「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」
「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」(三宅香帆 集英社新書)
文芸評論家の著者による、近代現代の読書史や労働史を通じた、読書のあり方についての本。とても話題になっていたから、読んでみた。
明治以降のベストセラー本やその背景や労働環境を振り返り、明治においては「男性たちの仕事における立身出世のための読書」(47ページ)であったのに対し、現代においては(ノイズの除去された知識である情報とは異なり)読書とはノイズである」(176ページ)と述べている。また現代は、「仕事で自分の人生を満足させている」(185ページ)自己実現を称賛しており、それが「自己実現系ワーカホリック」(192ページ)を生み出し、その一方で、「インターネットは、ノイズのない情報を私たちに与えてくれる」(201ページ)としている。まとめとして、仕事をしながら読書ができるようにするためには、全身全霊で働くのではなく、「半身で働く」(232ページ)ことを推奨している。読書史、労働史、その当時の流行など、幅広い内容をまとめて話を進めていく展開は、非常に面白かった。(このように、1冊の本の内容を短く平板にまとめてしまうのも、ノイズを除去してしまっていることだと思うが)
私にとっては、読書が人生に不可欠な「文化」です。あなたにとってはまた別のものがそれにあたるでしょう。人生に必要不可欠な「文化」は人それぞれ異なります。
あなたにとって、労働と両立させたい文化は、何ですか?
たとえば「海外の言語を勉強すること」「大好きな俳優の舞台を観に行くこと」「家族と一緒にゆっくり時間を過ごすこと」「行きたい場所へ旅行に行くこと」「家をきちんと整えて日々を過ごすこと」「やりたかった創作に挑戦すること」「毎日自炊したごはんを食べること」...など、自分の人生にとって大切な、文化的な時間というものが、人それぞれあるでしょう。そしてそれらは、決して労働の疲労によって奪われていいものではない。(19ページ)
現代の読書法には、読書を娯楽として楽しむことよりも、情報処理スキルを上げることが求められているのだ。(27ページ)
ベストセラーとは、時代の空気にベストタイミングで合致した本を出したときにだけ起こる、台風のようなものだと私は考えている。そうだとすれば以下で取り上げる書籍は、立身出世主義が加速していったそのエンジン音とともに、ベストセラーに駆け上がった一冊だ。
「西国立志編」---イギリスのスマイルズの著作を中村正直が翻訳した書籍が、明治初期に大ベストセラーとなる。(43ページ)
「西国立志編」は「修養」という言葉を日本ではじめて使った書籍である。Cultivationやculture、cultivateといった「勤勉」や「努力」という単語を、中村は「修養」と訳した。「西国立志編」のベストセラー化によって、「環境に頼らず自分で修養しよう」という思想が明治時代には広まっていった。(46ページ)
明治の「修養」主義は、大正時代、ふたつの思想に分岐していった。
一方が戦後も続くエリート中心の教養主義へ。一方が戦後、企業の社員教育に継承されるような、労働者中心の修養主義へ。
だとすれば---本章冒頭にて問題提起した「ビジネスに使える、効率重視の教養」の正体は何なのだろう。それは一見、令和にはじめて流行したような、ビジネスパーソンの不安や焦りを反映した現代のトレンドに思える。だが実際のところ、大正以降に分岐したはずの「教養」と「修養」が再合流したものが、その正体なのではないだろうか。(79-80ページ)
雑にまとめてしまえば、高度経済成長期の長時間労働は、日本の読書文化を、結果的に大衆に解放したのである。サラリーマンが増えた時代、みんな働いているのだから、働いている人向けの本を出すのが、一番売れるはずだ。出版社はそのように考え、余暇時間の少ないサラリーマンに売るために、サラリーマンに特化した本---つまり「英語力」や「記憶力」を向上させるハウツー本や、読みやすくて身近なサラリーマン小説を誕生させたのだ。そしてそれは結果的に、労働者階級に読書を解放することになった。読書が大衆化し、階層に関係なく、読書するようになる時代の到来である。(118ページ)
そう、70年代と比較して、80年代は急速に「自分」の物語が増える。そしてそれが売れる。これは当時、コミュニケーションの問題が最も重要視されていたからではないか。
自分と他人がうまくつながることができない、という密かなコンプレックスは、翻って「僕」「私」視点の物語を欲する。
社会ではなく、「僕」「私」の物語を、みんな読みたがっていた。
それは労働市場において、学歴ではなくコミュニケーション能力が最も重視されるようになった流れと、一致していたのだ。(151ページ)
