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しなやかな枝のように

ザラザラの幹、分厚い樹皮を破り

 イエスは「ナザレのイエス」と呼ばれていました。ナザレは町の名前です。若枝、かつては「ひこばえ」と日本語で訳していた若枝は「ネツェル」というヘブライ語の訳語です。「ナザレのイエス」は、この若枝をイメージさせる呼び名です。イザヤ書11章1、2節にはこのようにあります。

 「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ちその上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。」

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ちその上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。」

株は切り倒された木の株を指していて、決して大樹のイメージではありません。外から剣を突きつけられて倒されたのです。これ以上傷つけられるまいと、残された身を縮め、皮を分厚くし、殻をかぶり、自己防御の態勢をとっているかもしれません。わたしもそうです。みなさんはどうでしょうか。酷い目に遭うと心がぎゅっとなります。辛くなると固まってしまいます。そして、他の誰にも入ってきてほしくない、侵食されたくないと思います。そして内向きな力が発揮されます。ぜひ、切り株に触ってみてください。そのざらつき、ザラザラとした肌触りは、他者を寄せ付けない荒れ野のようです。そしてまるで石で封じられた墓の中のようです。株から若枝が出たとは、カチカチの幹が突き破られ、外へと突き出したという意味です。それがナザレのイエス、内側から外側へと転換されて飛び出したイエスということだと思います。

 大樹の幹の中では受け入れられないイエス

イエスはナザレ出身と福音書に記されています。「ナザレのイエス」つまり「若枝のイエス」は最初期のキリスト教会でのイエスの呼び名、また同時に信仰告白でもあったのでしょう。けれど、マタイ、マルコ、ルカによる福音書では、「イエスはナザレでは受け入れられなかった」と報告されています。これは一体どういうことなのでしょうか。ナザレには、イエスの親戚や知人がいたはずです。いわば、イエスにとってナザレはアウェイではなくホームですが、そこにイエスの居場所はありません。イエスにとってホームが居心地の良くない場所である理由は一体どこにあるのでしょうか。

ホームの機能に与しない生き方を

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