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「映画を早送りで観る人たち」

「映画を早送りで観る人たち」(稲田豊史 光文社新書)

ライター、コラムニストの著者による、映画や映像を早送り再生する視聴形態の理由と背景について論じた本。映像は膨大にあり、わかりやすい作品が好まれ、友人との話題についていく必要があり、時間が足りなく、失敗できない風潮。なぜ彼らが早送りで観なくてはならないか、内容をネタバレサイトで確認してから観るのか、その理由が少しわかった気がする。非常に面白かった。著者自身は倍速視聴に抵抗があって、それでこの本を著したわけであるが、この本の最後の締めくくりはとても印象的だった。

 新しい方法というやつはいつだって、出現からしばらくは風当たりが強い。
 目下のところ、倍速視聴や10秒飛ばしという新しい方法を手放しで許容する作り手は多数派ではない。"良識的な旧来派"からは非難轟轟である。
 しかし、自宅でレコードを聴いたり映画をビデオソフトで観たりといった「オリジナルではない形での鑑賞」を、ビジネスチャンスの拡大という大義に後押しされて多くのアーティストや監督が許容したのと同様に、倍速視聴や10秒飛ばしという視聴習慣も、いずれ多くの作り手に許容される日が来るのかもしれない。
 我々は、「昔は、レコードなんて本物の音楽を聴いたうちに入らないって目くじらを立てる人がいたんだって」と笑う。しかしそう遠くない未来、我々は笑われる側に回るのかもしれない。
 「昔は、倍速視聴にいちいち目くじらを立てる人がいたんだって」(290ページ)

 ここで、言葉の定義を明確にしておこう。
 「鑑賞」は、その行為自体を目的とする。描かれているモチーフやテーマが崇高か否か、芸術性が高いか低いかは問題ではない。ただ作品に触れること、味わうこと、没頭すること。それそのものが独立的に喜び・悦びの大半を構成している場合、これを鑑賞と呼ぶことにする。
 対する「消費」という行為には、別の実利的な目的が設定されている。映像作品で言うなら、「観たことで世の中の話題についていける」「他者とのコミュニケーションが捗る」の類だ。
 食事にたとえるなら、「鑑賞」は食事自体を楽しむこと。「消費」は栄養を計画的に摂るため、あるいは、想定した筋肉美を手に入れるという実利的な目的を達成するための食事をすることだ。
 「鑑賞」に紐づく「作品」という呼称と、「消費」に紐づく「コンテンツ」という呼称の違いは、"量"の物差しを当てるか、当てないかだ。(25-26ページ)

 ゆえに当然ながら、ある映像作品が視聴者にとってどういう存在かによって、「コンテンツ」と呼ばれたり、「作品」と呼ばれたりする。どういう視聴態度を取るかによって「消費」なのか「鑑賞」なのかが異なってくる。新聞の価値を、食器の包み紙や廃品回収でのキロ単位引き取り額で測る人もいれば、世の中を知るための情報源と捉える人もいる、ということだ。(27ページ)

 「いわゆる情強、情報強者としての優越感が根っこにあるのでは。内容をちゃんと理解していなくても、「観た」という事実さえあれば批判する資格は得られますから」
 知っていたほうがマウントは取れる。「マウントを取られる前に取りたい」が、早送りをする人たちのメンタリティの中にある。そして、「知っている」だけでいいのであれば、内容は大体把握していればいい。微に入り細を穿つ、作品を隅々まで味わい尽くすような鑑賞は必要ないのだ。(70ページ)

 「映画館はそのためにお金をいちいち払うから、早送りするのはもったいない。でもNetflixにはもう月額料金を払っちゃっているから、別にいい」
 この説明は非常に示唆的だ。
 人間は、実際の支払い手続きと引き換えにして個別の商品を受け取ると、「大枚はたいた」という気分を実感する。大切にするし、無駄にしたくないと思う。
 しかし、毎月の決済手続きさえ必要としない月額料金自動引き落とし、かつ「一定範囲内の作品を1ヶ月間自由に観られる権利」という無形物の売買に際しては、カネを払っているという感覚が希薄になる。結果、買ったものを大切にしない。ぞんざいに扱ってもそれほど抵抗感をおぼえない。
 だから情報収集だろうが、早送りだろうが、10秒飛ばしだろうが、構わない。ぞんざいに流し見、ながら観したところで罪悪感を抱かない。(72-73ページ)

 状況やその人物の感情を1から10までセリフで説明する作品が、近年増えてきた。「なんでもセリフで説明されていて、作品の余白部分が少ないと感じます。しかもそのセリフというのが、わかりにくい洒落た言い回しではなく、わかりやすくて安直」(大学4年生)。
 そうした作品に慣れた視聴者は、セリフとして与えられる情報だけが物語の進行に関わっている、と思い込むようになる。
 それゆえに、彼らの理屈はこうだ。
 「倍速でもセリフは聞こえている(もしくは字幕で読めている)んだから、ストーリーはわかる。問題ない」
 一方で、人物が登場しなかったり、沈黙が続いたりするようなシーンは、物語が進行していないとみなされ、10秒飛ばされる。
 本来、10秒の沈黙という演出には、視聴者に無音の10秒間を体験させるという演出意図がある(はずだ)が、第1章で見た通り、そのような作り手側の意図は届かない。(84ページ)

