Bounty Dog 【アグダード戦争】 9-12

9

 アグダードの街には、人間が作った死と破壊の雨が降り注がれていた。夜闇を照らす業火と黒煙があらゆる場所から吹き荒れており、空を飛んでいく無数の爆弾が延々と地に落ちて爆発している。
 ミトは身に受ければ必ず死ぬ脅威的な人間の道具が踊り舞う地獄の街を歩こうとするヒュウラを止める為に動いた。相手の進行方向に先回りして、両手を大きく広げてヒュウラを妨害する。足止めさせられた相手は無表情でミトの顔を見つめてきた。己を退かそうとしてこないが、一見大人しく静止しているように見える亜人がしているポーカーフェイスは、今は心が無いロボットのような無機質な表情では無かった。
 彼の身の内から、悍ましい狂気が漏れ出ている。相手の目の下に赤黒い不気味なクマがある事にもミトは勘付いた。ポケットから打撃式の麻酔針を取り出す。ヒュウラが可笑しくなっていると知っている故に”保険”として持ってきていた物だった。
 打撃式麻酔針を使う本来の目的は、保護対象(ターゲット)の亜人を鎮静させる為。ミトが打撃式麻酔針を出した目的は、ヒュウラを鎮静させる為だった。
 ミトは麻酔針を逆手に持って構える。狂気を発しながら立っている亜人の青年に、保護官の少女は強制的に眠りへ誘う透明な薬液が滴り落ちる太い針の先を向けながら話し掛けた。
「ヒュウラ」
 相手の名を呼ぶ。返事も反応もされなかった。ミトは満面の笑顔になる。無表情のまま立っているヒュウラに、明るい雰囲気を出しながら提案した。
「ヒュウラ、今は暗くて殆ど何も見えないわ。もっと明るくなった方が”良い所”が直ぐに見付かるわよ?」
 一切反応されない。ミトは話し続ける。
「朝まで私と一緒に隠れて、明るくなるのを待ちましょう?朝になったら、一緒に”良い所”を探しに行きましょう」
 ヒュウラは両方の口角を上げた。了承したと判断したミトは周囲を見渡してから、街から離れた場所に掘られている大きめの穴を指差した。土と草でカモフラージュが施されている、鉄の蓋が付いた防空壕らしき人工の穴の中にヒュウラを連れて入る。
 ヒュウラを奥に座らせて、己は横に座り、穴の天井に付いている出入り口を素早く鉄の蓋で閉じた。通信機から出る光を使って、暗闇に包まれた穴の中でも目の機能が最低限働くようにする。穴の中に置かれていた麻の毛布を頭に被せてやると、ヒュウラは顔を伏せて目を瞑った。疲れていたのか、横に倒れて直ぐに寝てしまった。
 ミトはヒュウラを己の膝の上に置いた。小さく寝息を立てている亜人の寝顔を見ながら思った。心の中で、己を強く責めた。
(良い所って何よ?私は何であんな狂った事を言って説得したんだろう?)
 ミトは目に大粒の涙を零しながら、更に己を責めた。
(私もデルタリーダーが居なくなって、気が付かない内に狂ってしまったの?)
 アグダードの夜は、とても長く感じた。激しい振動と爆音と熱気が延々と轟いては吹いてくる異常な空間の中で、ミトはアドレナリンが出過ぎているせいか一睡も出来なかった。
 延々に終わらないのでは無いかと思う程に長かった未知の土地の夜が終わって朝が訪れるまで、彼女は何十回と己が課されている保護任務の内容を頭の中で確認した。ーー私の今回の任務は此のありえない土地、紛争地帯アグダードで可能な限りの絶滅危惧種を保護して、生きて脱出する事。ーー
 そしてこれも重要な任務だった。ーーヒュウラを絶対に自殺させない事。ーー

