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ポーランド・カトヴィツェに本当にあった伝説的なカフェとワルシャワ通りの歴史(3)

医師、弁護士、文学者たち……カミル・コザコフスキ


午前中には、近隣住民の奥様方が集まりましたが、その中には、(医師の)ヤン・フロンド博士(ポーランド・カトリック大司祭であったアウグスト・フロンドの長兄)の夫人のような名士がいました。早い時間帯には、カフェは儲け仕事のやりくりや、ビジネスの会話の弁護士たちの待ち合わせ場所にもなりました。午後にカフェ・リベリウス・オットーへ出向いたのは、ヤン・フロンド博士の近隣に住む咽頭科のグルヌィ博士、占領下にポーランド人たちを助けたドイツ人眼科医のクラル博士のような医師たちでした。スタニスワフ・ルジャノヴィチもまたよくカフェの小さなテーブルに向かい腰をかけていました。1887年ポズナニ生まれの歯科医であり、住民投票の活動家であり、シレジア蜂起参加者だったルジャノヴィチュは、刑務所で一年間拘留された後、上シロンスクへ1904年にやってきました。今日、彼の名はカトヴィツェのユゼホヴィエツ地区の通りのうちの一つの名になっています。コンスタンティ・ヴォルヌィもカフェ通いがお気に入りでした。ヴォルヌィはエリートシロンスク民族代表(reprezentant etnicznie śląskiej elity)でした。将来の元帥としての大きな素質を見込んで、彼の父親は息子をカトヴィツェにあるギムナジウムへ行かせました。学校でヴォルヌィはヴォイチェフ・コルファンティと知り合いました。ヴォルヌィはシロンスク蜂起に熱心に加わり、その後、1922年にシロンスク下院議長に選ばれました。

カフェへは文学界からのお客さんも同様に訪問しました。カトヴィツェ滞在期間中、それにもちろん後のシロンスク訪問でも、女流作家ポーラ・ゴヤヴィジンスカはここがお気に入りでした。1930年の終わりが彼女の最初のシロンスク訪問でした。作家にとって、私生活においても創作においても、およそ一年間の滞在は転換点となりました。後に回想しているように、シロンスクの地で、まさに文学の仕事こそ我が命という感覚をんだのです。ゴヤヴィチンスカを最も夢中にしたのは、シロンスク女性の不屈の精神とエネルギーと誇りであり、それは、「普通の一日(Powszedni dzien )」に掲載された短篇小説のページに反映されています。新生ポーランド共和国時代(第二共和制)には ポーランド軍将校(士官)の高位幹部たちもカフェを訪れました。階級の低い将校・士官たちは大抵、カフェ「テアトラルナ(劇場)」の方をむしろ選びました。しかし、カフェ「テアトラルナ」にいる陸軍中尉たちとお喋りするつもりのない、重鎮で尊敬された陸軍大佐たちは、夕方になると自分たちと相応しい人たちと過ごすために「リボリウス・オットー」に出かけました。占領時代に、カフェでは主にドイツのエリートたちが待ち合わせをしていました。戦間期にウェイターだった現地のドイツ人が、当時の支配人でした。戦時下でもケーキは販売されてましたが、ただし配給券を提示する人に対してのみでした。

<訳者追記>
ポーランドの複雑な歴史背景について一般的には多くの人々にとって馴染みがないのでざっくりとポーランドの20世紀について説明します。ポーランドは隣国であるドイツ・ロシア・オーストリア=ハンガリーに占領され、20世紀の初めは地図上に存在しませんでした。
 大きく分けて、現在のポーランド領土の歴史の中で100年の間に4つの体制があり、3度の体制転換を行っています。今回のトピックでは以下に説明するちょうど1〜3の時代にかけてのポーランド南部のシロンスク地方の歴史がカフェのケーキやコーヒーを通して簡潔に描かれています。

(1) 1918年までの三国分割の時代
今のロシア・ドイツ・オーストリア=ハンガリー帝国に支配された三国分割と言われた時代が1918年まで続きます。各地で独立を求める運動が盛んになります。ドイツ領ではシレジア蜂起と呼ばれる政治活動が盛んになり、人々は自治を求めます。1918年に第一次世界大戦が終結するとポーランドは徐々に自治を回復していきます。
(2)1918〜39年新生ポーランド
1918〜39年までポーランド共和国が復活します。その後ナチスの侵攻によりポーランドはドイツに占領され消滅します。ナチスがポーランドの地でソビエト軍が反撃を受けていき、ソビエトがドイツの占領から<解放>したという名の新しい占拠が始まります。事実上自治の空洞化した状況でポーランドのワルシャワ市民たちは亡命政府に主導でワルシャワ蜂起が起きますが、約20万人の犠牲者を生む悲劇的な結果となります。やがて1945年にソビエト連邦の支配下に置かれ、ポツダム会談により現在のウクライナ・ベラルーシはソビエト領となり、西のドイツ領であったシロンスクが<ポーランド>となります。
(3)1945年から1989年 社会主義の時代 ポーランド人民共和国
1945年から国は復活したものの、1989年までは社会主義体制のポーランド人民共和国となります。敗戦国としてソビエト連邦の社会主義衛星国としての役割を課されます。本当の自治を求めて、自由化を求める民主化運動<連帯>がレフ・ヴァヴェンサの呼びかけで盛り上がりを見せていき、1989年6月18日にポーランドは円卓会議にて行われた総選挙にて民主化を果たします。
(4)1989年 民主化 ポーランド共和国の復活とEU加入
 1989年はデモによるベルリンの壁崩壊の年です。民主化によって得られたものの一つに旅行や移動の自由があります。ポーランドの場合は地下活動としての連帯運動やデモを通して、会議による話し合いと選挙によって社会主義を崩壊させました。自由は得られましたが、社会は混乱します。貨幣価値の急激な低下、インフレが起き、高齢者は一生かけて働いたお金をたった一年のインフレで無同然に失ったと言われます。

シレジア蜂起、また国なき国家を支えた<ポーランド・カトリック>の存在についても、説明する必要がありますが、簡単に説明するのには複雑すぎるので、、、またの機会に、、、。





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