Bounty Dog 【14Days】 114-115(了)

114

 この世の物質には一定の条件を課すと必ずそうなる法則がある。人間はこの数多くの自然の法則を見出し、物質が起こす現象を研究し、応用し、人間の文明の新たな礎にする。人間はこれらを総じて『科学』と称している。
 水は水素と酸素の元素が結合した『密集』体である。金属は純物質では自然界に存在しないが、意図的に他物質を混ぜ込まない限りは、人間は同一元素の『密集』として精錬し、物として作り出す。
 火は、酸素を使いながら燃える。火に加えると勢いが増す物質は酸素以外にも数多くある。乾いた木材、油、アルコール、ガス。
 電気にも、通さない物質が多くある。ゴム、混じり物が無い純水、乾いた木材、硝子。逆に電気を良く通すのは、雨水や水道水など混じり物が多い水、金属。金属で電気を通しやすい物質は、銀、銅、金、アルミニウム、鉄の順となる。
 そして電気は、流れる方向が基本的に一方通行である。逆流や自在に進行方向を変える事は、回路に人為的な細工が施されているか異常が起きない限り、出来ない。

 ヒュウラがローグに追い付くと、ローグは前方にいる影がヒュウラでは無い事を察知した。崩れた壁で通路を塞いでローグを待っていた影は、人間だった。その姿を見て、ローグは強い違和感を覚える。
 人間は女だった。青いストレートヘアを胸まで伸ばした細身の背が高い女で、鎧を付けていない紺色のレディーススーツを着ている。紺色のヒール靴を履いて、吊り上がった青い目に銀縁の眼鏡を掛けており、銃口から煙を吐いている白銀のショットガンを手に掴んでいる。
 性別を変えたデルタ・コルクラートに瓜二つの存在が、片割れを殺めた存在を待っていた。ローグの子供は混乱する。シルフィ・コルクラートは敵の反応を見て、嘲笑顔をした。
 シルフィはローグの背後にいるヒュウラに視線を向ける。ローグはヒュウラに勘付いて踵を返した。ヒュウラの後ろにミト・ラグナルが立っていた。ドラム型の弾倉が付いたサブマシンガンの照星(フロントサイト)越しに、ローグを睨む。
 挟み撃ちにされた絶滅種の亜人は、絶滅危惧種の亜人だけに意識を向けた。ヒュウラは側面の壁を突然蹴り壊した。崩れた壁の穴を通って、横に跳ね飛んで移動する。ローグが付いていく。ミトも付いて行こうとして、
 シルフィに銃撃されて止められた。足元に撃たれたショットガンの実弾が、床に穴を開けて煙を吹き出す。シルフィはミトを睨み付けていた。
 ミトは己の目の前に立っている存在が、相手のもう片割れの方だったら良かったと思った。

 人間を排除した、亜人と亜人の最終決戦が幕を開けた。ローグの子供は黒い獣耳を上下に振って、獲物を前にして醜く笑う。ヒュウラも口角だけ上げて笑った。獲物を前にして、左手で握った巨斧の柄を掲げる。
 ローグは木の棒を見て、鼻で笑い飛ばした。
「はい、はーいはい。また同じ事しようとしてる。今度はそれでボクを殴るの!?遂に馬鹿が高みの頂点に登っちゃったのかな!?あはははははは!!やっぱりあんた、馬鹿!!殴る前にボクがビリビリにして壊しちゃうよ!!」
 罵る鼠に、狼は反論も反応もしない。右掌に握っている100エード銀貨は出さなかった。自分の道具が盗まれている事に全く勘付いていないローグは、瞳孔の濁った赤い目の色を黄緑に変えた。右手の人差し指を伸ばして、空気を5回叩く。
 空中に漂う『雷の原子』達を刺激した。素早く指示用の文字を書きながら、歯を見せて自信満々の悪どい笑みを浮かべる。ヒュウラは動いた。後ろに跳ね飛んで距離を離す。ローグは追わない。自信満々の笑顔をしたまま『原子』に指示をする為のミミズ文字を書き切った。
 人差し指を親指で押さえてから、口を先に動かした。
