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「世間ってなんだ」

「世間ってなんだ」(鴻上尚史 講談社)

作家・演出家・映画監督による週刊誌の記事を再構成した本。日本社会における「世間」(自分と関係のある人達の集団)と「社会」(自分と関係ない人達の集団)とを対比して、日本人は「社会」がほとんど存在せず、中途半端に壊れた「世間」に生きている(70-71ページ)との主張は、なかなか面白かった。

以下のブログの紹介(40-43ページ)も面白かった。というか、日本社会を象徴していて、あまり笑えない話でもあった。

CIAのスパイマニュアルに学ぶ「会社をダメにする11の行動様式」

敵国内のスパイが、組織の生産性を落とすためにどのような「サボり」ができるか、という「サボり方ガイド」

・「注意深さ」を促す。スピーディーに物事を進めると先々問題が発生するので賢明な判断をすべき、と「道理をわきまえた人」の振りをする
・可能な限り案件は委員会で検討。委員会はなるべく大きくすることとする。最低でも5人以上
・何事も指揮命令系統を厳格に守る。意思決定を早めるための「抜け道」を決して許さない
・会社内での組織的位置付けにこだわる。これからしようとすることが、本当にその組織の権限内なのか、より上層部の決断を仰がなくてよいのか、といった疑問点を常に指摘する
・前回の会議で決まったことを蒸し返して再討議を促す
・文書は細かな言葉尻にこだわる
・重要でないものの完璧な仕上がりにこだわる
・重要な業務があっても会議を実施する
・なるべくペーパーワークを増やす
・業務の承認手続きをなるべく複雑にする。一人で承認できる事項でも3人の承認を必須にする
・全ての規則を厳格に適用する

最近、大学生が不祥事を起こして、大学が謝る、というのが普通になってきました。ちょっと待てと思います。20歳を越していようが、とにかく本学の学生ということで謝る。まあ、高校生までは学校が謝ることはありかもしれないと思います。でも、大学が謝ってどうするんだと、僕はずっと思ってます。だって、誰かが謝るということは、本人以外が最終責任を取るということでしょう?つまり、本人はまだ半人前だと世間にせんげんしていることになるのです。20歳になって(18歳でも同じだと思っていますが)、まだまだ半人前扱いをするのなら、一体、いつ自立した大人として扱われるようになるのか。でもね、会社員になっても、不祥事を起こすと会社の人が謝るでしょう。これ、日本社会の特徴ですからね。欧米の会社だと、「この社員はとんでもない。我々も迷惑している」というスタンスですからね。それで顧客が迷惑した場合は、「これだけの損害を与えたので、これだけの補償をする」というだけです。でも、日本は会社の偉い人がまず、謝るでしょう。補償をどうするかの前に、場合によっては泣きながら謝るじゃないですか。つまり、会社員になっても、最終責任は本人以外の誰かが取るわけです。永久に半人前扱いなんだと思うのです。(90-91ページ)

「世間」は、あなたと、現在および将来、関係のある人達が作る世界。
「社会」は、あなたと、現在および将来、なんの関係もない人達が作る世界。
で、日本人は、「世間」の感じ方、考え方が身体の芯まで染み込んでいるので、「社会」の人なのに、「世間」の知り合いのように対応してしまいがちだということです。(117ページ)

欧米には「世間」という身内が集まる空間と「社会」という知らない人が集まる空間の区別はありません。
(中略)
結果、欧米では、「自分とはまったく関係のない人達と話す言葉」や「コミュニケイション技術」が発達したのです。というか、生き延びるためには、発達させざるを得なかったのです。(125-126ページ)

イギリス人をはじめとするヨーロッパ人は、ジャンケンをしないのです。ジャンケンをしないから、ちょっとのことで議論します。日本人なら、ほぼ100%、無条件でジャンケンが始まります。
(中略)
で、僕は「日本人の精神構造と、ジャンケンは密接なつながりがある」と考えるようになりました。ヨーロッパ人は(アメリカ人もですが)、子供の頃から、遊ぶ順番を議論で決めます。日本人は、ジャンケンで決めます。これが、その国民の考え方や感受性と無関係なわけがないのです。だって、幼児の頃、ブランコに誰が最初に乗るかを決める時、議論で決めるということは、3歳から対立を明確にするということです。弁舌がたつ子、説得力がある子、腕力で威圧する子が勝つという文化を生きるのです。つまりは子供心に、"競争"と"自己主張"が刷り込まれるのです。が、ジャンケンでブランコに乗る順番を決める文化には、"競争"も"対立"も"自己主張"も関係ないのです。(196-197ページ)

出演者の夏目房之介さんが、「そうなんですよ、「ドラえもん」は東アジアでは圧倒的に指示されているんですけど、欧米ではまったく無視されてるんですよ」と話されました。ほおほお、それはどうしてですか、と聞くと「この前も、知り合いのアメリカ人に「ドラえもん」を読ませたら、「これじゃあ、子供はだめになってしまう」と言っていました」と答えてくれました。つまり、のび太の性格が、「ドラえもん」の欧米進出を阻んでいるわけです。のび太は、こんな所でも、ドラえもんに迷惑をかけています。(201ページ)

すべてのものはコメントし得ると、国民が思い込んでしまったのは、いつの頃からなのでしょう?僕は、以前、「世界陸上」で、コメントし続ける司会者に対してのあるディレクターの言葉を書きました。そのディレクターは、「100メートルを10秒を切って走ることができる人間と釣り合うカットバックなんて、本当は存在しないはずなんだ」と言ったのでした。その言葉に、僕は少々、衝撃を受けたのです。言われてみれば、100メートルを10秒を切って走った人間が映った画面の後に、司会者の陽気で感動した顔とコメントの映像=カットバック(画面の切り替え)が来ます。けれど、その二つは、本当は続けて並べてはいけないものなんだ、とそのディレクターは言ったわけです。
勝手に解釈すれば、超人的な走りを見せた男性と釣り合うカットバックの映像は、例えば、富士山の実景とか真っ赤な夕焼けとか太平洋の大波とか、人間のレベルを超えたものであるはずなのです。
(中略)
コメントの内容が問題なのではありません。褒めようがけなそうが、問題は、10秒を切って走るという超人的なことに、普通の人間がコメントできる、コメントしていい、という"ムード"を無意識に作っていることなのです。(205-207ページ)

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