10

 地獄の街から響いていた死の音は、朝日が昇った途端にピタリと止んだ。漸く訪れた平和を感じる静寂に、ミトも漸く多少だが安堵した。
 ヒュウラは微動だに動かずに熟睡していた。膝の上に乗せて横向きに寝かせていたミトは、大人しく寝てくれている狼の亜人を見つめる。
 毛布に包まれている亜人の青年は、寝ている時は”子犬”のようだった。ミトはヒュウラが起きてきたら、仏頂面で被されている布を剥ぎ取って繁々と観察して、鼻を近付けて「臭い」と言って鼻を摘み、「布」とだけ言って何の布なのかを己に訊ねてきたり、被っては脱いでを繰り返したり、犬のように両手で掘ってみたり、適当に丸めてから己の頭に投げ付けたりする、人間の道具に好奇心旺盛な元通りの姿になっている事を期待した。
 現実は、勿論違っていた。
 膝の上で横向きになっていた布の塊が、勢い良く片足を振り上げてきた。天井に付いていた蓋が、麻の布ごと強靭な脚力で蹴り飛ばされて、崩れ割れながら天高く飛んでいく。
 驚愕する間も与えられず、凶悪な亜人の足が即死キックを放ってきた。前面の壁を強打して足形の穴を深々と掘る。膝までめり込んだ足が曲げ戻って、ミトの真横の壁も踵で土を大きく削り取った。
 ミトは限界まで目を見開きながら震えた。恐怖する。ヒュウラがミトの膝の上で、上半身を起こしてから布を脱ぎ捨てた。顔は相変わらず仏頂面だが、口角だけが不気味に上がっていた。
 不気味な笑みをされたのは、刹那だけだった。口が結ばれてからゆっくりと開く。ミトは大音量の奇声が発せられると思って両手で両耳を塞いだが、亜人が口から発した言葉は、一言だけだった。
「行く」
 それだけ言って、ヒュウラは立ち上がった。下半身からズレ落ちた、汚れた麻の布には全く興味を示さない。蓋が破壊された防空壕の出入り口を見上げて、ミトを見てから、ミトに向かって腕を伸ばしてきた。
 首を掴んで強引に引き寄せてくる。ミトは激しく恐怖した。窒息させられるか足で蹴られて挽肉にされて殺されると本気で思ったが、何方もされなかった。ヒュウラはミトを横倒しにして肩に担ぐと、穴から外に飛び跳ねる。防空壕から勢い良く出ると、地に降り立ってから街に向かって走り出した。
 絞められた首を手で押さえて呼吸を整えながら、ミトは激しく鼓動する心臓の音と漏れ出る喉からの喘ぎ声が、己を拉致しながら走る亜人を刺激していない事を願った。
 ヒュウラはやっぱり壊れていた。金と赤の目を瞼が無い魚のように剥き出して、口角を上げながら、戦争地の街で自分の死に場所を探す個人任務を始める。
 荷物のように連行されている少女は酷く焦った。背負っているサブマシンガンを、結んでいる紐を手繰り寄せてから握把(グリップ)を手に掴む。この動作も相手を刺激していない事を強く願った。
 思考する。ーー早く次の手を思い付かないと。このままだと、私も一緒に冥土に連れて逝かれる。ーー