翻って令和の私たちの風景を考えてみると、カルチャーセンターに向けられた視点は、オンラインサロンに現在向けられるまなざしとやや似たものを感じてしまう。
たとえば現代で「大学」を冠するYouTubeやオンラインサロンは蔑視の対象になりがちだ。(158ページ)
私はこれまでも、自己啓発書の原点として明治時代に流行した「西国立志編」を紹介したり、1970年代のサラリーマンに読まれた司馬遼太郎の小説を紹介した。それらと90年代の自己啓発書と最も異なるのは、同じ自己啓発的な内容ではあれどそのプロセスが「心構え」や「姿勢」「知識」といった<内面>の在り方を授けることに終始していたことだ。
たとえば偉人の人生を紹介することで、その生きる姿勢を学ぶ。そこに<行動>のプロセスは存在しない。
しかし90年代の自己啓発書は、読んだ後、読者が何をすべきなのか、取るべき<行動>を明示する。
そこに大きな違いがある。
<内面>重視から、<行動>重視へ。90年代にベストセラーで起きた転換をそう呼ぶならば、この傾向は、前述した牧野の雑誌分析においても見られるものである。(170-171ページ)
しかし一方で、1990年代以降に起こった変化は、社会と自分を切断する。仕事を頑張っても、日本は成長しないし、社会は変わらない。現代の私たちはそのような実感を持っている人がほとんどではないだろうか。というかむしろ「なぜ自分が仕事を頑張ったからって、日本が成長するんだ」と思う人が多数派だろう。
90年代以降、ある意味<経済の時代>ともいえる社会情勢がやってきたからだ。
経済は自分たちの手で変えられるものではなく、神の手によって大きな流れが生まれるものだ。つなり、自分たちが参加する前から、すでにそこには経済の大きな波がある。そして、その波にうまく乗ったものと、うまく乗れなかったものに分けられる。格差は、経済の大きな波に乗れたか乗れなかったか、適合できたかどうかによって、決まる。大きな社会の波に乗れたかどうかで、成功が決まる---。
自分が頑張っても、波の動きは変えられない。しかし、波にうまく乗れたかどうかで自分は変わる。それこそが90年代以降の<経済の時代>の実感なのだ。
つまり90年代の労働は、大きな波のなかで自分をどうコントロールして、波に乗るか、という感覚に支えられていた。
「そういうふうにできている」。さくらももこのつけたタイトルは、存外、平成という時代が生み出した感覚を先取りしていた。(174-175ページ)
麦が「パズドラ」ならできるのは、コントローラブルな娯楽だからだ。スマホゲームという名の、既知の体験の踏襲は、むしろ頭をクリアにすらするかもしれない。知らないノイズが入ってこないからだ。
対して読書は、何が向こうからやってくるのか分からない、知らないものを取り入れる、アンコントローラブルなエンターテインメントである。そのノイズ性こそが、麦が読書を手放した原因ではなかっただろうか。
逆に言えば、1990年代以前の<政治の時代>あるいは<内面の時代>においては、読書はむしろ「知らなかったことを知ることができる」ツールであった。そこにあるのは、コントロールの欲望ではなく、社会参加あるいは自己探索の欲望であった。社会のことを知ることで、社会を変えることができる。自分のことを知ることで、自分を変えることができる。
しかし90年代以降の<経済の時代>あるいは<行動の時代>においては、社会のことを知っても、自分には関係がない。それよりも自分自身でコントロールできるものに注力したほうがいい。そこにあるのは、市場適合あるいは自己管理の欲望なのだ。(183ページ)
つまり90年代後半から00年代にかけて、日本の教育は「好きなこと」「やりたいこと」に沿った選択学習、進路形成を推奨する教育がなされることになった。結果として「やりたいことが見つからない」若者や、あるいは「やりたいことが見つかっていても、リスクの高い進路を選んでしまう」若者が増えて行ったのだと荒川は指摘する。
このような風潮が、自分の「好き」を重視する仕事を選ぶことを良しとする「13歳のハローワーク」のベストセラー化につながったのだろう。(190ページ)
インターネットの本質は「リンク、シェア、フラット」にある、と語ったのはコピーライターの糸井重里だった(「インターネット的」)。とくに「フラット」というのはつまり、「それぞれが無名性で情報をやりとりすること」と糸井は説明する。
インターネットのやりとりに、本名でなくハンドルネームというものを使い合っているというのは、悪いことばかりじゃなく、みんなを平らにするための、ある種の発明だったとも言えます。ネットというのは、ある種の仮面舞踏会でもあったわけです。
現実での階級を仮面で隠し、ただ情報を交わすことに集中する。そこには、現実のヒエラルキーを無効化する、という効果もあった。(196-197ページ)
仮にこの対比を、<読書的人文知>と<インターネット的情報>と呼ぶならば、そのふたつを隔てるものは何だろう?