「絶滅しちゃえ。さようならあ、馬鹿犬!あはははははは!!」
 指が弾かれた。幼児の白い小さな指先が示す空中に、幼児と同じ大きさの雷の球が発生した。『原子』が活性して作った巨大な電気の塊は、自我を持たない機械のように『活性』を促した術者からの合図を待っている。
 天井が揺れた。中で何かが蠢いている。ヒュウラは更に背後に跳ね飛んだ。壁に向かって一気に近付くと、ローグと己と壁との距離が均一になる位置で停止する。
 ヒュウラは仏頂面で仁王立ちした。木の棒を片手で構える。ローグは滑稽なモノを見ているかのようにゲラゲラ笑った。ダボダボの服の袖を捲る。ヒュウラに向かって伸ばした右手の人差し指を弾くと、雷の球が発生した。球は電磁砲になって、ヒュウラに襲い掛かった。
 ヒュウラは身を伏せてかわす。身を伏せたまま瞬時に踵を返した。壁側に向いて直ぐに立ち上がる。金と赤の不思議な目で、壁に電撃の矢がぶつかる様子を観察した。
 電撃が2つに割れる。2本の電撃が床と天井を這いながら再度迫ってくると、ヒュウラは横に軽く跳ねてから、純銀のコインを1枚取り出した。天井を見て、銀貨を人差し指の第二指節に置き、親指を添える。床の電撃が真横を通り抜けようと迫ってきた。天井の電撃も同じ速さで這ってくると、
 ヒュウラは再び踵を返して、銀貨を指で勢い良く弾き上げた。
 天へと高速で回り飛ぶ100エード銀貨が天井にぶつかる。同じタイミングで床の雷がヒュウラの真横を通った。天井の雷はコインに当たる。コインは高速で回転しながら、天井を這っていた雷を全て吸収した。
 銀で作られた人間の道具が、価値の低い金銭から非常に強力な武器に変わる。真白の光を発しながら回り回る、カイ・ディスペルの100エード銀貨が天井からゆっくりと落ちてくると、ヒュウラは目を吊り上げた。木の棒を両手で掴むと、其の場でジャンプしてから、コインを棒で勢い良く叩いた。
 絶縁体に叩かれた銀貨が雷を一気に吐き出す。自我を持たない電気の塊は裏切りの電磁砲になって、術者に向かって発射された。

 電磁砲がローグの頭上を通過する。ローグの時が止まった。背の低さが幸いして攻撃は全く当たらなかったが、小さな身体に宿っている傲慢な心に、大きな引っ掻き傷が付けられた。
(何コレ?あいつも原子にお願い出来るの?)
 幼い亜人は、挫折という経験を初めてした。ローグは初めて感じた劣等感を受け入れなかった。雷を吸収してから吐き出した100エード銀貨は真っ二つに割れて、床に落ちて白い煙を出している。
 ヒュウラの握っている斧の柄だった棒が燃えていた。ヒュウラは無表情のまま棒を放り捨てる。首斬り斧の残骸は全体的に燃えて、弾け音という断末魔を叫んでいた。裏切りの電磁砲は彼方の壁にぶつかって壁を崩し壊した。瓦礫が崩れる大きな音がローグの背後から響いてきた。
 ローグはヒュウラを睨み付けた。瞳孔の濁った赤い大きな目が、限界まで吊り上がる。目が涙で潤んでいた。半泣きになった幼児は何度も何度も大きく被りを振ると、大口で独り言を叫ぶ。
「違う!違う違う!!原子はあいつじゃ無くてボクの味方なんだ!!お願いをすれば、原子は純粋な力だってボクに貸してくれるんだ!!」
 右手を上げた。人差し指を伸ばして空気を叩く。目の色が赤から灰色に変化する。べそをかいていた子供の顔が、みるみる内に自信を取り戻す。
 再びローグは笑い出した。文字を書いた人差し指が親指に押さえられて勢い良く弾かれると、黒い球体が空中に出現した。豆のように小さい球が、周囲にある無機物を吸い込み始める。
 重力の球が瓦礫を吸い込んだ。炎に包まれた巨斧の柄も吸い込んだ。壁が揺れる、床が揺れる、天井も揺れる。天井から小さな声が聞こえた。電磁砲は、既に2本とも消えて無くなっていた。
