過去形と昔話
いきなり英文法の話なのですが、
『過去形』には、いろいろな意味がありますよね。(過去、丁寧、仮定)
それらをひっくるめて、私は『へだたり形』と呼んでいます。
時間的な隔たりがあるのなら、それは”過去”を表します。心理的な隔たりがあるなら、”丁寧”。現実との隔たりがあるのなら”仮定”を表すわけです。
『昔話』で言うところの「昔むかし」も、同じく隔たりを強調するものだというふうに私は読んでいます。そうやって隔たりを設けることで、物語が「いつ・どこで・だれが」といった具体的な状況からフリーになり、普遍性を獲得するわけです。
とにかくこれは過去の話なのである。しかし物語の過去的性格は、その物語が「むかし」のものであればあるほど、いっそう深く、いっそう完全で、いっそう童話めいてくるのではあるまいか。それに、私たちの物語は、その内的性質からいって、その他の点でも、あれこれと童話に関係があるといっても差し支えなかろう。
——トーマス・マン 『魔の山』 高橋義孝訳 新潮文庫 より——
この長編が発表されたのは1924年。書かれ始めたのは1913年らしい。ちょうど同じ頃(1921年)、ヨーロッパではユングが『元型論』を発表して、古今東西の神話や民間伝承、伝説などに共通するモチーフ(元型)を学術的に論じ始め、一方、ロシアでは1910年くらいからプロップがロシア魔法民話に共通する構造を見い出し始めている。(これらは全てwikipediaの情報です、ご了承ください)
だから、やっぱり、昔話はすごいんですよね。(ここに戻ってきます!)私は昔話の中にある知恵を、”内面世界の公式”と呼んでいます。ちなみに、”外面世界の公式”に相当するのが、物理で言えば原理・原則。数学で言えば公理・定理。これらに具体的な状況設定を当てはめて、ビルを建てたり、飛行機を飛ばしたりするわけですね。
変な話に聞こえるかもしれませんが、私は”内面世界の公式”も、同じような使い方ができるんじゃないかと思っています。ちょっと話が抽象的になりすぎている(めっちゃ背伸びして書いています^^;)感じがするので、なるべく卑近な例を引っ張ってきます。
以下は”赤ずきん”からの抜粋です。赤ずきんが、お母さんの言いつけで、おばあさんにパンとぶどう酒を届けに行く。そんな赤ずきんを、オオカミが森の奥へ誘うシーンです。(この部分から、私は女の子を遊びに誘う方法を学びました笑)
「赤頭巾ちゃん、見てごらん、このあたりの花はなんてきれいなんだろうね。周りを見回してごらん。小鳥たちもとてもきれいにさえずっているのに君はきいてないみたいじゃないか。君は学校へ行くみたいに真面目くさって歩いてるんだね 森の中のここではほかは何でも楽しいのに。」
(https://www.grimmstories.com/ja/grimm_dowa/akazukinより)
そうやって誘われた赤ずきんは、森の奥へと入り込んでしまいます。
あえて重要なポイントを抜き出してくると、
・赤ずきんは”家の外”にいる。(もし、”家の中”にいるのなら日本神話が参考になります。アマテラス大神を岩屋戸から誘い出すために、外でひたすら楽しそうなパーティーを開くのでしたね笑)
・赤ずきんの好奇心に訴えかけて、退屈な日常の外側に連れ出す。
逆に、赤ずきんの側に立てば、ある教訓を抜き出すことができます。慣れ親しんだ場所から離れて、新生活を始める時がもっとも悪徳勧誘にハマりやすい、という例のやつです。大学の新入生によく注意喚起が為されています。
他に、もう一つ。(こっちはもう少しマジメな例)
『鉢かつぎ姫』
読んだことのある人は多いと思いますので、あらすじは省略します。この”鉢”が、いわゆる思春期に必要な”外界からの隔絶”だ、と河合隼雄氏は何かで述べています。(引用できず、申し訳ないです。)
同じ例は、先ほどの赤ずきんにも出てきます。オオカミの腹の中ですね。そこから出てきた彼女はこう言います。
「ああ、とても怖かったわ。狼のお腹の中の暗かったこと!」
(https://www.grimmstories.com/ja/grimm_dowa/akazukinより)
私の地元(南九州)にも、若い娘が船の中に閉じ込められて、沖に流される民話が残っています。他にも東北の民話で、若い娘が一人旅をするのは危険だ、ということで”ばば皮”を着せられる話が出てきます。それを着た娘の外見は老婆になり、周囲から守られます。(そう言えば、『ハウルの動く城』のソフィーは、まさにばば皮を被った娘ですね)
このように、成長の過程において、人は外界から隔絶されるべきなのかもしれません。(そうすることが自己の確立に必要?)
八人部屋という特殊な環境にいた私ですら、鉢のようなものを被っていたと思います。(私にとっての”鉢”は文学でした。)それが割れた時、中から出てきた顔が大して美しくもなかったので、私は戸惑ってしまったわけですが笑。(えぇ、、、何のために鉢かぶってたん??)
このように(うまく示せたかは分かりませんが)昔話や童話は、決して「古くて役に立たない」とか、「現実とは何の関わりもない」とか、ましてや「子供の戯言」といったものではないと思います。むしろ、現実との隔たりがあるぶん、身を取り巻く状況をシンプルに見せてくれるものなのではないでしょうか?
※最後に。
こうした昔話や童話は、往々にして残酷なシーンや、悲しい結末を含むものですが、それは現実がそういうものだからだと思います。それらを絵本やアニメに加工する際、クリーニングしてしまうのに私は反対です。(先に述べた河合隼雄氏も『昔話の深層』において、同じことを書いてらっしゃったと思います。今、手元にないので正確に引用することはできませんが。)
カチカチ山のたぬきは、婆さんを殺して料理して、ばば汁を作って爺さんに飲ませるべきだし、人魚姫は泡になって消えるべきだと思います。いくら都合がいいからと言って、万有引力定数をいじるべきではないのと同じです。そうやって建てられたビルには入りたくないですよね、、、^^;
しかし、一方で、私は新しく紡がれつつある物語に希望を見い出してもいます。(そうでなければ、もっとテキトーに小説を書いています。)
もしかしたら、人魚姫は泡にならずに済むかもしれないし、かぐや姫は地上で楽しく暮らすことができるのかもしれません。片子は片子のまま、村の人たちと共存できるのかもしれません。浦島太郎は、爺さんにならずに済むかもしれません。
とにかく、商業的なウケ狙いや、潔癖性的な取締りによる恣意的な加工ではなく、ごく自然に、ハッピーエンドが紡がれていくことを、私は密かに願っているわけです、、、