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加藤のファミリーヒストリー22 同居

祖父清が亡くなって、平井の家は処分することになり、祖母みつは’我が家へ来ることになりました。
その時の日記です

1978年8月31日
私の家なら昼間は誰もいないし、留守番になる

娘の家だから、お嫁さんみたいに気を使わなくていい。
私とパパは前々からおばあちゃんがうちにくることを主張している。

それが一番自然じゃないか?本音を言えば、私は家族が多い方が好きだし、
きっとそうなると思うけど


10月22日

今日からうちは4人家族
平井のおばあちゃんがうちにきたからです
できるだけ、仲良くしようと思ってる。だって、私おばあちゃん好きだもの


そして、祖母は普段は町田の家、夏休みになると伯母の家に手伝いがてら滞在するようになります


町田へ来て、祖母はみつは第2の人生とも言える時間を過ごします
もともと几帳面で知識欲も旺盛なみつは、毎日楽しそうに、心おきなく新聞に目を通していたし、趣味で革細工を始めました。
その作業は本当に丁寧で、緻密で、行き届いていました。
時々は、伯父たちと出かけたり、孫たちも成長して、結婚式に出席したり
私たちの人生の門出にはみつの姿がありました。

宮城沖地震があった日。私は祖母と家にいましたが、経験したことのないようなゆったりと大きな揺れで、台所の棚の戸が開いてしまいました。
私にとってそんな大きな地震は初めてでしたが、その時祖母は
「関東大震災なんてこんなもんじゃないわよ!立ってられないんだから」
と話していました。関東大震災当時、みつは身重な上に目の不自由な姑の手を引いて逃げていたのですから、そういうのもわかります。
その時改めて、関東大震災から第二次世界大戦を生き抜いて来た彼女の人生を思いました。

我が家は両親とも中学の教師でしたが、父はかつて手術した時の輸血からか肝炎に感染しており、早くに退職します。
そして、時は学校崩壊の時代。
3年B組金八先生というドラマがヒットするほどに、中学生は様々な事件を起こすようになります。
ツッパリと呼ばれた不良グループ全盛期!
母君枝はの勤める学校でも、次々と問題が勃発しました。

私は音大生となり、大学生活中心の日々

結局、退職して昼間は家にいる父は、料理に興味を持ち始め、毎日午前中に料理本を見ては、食べたいものの材料を買いに行き、毎日夕飯の支度をして、祖母は父の手伝い。
そこへ母と私が帰宅するというパターンの生活になりました。

私も自分のことで精一杯の時期、
「おばあちゃんと仲良くしよう」と思って始めた同居でしたが、
だんだんに祖母の言動を疎ましく思うようになります。
今思えば、祖母だってもう高齢で思うようにできないことが増えて来たのに、
当時は高齢者についての情報を得る方法もなく、ただ、苛立ちを募らせるばかりでした。
ここが血縁の難しさなのか、祖母が気を使ってする発言が、返って気持ちを逆撫でされてしまう。そして本当に申し訳ないほどに冷たい態度をとってしまったこともありました。
母にしても、同じで、学校崩壊で職場も大変だった頃に、気持ちの余裕もなく、みつに対して心ない言い方をしているのも感じました。
あの頃のことを思い出すと、後悔ばかりです。

そんな中、父だけはいつも穏やかで、イライラしている妻と娘の間に入って、その空気を和ませてくれていたのが救いでした。

みつを囲んで尚武、君枝、登美子
4人で同居

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