 半月形に割れた1枚目の銀貨も吸い込まれた。ヒュウラは仏頂面のまま少しずつ後退りをする。ローグの目の前に浮かんだ重力の球は、人間が作った道具達を集め固めた巨大な鈍器になった。無機物達を吸い込む事を止めた狂気の球が、宙に浮かびながら術者の合図を待つ。
 術者の鼠はゲラゲラ笑い出した。ヒュウラが壁の前で止まると、勝負を決める為に人差し指を弾いた。
「潰れて壊れちゃえ!あはははははは!!」
 鈍器の球が発射される。ヒュウラが動いた。足を斜め下から上に向かって振ると、狼の亜人が放った強靭キックを受けた寄せ集めの鈍器は、難無く蹴り壊された。
 驚愕する鼠の亜人に、ヒュウラは背後の壁を踏み蹴って高速で突進する。弾丸のように鼠の胴体に体当たりすると、吹き飛ぼうとしていた鼠の亜人の喉を左手で掴んで引き寄せた。
 ローグを遂に捕らえる。ヒュウラは口だけを動かして呟いた。
「お前は」
 ローグを床に叩き付ける。子供の鼠は頭を強打した。床から持ち上げられて、次は壁に背中から叩き付けられる。背を強打して悲鳴を上げた鼠に、ヒュウラは睨み目をしながら呟いた。
「雑魚だ」
 鼠の右手を己の同じ側の手で掴む。関節の動く方向と逆側に力の限り曲げると、小さな指の骨が親指以外全て折れた。
 鼠が空気が揺れる程の大音量で悲鳴を上げた。左手も握られて左の指も親指以外全てへし折られる。
 激痛に叫び上げる幼い子供の顔面に、今度は拳が直撃した。ヒュウラは暴力という無慈悲な成敗をローグに加え始める。
 殴る。雌かも知れない可愛い顔を躊躇無く殴る。殴る。ひたすら殴る。左手で喉を掴みながら、右手の拳で子供を殴りまくる。
 拳の中に、カイの100エード銀貨を1枚握りしめていた。ヒュウラは銀貨をローグに渡した人間がローグの”友”だと全く知らなかった。ローグは、関節的に己の”友”に殴られている事実を全く知らなかった。
 偶然は、最大の皮肉になる。
 ローグの小さな鼻の骨が折れた。雪のように白い肌が青黒く内出血して腫れた。顔中から血が噴き出た。癖の無い艶やかな銀髪が乱れた。殴られる。ひたすら殴られる。可愛い顔が喪失していく。
 ローグは自信も喪失し掛けていた。顔と両手から感じる激痛で号泣しながらヒュウラに向かって訴えた。
「あんたは!あんたは人間が好きなの?!変だよ!ボク、独りぼっち!!ボクの仲間を全部殺した人間達に復讐して、ボクと同じ想いをさせて何が悪いのさ!?『原子』だって人間を壊すの、手伝ってくれる!!原子もボクに人間を滅ぼして欲しいんだ!!」
 ヒュウラは返事も反応もせずに、ローグを殴り続けた。顔に浮かんでいる表情は、目が激しく吊り上がっているだけ。それ以外の部分は無だった。
 ローグはロボットのような亜人の青年の顔に再び恐怖を感じた。痛くて動かない手を、痛くて堪らない顔に覆って盾にした。ヒュウラは盾代わりの手を弾いてから鼠の顔を拳で殴る。ヒュウラは殴る、硬貨を握り締めて殴る。カイ・ディスペルの代わりに、彼が愛する『原子』を大量殺戮に利用したテロリストを成敗する。
 ヒュウラは殴る、デルタを殺した仇を殴る。デルタ・コルクラートの代わりに、彼が愛した部下達を殺したテロリストを成敗する。
 何十回も鼠の顔を殴った拳は、気が付くと血塗れになっていた。ローグと自分の手の甲から噴き出た血で真っ赤に染まっていた。痛みを感じる拳で、ヒュウラは未だ殴る。弾いても弾いても顔を覆っていたローグの手が解け出した。露になった顔に拳が連打で当たる。乾いた打音が湿った打音に変わる。
 ローグは、か細くなった声を捻り上げて再び訴えた。
「あんたも亜人でしょ?変な目してるし犬みたいだもん。ボクのように、あんたも仲間が居ないんでしょ?人間のせいなんでしょ?だったら何で人間の事を守るの?あんたが馬鹿だから?」
