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「ゴジラ-1.0」の感想(酷評):山崎監督、ゴジラに対して失礼ではないですか?

映画のことについて書きますが、今回はちょっとネガティヴな感じで。

日本アカデミー賞も獲って、米アカデミー賞視覚効果賞も獲った「ゴジラ-1.0」ですが、個人的な感想としてはダメでした。

その理由について書きます。ネガティヴなことを書くのは時間の無駄なので簡潔に。

悪い映画の感想は書かないようにしているのですが、私は映画ファンで有る前に、ゴジラファンなので、ゴジラだけは特別です。

さて、私は映画は「表現」と「ストーリー」の組み合わせの芸術と思っていますが、「ゴジラ-1.0」は「表現」については申し分無いと思うものの、「ストーリー」とそれを紡ぐ「俳優の演技」の部分が個人的にダメでした(俳優の演技の部分は『表現』の範疇かもしれません)

「ストーリー」全体については、ハッキリ言って他愛の無いものでしたが、エンタメ映画としてそれは全く問題無いと思います。

しかし、整合性が取れていない点、なんでそうなるか分からない点、いや、そうはならんやろという点……私は映画を観て没入するためには、リアリティの積み重ねが重要だと思いますが、せっかく盛り上がってきた所で「いや、そうはならんやろ」が何回も出てきて、ブツリ、ブツリと気持ちが切られてしまいました。

(ちょっと悪いところを携帯メモに書き出したのですが、ネガティヴ過ぎるので載せません)

そして、俗に「人間ドラマ」と言われている部分なのですが、出演する俳優さんは皆、「間違いない演技」をする人達だったのに、それでもなんか演技が良くないなと思うシーンが沢山ありました。

基本的に叫んだり泣いたり。今時テレビドラマでもそんな単純な演技や演出はしないだろう、と思いました(ただ、私は最近、大河ドラマくらいしか観ていません。民放のドラマはあんな感じなんでしょうか)

まさかの安藤サクラに「演技良くないな」と思うシーンも有り(手紙受け取るところとか…)。これは俳優ではなく、監督の演技指導の責任と言わざるを得ないと思います。

なお、ゴジラのシーンなど視覚効果の表現は本当に素晴らしいものであるのは間違いないです。

船の上でのシーンは画面が波に合わせて常に上下揺れるところ(これは宮崎駿の雑想ノートの最貧戦線のコメントで宮崎駿監督が映画化出来たらやりたい、と書いていた表現)や、艦艇や船の描写など、さすが、旧海軍の映画をずっとやってきた監督と思いました。高雄が出た時は本当に素晴らしくて泣きそうになりました。いや、泣いてました。

そして、ゴジラが出てくるシーンは全て最高だったと思います。冒頭のヤングゴジラや、海を泳ぐゴジラのシーン、農村を歩くゴジラのシーン、どれも凄く良いなと思いましたが、銀座のゴジラ襲撃は言うに及ばずで「これは絶対に日本映画史に残るシーンだな」と確信して観ていました。

山崎監督は視覚効果に特に力を入れてきた監督なので、本当に素晴らしいと思いましたし、これを白組と一緒に作り上げたのは米アカデミー賞を獲るに値すると思いました。

でも上述の通り、その素晴らしい「表現」を粗雑な「ストーリー」や、俳優の演技(監督の指導が至らないせい)が侵食してしまっていて、それが本当に残念でした

「特撮映画なんだから、ストーリーや俳優の演技・演出はそんなに真面目にする必要は無いんじゃないか」という意見も有るかもしれませんし、私もそういうことを言いたいこともあるのですが、「映画なのに特撮というジャンルだからと言って、何でストーリーや俳優の演技はどうでも良いのか」と言われると答えられません。

どんなにシンプルで他愛の無い内容の映画であっても、ストーリーは論理的に整合性が取れていて納得できるもので、俳優の演技も不自然さを感じさせないもので有るべきかと思います。

そして、映画ファンとしては、時にとんでもなく不条理なストーリーや、度肝を抜く怪演で鑑賞者をアッと言わせても欲しいものですが、ゴジラ-1.0はそういう類の映画ではないと思います。