<インターネット的情報>は「自己や社会の複雑さに目を向けることのない」ところが安直であると伊藤は指摘する。逆に言えば<読書的人文知>には、自己や社会の複雑さに目を向けつつ、歴史性や文脈性を重んじようとする知的な誠実さが存在している。
しかしむしろ、自己や社会の複雑さを考えず、歴史や文脈を重んじないところ---つまり人々の知りたい情報以外が出てこないところ、そのノイズのなさこそに、<インターネット的情報>ひいてはひろゆき的ポピュリズムの強さがある。
従来の人文知や教養の本と比較して、インターネットは、ノイズのない情報を私たちに与えてくれる。(200-201ページ)
2000年代、インターネットというテクノロジーによって生まれた「情報」の台頭と入れ替わるようにして、「読書」時間は減少していた。「情報」と「読書」のトレードオフがはじまっていたのだ。しかし「情報」の増量と「読書」の減少に相関があるかどうかは、もちろんこれだけで導き出せるものではない。
だが一方で、それでは情報とは何なのか? 読書で得られる知識と、インターネットで得られる情報に、違いはあるのか? という問いについて考えてみると、どうだろう。
「情報」と「読書」の最も大きな差異は、前章で指摘したような、知識のノイズ性である。
つまり読書して得る知識にはノイズ---偶然性が含まれる。教養と呼ばれる古典的な知識や、小説のようなフィクションには、読者が予想していなかった展開や知識が登場する。文脈や説明のなかで、読者が予期しなかった偶然出会う情報を、私たちは知識と呼ぶ。
しかし情報にはノイズがない。なぜなら情報とは、読者が知りたかったことそのものを指すからである。(205ページ)
自分の意志を持て。グローバル化社会のなかでうまく市場の波を乗りこなせ。ブラック企業に搾取されるな。投資をしろ。自分の老後資金は自分で稼げ。集団に頼るな。---それこそが働き方改革と引き換えに私たちが受け取ったメッセージだった。
労働小説の勃興
働き方改革の時代性は、読書の世界にも影響を及ぼす。
実はリーマンショックを経た2000年代末から2010年代、労働というテーマが小説の世界で脚光を浴びていた。(218ページ)
上田修一「大人は何を読んでいるのか---成人の読書の範囲と内容」の調査によれば、近年数年間の読書の量について、「減った」と答えた人(35.5%)のうち、SNSの影響を挙げた人(6.2%)よりも、「仕事や家庭が忙しくなったから」と答えた人(49.0%)のほうがずっと多い。
読書量が減ったと感じている人のうち、半数が「仕事や家庭が忙しい」ことを原因と感じている---。
これはまさに本書のタイトルが指す「働いていると本が読めない」という現象そのものである。(221ページ)
これが教養でなくて、何だろう。今回の例はきわめて示唆的なエピソードではないだろうか。教養とは、本質的には、自分から離れたところにあるものに触れることなのである。
それは明日の自分に役立つ情報ではない。明日話す他者とのコミュニケーションに役立つ情報ではない。たしかに自分が生きていなかった時代の文脈を知ることは、今の自分には関係がないように思えるかもしれない。
しかし自分から離れた存在に触れることを、私たちは本当にやめられるのだろうか?