11

 朝のアグダードの街は”平和”だった。ミサイルも爆弾も全く飛んでこない。彼方此方で地獄の業火のように吹き荒れていた炎も、今は完全に消え去っていた。
 昨日の晩に此の街で起きていた出来事は、飛行機の中でうたた寝をしていて見ていた夢だったのでは無いかと思う程に、街は変貌していた。唯、充満している空気が余りにも臭い。吐き気を覚える程の、言いようのない酷い悪臭がした。昨日の悪夢は現実なのだと、臭いがミトに伝えてきた。正体を想像したくない大きな謎の炭の塊も、ヒュウラが駆けている街の道路の彼方此方に転がっていた。
 所々に未だ地獄が欠片として存在している。だが全体を見ると、此の街の今は”平和”だった。独特の伝統と文化を建物から感じる。
 茶色一色に染まった、統一的だがオリジナリティ溢れる建築物は、神秘的で美しい形状をしている。威厳を放っている巨大な礼拝場を中心に、昨晩ヒュウラが走り渡った湾曲している巨大な石の壁の間に、土と岩で作られた箱のような建物が犇めき合っている。
 建物の半数以上が全壊もしくは何処かしらが崩れていた。瓦礫の山と化している喪失(ロスト)した建物の上で、肋骨が胴の皮から浮き出ている痩せた毛の無い大型犬が希少な餌を探して、瓦礫の隙間に首を突っ込みながら弱弱しい鳴き声を上げていた。
(ほら、其処に友達が居るわよ。ヒュウラ)
 犬を指差しながら狼の亜人に冗談を言おうと思ったが、心の声だけに留めて口に出して言ってはいけないと、ミトは直ぐに結論付けた。あの死に掛けている犬を保護しようかとも思ったが、己の身の自由を奪いながら己を担いで走るヒュウラは、犬に勘付かずに其の場を走り去ってしまった。
 相手を刺激しないように慎重に溜息を吐いて、ミトは再びアグダードの街を観察した。上空で痩せた細長い大きな鳥が翼を羽ばたかせて飛んでいく。此の街にあるものは己が住んでいた場所では一度も見た事がない物ばかりで、非常に原始的だが、故に此の星と綺麗に共存していると感じる街だった。とても神々しく、とても美しかった。
 この土地が正常であれば、きっと心の底から此の土地の人間達が作った素晴らしい街並みに感動するのだろうと、ぼんやり考えた。
 思考を、別の思考が割り込んで否定した。
(正常?正常とは一体何を基準にしているの?)
 ミト・ラグナルの心も国際保護組織に入隊してから、ヒュウラや他の亜人達と関わった14日間で徐々に、徐々に、一昨日に起こったショッキングな出来事で大きく、変貌していた。

12

 此の街の平和は、直ぐに終わった。轟音と共に、地面が激しく振動する。地にばら撒かれている地雷の1個が弾けたらしく、遠方の一角に黒い煙が立ち上ってきた。
 ミトはアレが地雷だと、ヒュウラに何かと尋ねられても決して答えないと決意した。尋ねられた時に答える嘘を真剣に考える。平和的で、相手の好奇心を刺激しない完璧な嘘。
 だがミトの努力は全く意味を成さなかった。ヒュウラが、アレは生き物を殺す人間の道具だと己に質問せず勘付いて、興味を持ってしまった。
 地雷の弾けた方向に駆けていく。
「行っちゃ駄目、行っちゃ駄目よ、行っちゃ駄目」
 ミトは抵抗した。ヒュウラを説得する。
「やめて、やめて、やめて」
 懇願もした。ヒュウラに全て無視された。走る、走る、走る。金と赤の宝石になる目を不気味に剥き出して、狂犬と化した狼の亜人は地雷を踏んで死ぬ為に走る。
 ミトは必死に抵抗した。ポケットから打撃式の麻酔針を出して掴む。ヒュウラの首に向かって力の限り振り下ろした。
 強固な首輪型発信機に当たって針が折れた。割れた針から麻酔液が溢れ出て地に流れ落ちる。狂った亜人を鎮静出来る唯一の道具が、地面を濡らして砂漠の土に染み込み、喪失する。
 ミトはボロボロ泣き出した。抵抗している理由が、ヒュウラを助けたいのか己が助かりたいのか分からなくなっていた。壊れたヒュウラは煙の元に到着した。此処まで此の亜人が地雷を1個も踏まなかった事に、ミトは普段信仰していない”神”という存在に深く感謝した。
 ヒュウラはミトを肩に横向きに担いだまま、地雷から出た黒煙を浴びながら四方八方を見渡し始める。ミトはヒュウラの足元を見ないように努めた。息も止めた。煙に胃を刺激する耐え難い悪臭が濃厚に混ざっている。
 ヒュウラは目を剥いたまま、煙から出た。何かを見付けて走っていく。ミトの目から延々と出てくる塩水が、ヒュウラの西洋鎧が付いている胴を濡らした。
 奇跡的に地雷を1個も踏まずに、ヒュウラは次の目的地に辿り着いた。一点を凝視すると、側にあった壁に歩み寄って、ミトを肩から下ろしてから身を伏せた。

 ミトは身が自由になると、ヒュウラを抱き締めた。抱き締めながら相手の背中側に回り込んで、背から抱える安全な対応を取る。
 ヒュウラは抵抗も反応もしないが、目も剥いたままだった。一点をひたすら見つめている。ミトも彼を抱えながら同じモノを見た。
 彼が見つめていたモノは、一軒の建物だった。