ゴジラをあれほど真面目に、カッコよく、リアルに作り上げたのだから、ストーリー構成や俳優の演技指導もしっかりとしたものにして頂かないとゴジラに失礼かと思います。

銀座のシーン、映画を観ながら私は「山崎さん!今、日本映画の歴史に残るシーンなんだから、しっかりして!!」と心の中で叫んでいました。

私達オタクは「シン・ゴジラ」の時に「ゴジラをしっかりと活かすには骨太でリアリティの有るストーリーと俳優の演技が必要」と気付いたはずと思うのですが、ゴジラ-1.0をオタクの人たちが称賛するのを見るにつけ、嘆かわしいこととオタク界を憂慮するものです。

上記の通りの「リアリティの積み重ね」が映画への没入を促すという点で、ゴジラ自身の姿は100点満点でしたがストーリーや俳優の演技で-60点くらいだったので、40点くらいの映画かなというのが私の個人的な感想です。

さて、私の評価では無いのですが、少し気になる点についても書いておこうと思います。

ゴジラ-1.0のストーリーについて、アメリカでも好評というネットニュースの記事をちらっと見ました。

この事について、私はちょっと憂慮しています。

最近「なぜ原爆が悪ではないのか : アメリカの核意識」(宮本ゆき 著.岩波書店)という本を読んだのですが、その本の中で、アメリカで広島や長崎の被爆者の方が原爆の体験談を語る講演会を実施すると、アメリカの人は「生き延びて、その悲惨な話を我々と共有してくれるとは、なんとあなたは強い人なのでしょう!尊敬します!」(P.36)といった感想が返ってくることが紹介されています。

こういう想定外の反応が出てくる理由について著者の宮本さんは、「彼らがそれまで慣れ親しんできた物語のパターン、特に戦争体験の語りの型が根本的に違う、というところに根ざしていると思われます」と述べています。

そして、彼らの戦争体験の語りの型については下記の通り。

①アメリカには国家間戦争で子供が被害を受けるという話が無い(無いことは無いと私は思うのですが、多分、あまりピンとこないんでしょう)
②「原爆に被爆し、その後、後遺症で苦しんだ」という物語は、「悲惨」というものではなく、「困難を乗り越えて生還しそれを物語ってくれる立派な人」の物語になってしまう。
③アメリカ人には「放射能でパワーアップ」というイメージが有る。彼ら彼女らにとって核兵器とは「力・破壊」であり、その後の放射能の後遺症などについては殆ど理解が無い。「力・破壊」なので、きちんと「自分たちがコントロールしないといけない」というイメージを持っている

といったものだそう……

こういう「語り」の「型」を持った人たちがゴジラ-1.0を観た時に、どんな感想を持つだろうと想像したのですが、もしかしたら「PTSDに陥って戦えなくなった人達が、もう一度、“戦える”ようになる話」と捉えているのではないかと考えます。

特にゴジラ撃退の際に、武装解除の状態とはいえ旧軍の兵器を多数使用したことは、見た目的に(そして軍ヲタである私としては個人的に)良かったと思うものの、それを助長していると思います。

そう考えると、作り手が「ゴジラ-1.0」で描きたかったはずの「終わらせられなかった戦争を終わらせて、“戦いとは違うやり方”で前に進もうとする人達」の物語としてアメリカ人は「ゴジラ-1.0」を捉えてはいないのではないでしょうか。

「また“戦える”ようになって良かった」という単純で悲しい捉え方をしているのではないでしょうか。

そして、アメリカ人の持つ(かもしれない)「放射能でパワーアップ」という価値観は、「ゴジラ」の見方も我々日本人とは180°近く違うものにしている可能性もあります。

特に今回のゴジラ-1.0のゴジラは、シン・ゴジラと違って、直接的な核爆発の影響でゴジラになるので、「核爆発、やっぱ凄いな!」とアメリカの人が思わないか……

そんな憂慮もしましたので、取り敢えず書いておきたいと思います。

といった感じの、「ゴジラ-1.0」の個人的な感想でした。

「ゴジラ-1.0」は世間では「絶賛」という評価しか見ないので、自分の感想が間違っているのではないかと思っていましたが、とある人達の「酷評」を見かけて自分の考えもそんなに悪くないなと思い、この感想文を書くことが出来ました(誰の酷評かは伏せますが、見かけた方はあの人のだなと分かるかと思います)

「映画は観客に観られて、語られて映画になる」ということを押井守監督が言っていて、私はこの考えが好きです。

普段、40点くらいの映画は、観たことを忘れてしまい語りもしないのですが、「ゴジラ-1.0」を自分の中で「映画」に出来て良かったです。

辛い文章でしたが、最後まで読んで頂きありがとうございました。

また、別のゴジラ映画の感想でお会いしましょう。


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