「俺は人間に何とも思わない」
 ヒュウラは返事した。目を更に吊り上げて、声を荒げた。
「だが、友は違う!!」
 殴る。勢いを増して更に殴る。感覚の無くなった手で顔を守るローグの心は、死と目の前の存在に対する恐怖に染まりつつあった。心が支配されないよう、抵抗する。高飛車の態度でヒュウラを罵り出した。
「……はい。あーはい、あのボクが壊した人間、あんたの友達だったんだ。は、はは、あはははははははは!ざまあ!!凄くざまあああ!!」
「黙れ」
 一言だけ呟いた、ヒュウラの攻撃の手が止まった。表情が目以外に現れる。眉間に皺が寄った。不機嫌が顔に出る。
 ローグが大笑いして更に煽った。
「ぎゃーあははははははは!!ざまあ!ざまあああ!!簡単に壊されて、あんたやっぱり馬鹿過ぎるよ。ざまあああ!!」
 ヒュウラの頭の中の”糸”が切れた。
 ローグは髪を鷲掴みにされて持ち上げられた。小さな身体が小柄の青年によって宙吊りにされる。ヒュウラのポーカーフェイスが崩れた。鬼の形相をして、口が大きく開かれた。
「黙れと俺はわざわざ言ってやってるんだよ!!クソ鼠!!」
 口が激しく開閉した。ローグは顔面を蒼白させて目を見開く。
 ヒュウラが喋った。
「グチャグチャグチャグチャ戯言ばかりほざきやがって、良い加減に煩えんだよ!!お前はいちいち、いちいち、いちいちいちいちいちいちいちいちいちいちいちいち!!俺を煽らないと気が済まないのか!?」
 ローグは震えながら沈黙した。突然寡黙が砕けて饒舌になった目の前の男に、強い恐怖を感じた。

(ヒュウラが普通に喋ってる)
 信じられない光景が目の前で起こって、ヒュウラの後方に離れて立っていたミトは、強烈なショックを受けた。
 同時に彼女は思い出した。壊されていない此の支部での、上司が生きていた頃の過去の出来事を思い出した。
 ーーヒュウラを保護して今日までの13日間の何時かの日に、デルタリーダーに、彼がヒュウラを頻繁に特訓させていたので『ヒュウラの抜け過ぎている喋り方も特訓して直して欲しい』と依頼した事があった。
 リーダーはその時苦笑して、自分を班長室に呼んできた。入室すると、2人きりの空間でリーダーは椅子に座りながら、机を挟んで向かい合わせに立っていた自分にこう伝えてきた。
(ラグナル保護官。君も知っていると思うが、ヒュウラは顔の動きで感情表現するのは驚く程に下手クソだ。無表情は平常だ、ポーカーフェイスで無いなら異常事態だ。が、別にあいつは口下手ではない)
 リーダーは、両の肘を机の上に乗せて、両手を組み、顎を手の上に乗せて、微笑みながら言葉を続ける。
(話す事を物凄く面倒臭がるんだ。だから喋るといつも一文で終わらせてくるし5W1Hも当然無いから、あいつが何を結局言いたいのかは、あいつの言葉と動作をヒントにして、こっちで推測してやらないといけない)
 リーダーは楽しそうに笑った。銀縁眼鏡のレンズに覆われた青い目に、話題にしている亜人への深い愛情が篭っていた。
(でも余りにも分からなかったら、『何を言いたいのか全部言ってくれ』とあいつに願い出たら、ちゃんと普通に全部言ってくれる。願い出をし過ぎると逆ギレするがな。覚えておいてやってくれ。あいつはたった1体で山の中を、密猟者達と山の麓に居る人間達から隠れて生きてきたんだ。他の喋れる存在と話をするという機会がずっと無かったから、生きる上で会話は重要だとは思っていないんだ)ーー
 思い出でしか会えなくなった人との思い出が、ミトの頭から消えた。ミトは心の中で呟いた。
 ーーリーダーとヒュウラは、いつもどんな事を喋っていたのだろう?リーダーはたった13日で、どうやってヒュウラを彼処まで深く理解出来たのだろう?
