の字貼りされた茶色い湿布薬を、捲れた紫色のローブのような服で覆い隠す。後で腰に灸も据えるかと提案してきた農夫に「是非とも」と返した、村の自慢に向かって農夫はぼやくように言った。
「あいつな。最近、怒涛の勢いで農作業の手伝いをしてくれてたんだよ。遂にお前の真似を諦めて、野菜との共存生活に目覚めて改心したと。で、俺は感動しちまって。あいつを一人前の農家にしてやろうと、毎月やってた小遣いを奮発して、更に消える前日にあいつにプレゼントとして新しい農具と農作業服のセットを買ってやったんだ。買ってやったんだ……なのに、なのに」
「あああああああ!カイ、スーパーハイパーウルトラスペシャル、クソ野郎!!策略だったのか!?何で何時も何時も俺の言う事を聞かねえんだあああ!!」
 タクトが発狂した。此の青年は己の弟が問題を起こす度に感情が爆発する。農夫は哀れな村の自慢の為に、今尚も此の家の彼方此方で山の如く積み上がっている探し人ポスターに書かれた”カイ・ディスペル”の文字を、己を含めた村人全員の利き手の関節を犠牲にして”クソガキ”に書き換えてやろうかと考える。
 此の2ヶ月間、タクト・ディスペルは己が研究者兼教授として働いている全人類の中で最上位の頭脳を持つ生徒達が集う某大学で教壇に立つ事よりも、名の無い寂れた寒村での農作業よりも、弟の捜索と捕獲を最優先任務にして生きていた。失踪当日に事情を知らされるなり教室で大発狂して講義を中止して以降、臨時長期休暇を取って村に帰省して捜索ポスターを山のように作り、北東大陸全域にポスターを貼りまくり、腰が砕ける直前になるまで弟の目線になる位置にも中腰になってポスターを貼りまくっていた。
 子供目線の場所に貼ったポスターは『お前を親の代わりに育ててやった兄ちゃんを困らせて楽しいか?』という濃厚な邪念を込めて、本人に見せ付ける為に貼っていた。その邪念ポスターを、本人は一度も見ていない。
 カイ・ディスペルは現在、北東大陸に居なかった。

 農夫に中央大陸産の薬草を使った、本格的なお灸をして貰う。19歳で高齢者向け腰痛治療を超飛び級して受けてから、優しく説得されて、タクト・ディスペルは腰と胸の痛みが喪失するまで弟探しを泣く泣く中断する事にした。
 農夫はうつ伏せのまま疲労困憊して寝てしまった村の自慢を、理学系の本と研究ファイルと実験器具が犇き合って積み並べられた研究所のような相手の自宅に置いて外に出た。己の家に帰る前に、そろそろ収穫が迫っている畑に植えられた野菜達を見に行く。ラディッシュ、スナップエンドウ、ズッキーニ、キュウリ、トウモロコシの実が、橙色の日の光と風を受けて揺らめいている。農夫は”クソガキ”が丹精込めて育てていたトマトの木を繁々と観察して、旅金稼ぎ目的の策略だった割には丸々と大きく膨らんで真っ赤に熟れている美味そうなトマトの実を、明日の早朝に収穫して、哀れな兄貴に食わせてやろうと決意した。
 畑から出て、帰路に着く。己の家を目指して村の広場を歩いていると、数メートル先に困り顔をして立っている己の配偶者を見付けた。
 農夫が声を掛けた。麻のワンピースに、ささくれが目立つ麦わら帽子を被っている、老婆間近の歳である人間の女が振り向いてきた。封筒のような物を持っている。近付くなり、妻が夫に封筒を差し出してきた。真っ黒で、血のように赤黒い蝋印が押されている。
「カイが育てていたトマトの木の根元に刺さっていたの。あなたがタクトの看病をしている間に見付けて。何だかコレ、不気味。代わりに開けて」
 初夏の過ごし易い気温なのに、農夫の妻は極寒の地に立っているように全身をブルブル震わせていた。農夫は妻に向かって家に戻って夕食を作ってくれと頼んでから、赤々と燃え出した太陽の光を照明代わりにして、謎の封筒を開封する。
 黒い封筒から、赤い便箋が出てきた。鮮血のような色をしている不気味な便箋に、外国語で文章が書かれている。
 其れは北西大陸の南東部で人間達が使っている言語だった。世界共通語として使われている北東大陸連邦国家の言語しか知らない農夫は、1単語も読めない手紙を直ぐに封筒に戻すと、麻のシャツの上から履いているオーバーオールのズボンのポケットに入れて、炒め料理の匂いがしてきた己の家に帰宅した。
 農夫は数十分後に食事をして風呂に入り、手紙の存在を忘れて寝巻きに着替えて数時間後に妻と共に眠った。脱衣所の籠に放り入れられているオーバーオールから飛び出て床に落ちている黒と赤の手紙には、神と悪魔と”魔界”で暮らす化け物達が使っていると西洋宗教で信じられている、気が遠くなる程の過去から存在する古代言語の1つで、下記のように記されていた。

『わたしこそが、銀髪の魔法使い。かつて我々人間が”ドブ鼠”から奪った魔法を科学と称して歪める愚行を続けるのなら、お前達兄弟からも魔法と命を奪う。
 K・T・P・E。世界にある全ての起源を統べる者』

 一頭の犬が遠吠えした。農夫が自宅の庭で飼っている大型の犬が、月明かりを浴びて一時だけ野生に戻った。