それともぼくと踊りませんか〜たわ言を信じる人びとが平和をつくる
イースターおめでとうございます。イースター礼拝でしたお話のもとになる原稿を記事にしています。「ふざけんな!」とお怒りになられるやも、などちょっと頭をよぎったのですが、イースターはお祝いだし、ちょっとわさわさしても大丈夫かな、おゆるしあれ!と念じつつ温めてきた内容です。
この話はレント期間中にずっと考えてきたものです。受難節って、眉間にしわ寄せ、難しいことを考えている風に過ごさなければならないような感じがするのですが、本当の意味で受難節を過ごすっていうのはこの日が来ることに信頼しているから苦しみを受けることをたどっていけるのかなと思います。なので、反動というか、受苦を突き詰めていけばいくほど、イースターの出来事がこんなだったらいいなあと妄想。
妄想などというと「説教はみことばを忠実に語り、霊的な導きでないと」などと言われるやも。思い込み、自分勝手NGな戒律があるようなのですが、妄想って究極の霊的促しと外的刺激への反応ですからね。こういうこと言うとカリスマっぽいぞと今度は逆側からのご意見も聞こえてきそうです。誰もが神の平和を思い描くことができなきゃ、聖書なんて読む意味ないやんと正直思っています。
さてじわじわっと書き詰めたイースターメッセージ(ルカによる福音書24章1−12節より)がこちらです。
墓を掘る
それは日曜日の朝でした。太陽が昇り始めるとすぐに、女たちはイエスの墓へ出かけました。三日前に準備しておいた香料と香油を持って行きました。
その墓は岩に掘った穴でした。岩を掘るのは、簡単ではありません。
墓をつくる人が、自分が入るために掘ったのでしょうか。誰かのためか、商売だったのか、それはわかりません。誰かが岩をえぐる作業をし、遺体を入れる準備がされていたことを想像すると、とてもさびしい気持ちになります。死ぬことを考えているのだなあと。イエスの墓はアリマタヤのヨセフが手に入れた墓です。23:53に「誰も葬られたことのない墓」と書かれているので、誰が入るかはわからないけれども墓が先にあったということです。もう先に墓が準備されているそれは現代的には安心かもしれません。だけど今が未来、しかも死に向かっているように思います。墓の向こう側、つまり死の後はずっとその岩の穴の中なのでしょうか。暗いでしょうね。そして、さびしいでしょうね。お腹も空くでしょうね。
死を予定しているというか、死が日常と隣り合わせだったことが、まだ誰も入ったことのない墓が既に準備されていたことに表れているように思えます。私はここに切なさというか、虚しさを感じますが、皆さんはどう思われますか。
墓の時代から平和へ
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