 私は、あのロボットでもあり無邪気でもある、あの亜人の事が全然理解出来ない。ーー

 ローグは絶え間無い恐怖に晒されていた。大量殺戮テロリスト兼最凶の亜人は、恐ろしいモノによって罰を受けている無力な子供になっていた。
 自分の頭部を鷲掴みにして宙吊りにしている亜人の男が、怖くて怖くて堪らなかった。頼れる存在であり武器でもある『原子』に頼る為の手段は潰されていた。親指以外の骨が折られて動かせない。空気中に漂っている原子に触れて文字が書けない。
 右手の親指を動かそうとした。ヒュウラが手を掴んで右手の親指の骨も折る。ローグは絶叫した。赤黒く腫れた手を、ダボダボの黒いローブの袖から出して顔を覆う。
 脅威は己を殴ってこないが、代わりに威圧感で押し潰そうとしてくる。亜人と亜人の勝負の決着は完全に付いていた。瀕死のローグの頭の中で、走馬灯のように、今までに出会った人間達と景色が現れた。
 思い出が駆け巡る。大きな林檎、果物屋の老夫婦、船、田舎の街道、馬車、2人の密猟者、沼の水面から顔を出すフナ、洞窟。赤紫色の目をして水色の髪を二つ括りにした、黄色いローブのような服にデニムの半ズボンを履いた活発な少年。
 『原子操作術』の本を脇に挟んだ少年が、笑いながら手を振ってきた。相手から盗んだチーズサンドを見せている己に、彼は大きな声で話し掛けてきた。
(気を付けて家に帰れよ!また何時でも、遊びに来いよ!!)
 ローグの子供は”友”に向かって泣き叫んだ。
「助けて!!助けてカイ!!ボク殺される!!こいつに殺される!!助けて、カイ!!」
(お前にも、お前にも)
 友達らしき存在の名前を叫んだ鼠に、ヒュウラの怒りが更に焚き付いた。
(お前にも友が居るじゃねえかよ!!)
 殴る。更に数回殴ってから、鼠を放り投げた。黒い布の塊のような瀕死の子供が宙を舞うと、足を大きく振り上げて、
 首輪から響いたシルフィの声に反応した。
『ヒュウラ!もうローグのお仕置きは充分よ!保護対象(ターゲット)として捕獲しなさい!!殺すのは禁止と言ったわよ!?命令に従いなさい!!』
 ヒュウラはローグに何もせず、床にぶつかった鼠を静止しながら眺める。顔の表情が無に戻っていた。屈んで、血塗れになったローグの頭を鷲掴みにする。
 持ち上げる。宙吊りにして落とし、床にぶつける。掴んで持ち上げて宙吊りにして落とす。床にぶつける。掴む、持ち上げる。一瞥して、落とす。
 仏頂面で最重要保護対象を嬲り始めた特別保護官兼超希少種は、されるがままになった亜人の子供が息絶えて喪失(ロスト)する瞬間を待ち詫びているようだった。
 ミトは、またショックを受けて固まっていた。涙を溜めた茶眼で残虐な存在と化しているヒュウラを見つめる。ヒールが床をゆっくりと叩く音がヒュウラの首輪から響く。吐き出された溜息も音に混じっていた。
 シルフィは、冷淡な態度で首輪越しに呟いた。
『不味いわね……デルタ。死者に鞭を打つつもりは無いけど、あの子への躾が足りて無いわ』
 特別保護官が、保護任務を放棄して野生に戻る。獲物で遊ぶ事に飽きた狼は、死に掛けの鼠にトドメをしようと動いた。床の上に倒れた血塗れの子供を見下げて、足を振り上げ、力の限り踏み下ろすと、
 ヒュウラは脇腹を突然強打された。
 攻撃を受けて行動を強制的に停止させられた。攻撃をしたのはミト・ラグナルだった。手に掴んだドラム型弾倉付きサブマシンガンで、ヒュウラの脇腹を撃った。
 照星を覗いている釣り上がった茶眼が、ヒュウラを睨む。黒いライダースーツのような服のズボンを履いている相手の足を十字の中央に重ねる。引金を引いて撃った。2発目の麻酔弾がヒュウラの足にめり込んで血が噴き出る。
 ヒュウラが目を限界まで見開いてミトを見てきた。驚愕しているのが一目で分かった。感情が剥き出しになった絶滅危惧種の亜人に、相手を14日前に保護した保護官は、大きく被りを振りながら心の中で懇願する。
(ヒュウラ。気持ちは分かるよ、痛い程。だけどごめんね。従って。
 私達、人間のエゴに従って)
