加藤のファミリーヒストリー3 戦争の波へ
清はたとえ子供であっても常に「尊重する」姿勢でした。
綺麗好きな清は毎朝自ら掃除を欠かさない人でしたが、ある時君枝が本を読んでいるときに、掃除を手伝おうとすると
「いいからあなたは本を読みなさい。青い鳥、お父さんも大好きなお話だ」
と言ったそうです。
誰かが何かをしているときにはそれをやめさせたりしない。たとえ自分が父親でも
子供を対等に考える人でした。
清は東芝をやめると、尚栄電気株式会社を立ち上げ、おもちゃ屋。そして金網をセメントで固めた壁の製造で会社を大きくしました。
写真は会社の社員旅行 1943年と1944年では服装がすっかり変わっているのがわかります。時代の変化を感じる写真です
ついに日本は戦争の時代に突入します。長女登美子、次女君枝(私の母)は集団疎開します。
集団疎開先は山形県湯野浜温泉にあったいわみや旅館。
いまだに君枝は「イッチバン汚い旅館だった」という喜べない環境だったようですが、江戸川区の小学生の多くはそこへ行き旅館に分散していたようです。ついたその日に登美子は寂しくて大声で泣きました。寮母さんに「妹さんが泣いてないのにあなたが泣いていてはだめでしょう」と嗜められたそうですが、母の記憶によれば「先にあんなに泣かれたらもう泣けなかった」そうです。
疎開した子達は東京の親宛に手紙を書きましたが、もちろん心配させないように悪口など書けません。手紙は全て先生が目を通します。
ところがそのイッチバン汚い旅館の様子を登美子は手紙で清に知らせました。
当時、子供の外出は先生が付き添っていましたが、6年生が床屋に行くときだけは付き添いが無しだったそうで、登美子はその機会に真実を書いた手紙を投函します。
それを読んだ清は面会日を待って東京からやってきました。
当時三松工業という水飴を作っている会社の社長と親しかった清は、戦時中手に入ることもない水飴を一斗缶の半分くらい分けてもらって持参しました。
疎開先の子供達は大喜び!皆が先を争って水飴にしゃぶりついている間に登美子と君枝は荷物をまとめ、そのまま清は二人を東京に連れ帰ってしまいました。
本来違反行為ですが、正義感の強い清には劣悪な環境にいることを隠して我が子を疎開させておくことなどできなかったのだと思います。
そして東京に到着した日 登美子と君枝が通っていた小松川小学校は空襲で焼けました。学校から炎が上がっているのを覚えているそうです。
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