私たちは、他者の文脈に触れながら、生きざるをえないのではないのか。
つまり、私たちはノイズ性を完全に除去した情報だけで生きるなんて---無理なのではないだろうか。(226-227ページ)
たとえ入り口が何であれ、情報を得ているうちに、自分から遠く離れた他者の文脈に触れることはある。
たとえば面接のためにフリッパーズ・ギターを調べているうちに、昔の音楽を聴くようになるかもしれない。たとえば早送りで観たドラマをきっかけに、自分ではない誰かに感情移入するようになるかもしれない。たとえば自分の「推し」がきっかけで、他国の政治状況を知るかもしれない。
今の自分には関係のない、ノイズに、世界は溢れている。
その気になれば、入り口は何であれ、今の自分にはノイズになってしまうような---他者の文脈に触れることは、生きていればいくらでもあるのだ。
大切なのは、他者の文脈をシャットアウトしないことだ。
仕事のノイズになるような知識を、あえて受け入れる。
仕事以外の文脈を思い出すこと。そのノイズを、受け入れること。
それこそが、私たちが働きながらほんを読む一歩なのではないだろうか。(231-232ページ)
しかし高度経済成長期の男性たちは、全身仕事に浸かることを求めた。そして妻には、全身家庭に浸かることを求めた。それでうまくいっていた時代は良かったかもしれない。だが現代は違う。仕事は、男女ともに、半身で働くものになるべきだ。
半身で働けば、自分の文脈のうち、片方は仕事、片方はほかのものに使える。半身の文脈は仕事であっても、半身の文脈はほかのもの---育児や、介護や、副業や、趣味に使うことができるのだ。
読書とは、「文脈」のなかで紡ぐものだ。たとえば、書店に行くと、そのとき気になっていることによって、目につく本が変わる。仕事に熱中しているときは仕事に役立つ知識を求めるかもしれないし、家庭の問題に悩んでいる時は家庭の問題解決に役立つ本を読みたくなるかもしれない。読みたい本を選ぶことは、自分の気になる「文脈」を取り入れることでもある。(232-233ページ)
自分から遠く離れた文脈に触れること---それが読書なのである。
そして、本が読めない状況とは、新しい文脈をつくる余裕がない、ということだ。自分から離れたところにある文脈を、ノイズだと思ってしまう。そのノイズを頭に入れる余裕がない。自分に関係のあるものばかりを求めてしまう。それは、余裕のなさゆえである。だから私たちは、働いていると、本が読めない。
仕事以外の文脈を、取り入れる余裕がなくなるからだ。(234ページ)
整理すると、明治~戦後の社会では立身出世という成功に必要なのは、教養や勉強といった社会に関する知識とされていた。しかし現代において成功に必要なのは、その場で自分に必要な情報を得て、不必要な情報はノイズとして除外し、自分の行動を変革することである。そのため自分にとって不必要な情報も入ってくる読書は、働いていると遠ざけられることになった。(240-241ページ)
ハンが名づけた「疲労社会」とは、鬱病になりやすい社会のことを指す。それは決して、外部から支配された結果、疲れるのではない。むしろ自分から「もっとできる」「もっと頑張れる」と思い続けて、自発的に頑張りすぎて、疲れてしまうのだ。
日本のように、会社に強制されて長時間労働をしてしまう社会はもちろん問題だ。しかし諸外国の例が示しているとおり、新自由主義社会では会社に強制されなくても、個人が長時間労働を望んでしまうような社会構造が生まれている。そもそも新自由主義社会は人々が「頑張りすぎてしまう」構造を生みやすく、それは会社が強制するかどうかの問題ではない。個人が「頑張りすぎたくなってしまう」ことが、今の社会の問題点なのである。本書の文脈に沿わせると、「働きながら本が読めなくなるくらい、全身全霊で働きたくなってしまう」ように個人が仕向けられているのが、現代社会なのだ。(246ページ)
そもそも、これを読んでいるあなたは「燃え尽き症候群」と聞いて、どう思うだろうか?