 シルフィがミトの隣に立った。白銀のショットガンの銃口をヒュウラに向ける。躊躇無く撃った。ヒュウラは実弾を身に受けて吹き飛ぶ。横倒しになって、人形のように倒れた。
 腹から血が流れ出る。ミトは亜人の青年の名を叫んだ。シルフィはデルタが使用していた銃をミトのこめかみに突き付ける。熱を帯びた銃口が、少女の肌を焼いた。無理矢理静止させられながら、ミトは信じられない行動を取った隣の女を激しく睨む。
 シルフィはミトを無視して、前方を凝視していた。スーツのポケットから打撃式の麻酔針を取り出す。ミトに銃を向けながらシルフィは歩き出した。ゆっくりとローグが倒れている場所まで近付いて、
 止まる。銀縁眼鏡に覆われた青い目が限界まで見開かれた。ミトの目も見開かれた。サブマシンガンを構えると、サブマシンガンが強大な力に無理矢理奪われた。
 シルフィの麻酔針も手から離れて奪われる。ショットガンは両腕で抱えて死守した。代わりに己が強大な力に引き摺り込まれそうになる。
 倒れているローグが、唯一動かせる左の親指で『原子』を操作していた。空中に生まれた重力の球が、あらゆる金属を引き摺り込んで喰っていく。天井に付いている通気口の金具も吸い込まれた。通路に生まれたブラックホールが、巨大な金属製の鈍器になる。
 ローグの子供がゆっくりと立ち上がった。ボロボロの身体のあちこちから血を流しながら、笑う。醜い化け物のような声で笑った。黒い大きな獣耳を振って、ゲラゲラゲラゲラ壊れたように笑い出す。
 ヒュウラは何の反応もせず、横向きに倒れたまま動かなかった。ローグはゲラゲラゲラゲラ笑いながら、倒れたヒュウラを見てゲラゲラ更に笑い出した。左手の親指を人差し指の基節に添えた。ブラブラ指が垂れ下がる赤黒い手の平を鈍器の玉に向けてから、倒れているヒュウラを見つめて笑い叫んだ。
「原子はボクに味方する!!壊れてしまえ!!あははははははははははははははは!!」
 鼠は勝利を確信した。気絶している狼にトドメをする為に指を動かすと、
 天井から落ちてきた影が、ローグの目の前に降りて襲い掛かってきた。
 リングが足首の関節を捻って、ローグの真横に素早く飛ぶ。相手が反応する隙を与えずに腕を振ると、喉笛に噛み付く勢いで麻酔針を首に刺した。
「過剰種、舐めるニャ。クソガキ」
 猫は鳴かずに鼠を仕留めた。驚愕したローグが強制的に眠らされて鎮静すると、重力の球は全ての金属を解放してから消え去った。
 Lランク『絶滅種』ローグの保護任務は、完了した。

115

 世界中の人間が喪失(ロスト)した連続大量殺人爆弾テロ事件は『世界生物保護連合』関係者以外の全ての人間が犯人の正体を知らないまま、解決した。
 事件の最後の犠牲者となったデルタ・コルクラートの遺体は、支部と輸送場の間にある広場の片隅に焼かれてから埋められた。生き残った部下の保護官全員が班長を救えなかった事を悔やんだ。ミトは特に悔やんだ。1番悔やんでいる存在は自分では無い事も、十二分に理解していた。
 デルタの墓は、土を盛っただけの非常に質素なものだった。盛られた土の周りに様々な物が置かれていた。部下が没収していた酒の数々が、全て返還されて並べられていた。土の山のてっぺんに、綺麗な銀縁眼鏡と海苔付き醤油煎餅の菓子袋が置かれていた。
 墓の一番目立つ場所に物を置いた存在は、広場に居なかった。その存在は、半壊した支部の屋上に設置されているベンチに腰掛けていた。
 ヒュウラは仏頂面で空を眺めている。ローグの保護から1日経った現在の丘の空は、清々しいまでに晴れ渡っていた。10日前の、この空が夕焼けだった時に隣に座って話し合った存在を思い出していた。あの頃は未だ、ヒュウラは”彼”をお節介な唯の人間だとしか思っていなかった。
 運命がこうなるとは微塵も思っていなかった。デルタとの別れは想定と違う形で訪れた。丁度今日は、ヒュウラの特別猶予期間の本来の期限である14日目だった。
