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「ものがわかるということ」

「ものがわかるということ」(養老孟司 祥伝社)

養老孟司氏による、これまで考えてきたことの集大成的な本。前に他の本で読んだ内容も多かったが、改めて面白く読んだ。

 情報と現実の人間との根本的な違いは、情報はいっさい変わらないけれど、人間はどんどん変わっていくということです。(24ページ)

 特に、近年はSNSなどによって、軽々しい言葉があふれかえるようになりました。言葉が豊かなほど、考える道具は多くなりますが、言葉だけに捉われていると、言葉で表されない大切なものを見逃してしまうことになりかねません。
 私自身、言葉で伝えられない世界で学び、仕事をしていました。大学で携わっていた解剖学では何よりも実習が重要でした。
 死体と直面する。しかも自分の手で触る。いまと違って、当時は手袋もしていません。素手で死体をいじるという行ないから得られる知見は、決して言葉ではすべては伝えられません。(27-28ページ)

 知ることの本質について、私はよく学生に、「自分ががんの告知をされたときのことを考えてみなさい」と言っていました。「あなたがんですよ」と言われるのも、本人にしてみれば知ることです。「あなた、がんですよ。せいぜい保って半年です」と言われたら、どうなるか。
 宣告され、それを納得した瞬間から、自分が変わります。世界がそれまでとは違って見えます。でも世界が変わったのではなく、見ている自分が変わったんです。つまり、知るとは、自分が変わることなのです。
 自分が変わるとはどういうことでしょうか。それ以前の自分が部分的に死んで、生まれ変わっていることです。(38ページ)

 内田樹さんは、このことをサッカーにたとえて、うまい表現をしています。「サッカーのゲームはもうすでに始まっている。そこへ、君たちは選手として放り込まれる。そころが、ルールも身体の動かし方もなんにも知らない。だけど放り込まれたら、周りを見ながら必死で覚えて動くしかない。それが実は、仕事するってことなんだ」と。
 これは仕事に限らず、実は学問もそうです。遅れてきたから、追いつこうと思って必死にやるわけです。(94ページ)

 それがわかったら、個性とか、本当の自分とか、自分に合った仕事とか、つまらないことは考えないほうがいい。どんな作品になるかはわからなくても、ともかくできそうな自分を「創ってみる」しかありません。そのために大切なことは、身体の世界や感覚の世界、つまり具体的な世界を身をもって知ることである。そこで怠けると、後が続きません。
 時々、知らない世界を見ることが、未知との遭遇だと思っている人を見かけます。コロナ前には、外国に「自分探し」に行く人もいました。日本が既知で、外国が未知なのではありません。「自分は同じ」と思っているから、日本にいるとなんでも同じに見えてしまう。それで「退屈だ」とこぼすのです。
 でも、自分は同じだと思っている人が外国に出かけても、大した未知との遭遇はできません。そのくらいなら、何も考えずに出かけていったほうがいい。知らない環境に入れば、自分が変わらざるを得ませんから。(97-98ページ)

 日本にいても同じようにすればいい。いつも私は別に伝わらなくてもいいと思って喋っています。私が書いた本を読んだ人から、「先生、なんかぶつぶつ言っていますね」と言われたことがあります。この「ぶつぶつ」が面白いと。私の文章は、理屈や論理がすっと通っているわけじゃありません。あちこちよそ見をしたり、寄り道をしている。そうすると「ぶつぶつ」になるんです。
 でも、ぶつぶつ言っていると、それを読む人は適当に解釈して受け取ってくれます。日常のコミュニケーションもそのくらい、いい加減でいいんです。(108ページ)

 人生にはこういう人を見抜く感覚が絶対に必要です。人間を見抜く感覚さえ磨いておけば、対人関係の面倒なトラブルは避けられます。
 感覚を磨くための教科書はありませんが、できるだけ多様な状況に身を置いてみることが必要です。大学で働いているときの私にとっては、飲み屋がそういう場でした。
(中略)
 子どもと遊んでみるのもいいかもしれません。子どもは私たちと前提をまったく共有していません。大人が当たり前だと考えていることも全然知らないし、興味ももっていない。そういう人たちにうまく伝えるのは、感覚を磨くいいトレーニングになります。(122-123ページ)

 SNSは人から評価されるかどうか、「いいね」の数が多いかどうかが問題となりますが、若いうちは、そういうことをしないほうがいい。それらはすべて相手しだいです。
(中略)
 次第に他人の評価に自分を寄せてしまうようになって、周りのことばかり気にするようになります。だから、「いいね」はすることもされることもしなければいいのです。それで一時的に仲間との関係が悪くなっても仕方がない。人の評価を気にすることのほうが、よっぽど感覚に害があります。(129-130ページ)

 数値に目を奪われていると、健康にためにはそれだけが重要なことのように思われてきます。健康診断に一喜一憂する人は、この罠にはまっていると言えます。
 では医療における統計を否定すればよいのかというと、そんなことは不可能です。しかし統計データだけを判断材料にするのも危険です。
(中略)
 大事なのは身体の声を聞くことです。
(中略)
 ただ、身体の声が聞こえるようにするには、自分が「まっさら」でなければなりません。(146-147ページ)

 自然に手入れをする感覚を少しでも取り戻すために、私はさまざまな本で「現代の参勤交代」を提唱してきました。都会の人が、たとえば一年に一カ月でもいいから、田舎の過疎地に滞在し、身体を使って働いたり、のんびりしたりできるようにするのです。日本人で有給休暇を完全に消化している人はほとんどいませんから、きちんと休みをとるためにも有効です。みんなが順番に休み、リフレッシュしてふたたび仕事に取り組めば、そのほうが、効率も上がっていいはずです。(191-192ページ)

 つまり、何も知らない白紙の状態で何かを見ても、観察したことにはならないのです。だってアリグモを見ても、アリだとおもってしまうわけですから、違いがわかりません。私たちは、観察を積み重ねていくことでものを見ることができるようになるのです。
 こういう観察に決まった方法はありません。やってみるしかない。ところが、「虫を見てみたら?」と若い人に言うと、「そうしたらどうなりますか?」と尋ねてくる。「やってみなきゃわかんないだろう」と言うと、「そんな無責任な」と言われます。
 答えが見えないことを言うと無責任になる。でも、あらかじめ答えがわかっていることなんて、ちっとも面白くありません。
 自然に身を置けば、発見の連続です。(中略)世界の人が知っていようが知っていまいが、そんなことは私には関係ありません。ウクライナに行ったら誰でも知っている虫だとしても、私が知らなければ、見た瞬間に発見になります。自然は、そういう意味の発見に満ち満ちています。(198-199ページ)

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