正直、私自身「燃え尽き症候群」という言葉に対してそこまでネガティブなイメージを持っていなかった。というか、ちょっとしたかっこ良さまで感じている。なぜなら燃え尽きるほど頑張れる人なんて、なかなかいないからだ。
それが仕事だろうと趣味だろうと何の分野であろうと、燃え尽きることができるくらい、燃える=努力することは、素晴らしいんじゃないか。私はそう思っていた。
しかし実はそのような思想こそが鬱病を引き起こす。そうマレシックは指摘する。(248-249ページ)
そう、もう資本主義は、仕方がないのである。
常に、資本主義は、「全身」を求める。
私たちは、時間を奪い合われている。そう言うと「たしかに」と納得する人も多いだろう。
会社は労働者に対して「仕事に24時間費やしてほしい」と思うものだし、家庭は配偶者に対して「育児や家事や介護に24時間費やしてほしい」と思うものだし、あるいはゲーム会社は消費者に対して「ゲームに24時間費やしてほしい」と思うものだし、あるいは作家は読者に対して「読書に24時間費やしてほしい」と思うものだ。
全身、コミットメントしてほしい。---それが資本主義社会の、果てしない欲望なのだ。(255ページ)
だが本も読めない働き方---つまり全身のコミットメントは、楽だが、あやうい。
なぜなら全身のコミットメントが長期化すれば、そこに待っているのは、鬱病であるからだ。それは今まで参照してきたとおり「疲労社会」や「なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか」といった先例が教えてくれている。過剰な自己搾取はどこかでメンタルヘルスを壊す。(257ページ)
しかし一方で、ひとつの文脈に全身でコミットメントすることを称揚するのは、そろそろやめてもいいのではないだろうか。
つまり私はこう言いたい。
サラリーマンが徹夜して無理をして資料を仕上げたことを、称揚すること。
お母さんが日々自分を犠牲にして子育てしていることを、称揚すること。
高校球児が恋愛せずに日焼け止めも塗らずに野球したことを、称揚すること。
アイドルが恋人もつくらず常にファンのことだけを考えて仕事したことを、称揚すること。
クリエイターがストイックに生活全部を投げうって作品をつくることを、称揚すること。
---そういった、日本に溢れている、「全身全霊」を信仰する社会を、やめるべきではないだろうか?
半身こそ理想だ、とみんなで言っていきませんか。
それこそが、「トータル・ワーク」そして「働きながら本が読めない社会」からの脱却の道だからである。(258-259ページ)
「全身」でひとつの文脈にコミットメントすることは、自分を忘れて、自我を消失させて、没頭することである。
そういう瞬間が、楽しいこともあるだろう。楽なこともあるだろう。私もそうだから、すごくよく分かる。すぐに忙しくしたがるし、ひとつのことだけ頑張れたらどんなに楽だろう、仕事だけしていていいならどんなに、とよく思う。反対に、読書だけしていい日常だったら、どんなに楽しかっただろう、とよく夢想する。自分のことなんか忘れちゃいたい、没頭していたい。すっごくよく分かる。
しかしニーチェは首を振る。そんなのは人生を信じていないのだ、と。
人生を信じることができれば、いつか死ぬ自分の人生をどうやって使うべきか、考えることができる。
瞼を開けて、夢を見る。いつか死ぬ日のことを思いながら、私たちは自分の人生を生きる必要がある。だからこそニーチェは「自分を忘れるために激務に走るな」と言うのだ。
自分を覚えておくために、自分以外の人間を覚えておくために、私たちは半身社会を生きる必要がある。
疲れたら、休むために。元気が出たら、もう一度歩き出すために。他人のケアをできる余裕を、残しておくために。仕事以外の、自分自身の人生をちゃんと考えられるように。他人の言葉を、読む余裕を持てるように。私たちはいつだって半身を残しておくべきではないだろうか。
働きながら本を読める社会。
それは、半身社会を生きることに、ほかならない。
といっても、具体的な「半身社会」の実現のためのステップは本書で書けるところではない。これはあくまで、あなたへの提言だ。具体的にどうすれば「半身社会」というビジョンが可能なのか、私にもわからない。
だからこそ、あなたの協力が必要だ。まずはあなたが全身で働かないことが、他人に全身で働くことを望む生き方を防ぐ。あなたが全身の姿勢を称賛しないことが、社会の風潮を変える。本書が提言する社会のあり方は、まだ絵空事だ。しかし少しずつ、あなたが半身で働こうとすれば、現代に半身社会は広がっていく。(264-265ページ)
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