 ヒュウラは、仏頂面のまま平和を取り戻した支部の空を眺める。左足と腹部に包帯が巻かれていた。ミトとシルフィに撃たれた傷は非常に痛んだ。それ以上に自分の見えないモノが、酷く酷く痛んでいた。
 側に、テレビのリモコンが置かれていた。ヒュウラは空を見ている間、一度も其れを触らなかった。

 ミト・ラグナルは、輸送場の一角に建てられたプレハブ小屋の中に居た。パイプ椅子に座り、マイク付きのヘッドセットを装着して、机の上に置かれたノートパソコンの画面を覗き込んでいる。
 機械の画面の枠の中に、年老いた女が写っていた。正面を向いて温和な目でミトを見つめてくる女は、『世界生物保護連合』の最上幹部の1人だった。
 ーーシルフィ曰く、組織の『アメ担当』。デルタリーダーは他の幹部共々に、毛嫌いしていたそうだ。ーーミトは女に話し掛けられた。開口早々に、想定通りの言葉を放たれた。
『ラグナル保護官、さぞや辛いでしょう。私は貴女を、こうやって言葉で慰める事しか出来ないのが辛い』
 ーー確かに飴のように甘い。ーー同情していると余りにも分かりやすい、涙目の苦しそうな顔をする女は慰めの言葉を延々と言ってくる。
 ーーこの女を1番信じるな。と、シルフィから助言されていた。『下手クソな演技だけしか出来ない組織の癌細胞』とも彼女は平然と相手を罵った。ーー
 ミトは真顔で、女の上辺だけ綺麗な慰めの言葉を遮って言った。
「ヒュウラ……私が保護した絶滅危惧種の亜人です。彼は私よりも、リーダーに懐いていました。デルタリーダーが彼の主人みたいなものです。亜人は殆ど人と同じで、動物扱いをしたくないけど」
 女は黙って耳を傾けてきた。目に先程まで溢れていた情が無くなっていた。
 ミトは女に尋ねた。
「私の保護への考えは、正しいのでしょうか?」
 女は真顔になった。目が吊り上がっている、機嫌を損ねたようだ。アメの演技を辞めた相手が、画面越しにミトを睨んできた。
 返事をしてくる。言葉に棘を感じた。
『何故そう思ってしまうの?貴女は”組織の保護官”として立派に勤めを果たしてる。絶滅危惧種を保護して絶滅から救っているのよ。”組織の一員”として貴女は正しい。正しいに決まってる』
 ミトも女を睨んだ。デルタがこの女を嫌った理由を十二分に理解した。
 棘を含んで、彼女は幹部の首に嚙み付くように言った。
「一員ではなく”私”の質問に答えてください。私は、正しいのでしょうか?」
 小屋の外から猫の鳴き声が聞こえてきた。リングがデルタの墓の前で、天に向かって何度も鳴いていた。墓の上に自分の朝食のパンを置いて、ニャーニャー大きな声で鳴いていた。

 ヒュウラは仏頂面のまま、支部の屋上から延々と空を眺めていた。背後から気配を感じたが、一切反応しなかった。
 シルフィ・コルクラートが、ヒール靴で床を踏み叩きながら歩いてきた。白銀のショットガンを背負い、通信機を片手に掴んでいる。
 銀縁眼鏡のレンズに覆われた青い目が吊り上がった。ベンチに座って空を見上げているヒュウラの背後に立つと、言葉に棘を含んで話し掛けた。
「あのローグだけど、一命を取り留めたわ。悪いけど、あの子供は『絶滅種』の唯一生存が確認出来た個体。絶対に殺せないの。だけどあれだけ危険だと、他の希少種達がいる保護施設に送る事も無理ね。治療しながら、暫く支部の地下で幽閉する。後の処理をどうするかは、組織と私達『人間』で考えるわ」
 ヒュウラは返事しなかった。シルフィに振り向きもしなかった。仏頂面で空を延々と眺めている。
 彼の心は喪失感に支配されていた。心のケアが早急に必要だった。シルフィは、相手の状態を無視して言葉を続ける。
「ヒュウラ。貴方と私、13日前に直接会ってるわよ。覚えてる?私は貴方に、猶予期間を与える代わりに3班の手伝いをお願いした人間よ。私が、あなたの運命を歪めた女」
 ヒュウラは人形のように一切動かなかった。シルフィは大きな溜息を吐くと、白銀のショットガンを掴んで、銃口をヒュウラの後頭部に押し付けた。
「腑抜けているわね、返事くらいしなさい。それだと私が、非常に困るのよ」

【14Days 了】続