 なぜ制作委員会は、そこまで「わかりやすさ」を求めるのか。
 「観客がわかってくれないんじゃないかって、不安なんだろうね。本来、セリフで説明しすぎると白けちゃうから、多少わからないくても映画に集中させるほうがいいし、僕個人としては、わかりやすくすることだけが作品を良くする解決策だとは、まったく思わない。ただ、「わかりにくいから直してほしい」と言ってくる委員会メンバーが多いのは事実」(86ページ)

 「わかりやすいこと」が礼賛される世の中だ。極端で煽情的な意見を歯切れよく短いセンテンスで叫ぶ者は、ネット上でフォロワーを集めやすい。(88ページ)

 言葉による直接的な説明がない物語は、観客がその解釈を自分の頭で考える必要がある。
 「当然、人によって受け取り方はさまざまになるけど、それでいいんです。受け手には"作品を誤読する自由"があるんだから。誤読の自由度が高ければ高いほど、作品の奥が深い。...というのは、僕の意見だけど」(真木氏)
 しかし、セリフで全部説明してほしいタイプの観客は、誤読の自由を満喫しようとはしない。その自由度を奥の深さとは受け取ってくれない。不親切だと怒り、不快感をあらわにする。(94-95ページ)

 「作品に賛同するよりも、クレームを言うほうがマウントを取れます。"こんなわかりにくい作品をつくりやがって"と憤ることで、被害者になれる。しかも被害報告はネット上で賛同を得やすい」と佐藤氏。
 SNSの誕生によって、どんな民度、どんなリテラシーレベルの人間も、事実上ノーコストで、ごく気楽に「被害報告」を発信できるようになった。それが、多くの人に「わかんなかった(だから、つまらない)」と言われない、説明セリフの多い作品を生み出した可能性は高い。(99ページ)

 説明セリフを求める傾向は、観客の民度や向上心の問題というよりは、習慣の問題なのだ。情報過多・説明過多・無駄のないテンポの映像コンテンツばかりを浴び続ければ、どんな人間でも「それが普通」と思うようになる。その状態で、いざ長回しの意味深なワンカット映像や、セリフなしの沈黙芝居から何かを汲み取れと言われても、戸惑うしかない。
 結果、出てくる感想は「わかんなかった(だから、つまらない)」「飽きる(だから、観る価値がない)」だ。
 積み重ねられた習慣こそが、人の教養やリテラシーを育む。抽象絵画を一度も見たことのない人間が、モンドリアンの絵をいきなり見せられても、どう解釈していいかわからない。
 無論、抽象絵画など鑑賞しなくても人間は生きていける。同じように、セリフのないシーンに意味を見出すことができなくても、人間は生きていける。善悪ではない。ただただ、そういうことだ。(112ページ)

 かつて映像作品は、ある程度以上のリテラシーを有する観客に向けて作っていても、さほど問題にはならなかった。理解できない者の一部や勝手に背伸びをして理解に努めてくれたし、排除された客の声は可視化されなかったからだ。
 しかし今は違う。一定以上の規模を有した商業作品である以上、つまり相応のビジネスサイズとマネーメイキング昨日を求められているプロジェクトである以上、あらゆるリテラシーレベルの観客が満足する(誰もが気分を害さない)ものを作らなければならなくなった。否、そうでなければならない空気が、厳然としてある。(117ページ)

 なぜそこまでして、話題についていかなければならないのか。それは、若者のあいだで、仲間との話題に乗れることが昔とは比べ物にならないほど重要になっているからだ。それをもたらしたのがSNS、おもにLINEの常時接続という習慣である。(123ページ)

 森永氏によれば、昔と今とでは倍速視聴の性質が違う。新たな"目的"が出現しているという。
 「昔の人が早送りしていたのは、自分のためですよね。コンテンツが大好きな人が、限られた時間でたくさん作品を観て、自分を満足させるため。だけど今の若者は、コミュニティで自分が息をしやすくするため、追いつけている自分に安心するために早送りしています。生存戦略としての1.5倍速です」(森永氏)(132ページ)

 実際、多くの大学生が「個性的でなければ就活で戦えない」と感じている。履歴書に胸を張って書けるだけの"武器"が欲しい。「本来は、その人がその人であるだけで立派な個性なのに、"無理して個性を作らなければいけない"と焦っている」(森永氏)(134-135ページ)

 つまり正確に言えば、彼らは「オタクになりたい」のではなく、「拠りどころになりうる、好きなものが欲しい」だ。それが個性的な自分を手に入れる切符となり、同時に実利的な効果も得られる。「もっと正直に言うなら"自己紹介欄に書く要素が欲しい"ですね」(森永氏)。エントリーシートの見栄えを良くするために、ボランティア活動に参加したり、サークルの幹部をやったりするのと同じだ。(144ページ)

 オープンであることを美点とするSNSは、あらゆる分野において全国レベルの猛者たちを「すぐ隣の存在」として可視化した。自分との圧倒的な実力差を、毎分毎秒、スマホ越しに突きつけてくる。
 さらにSNSはその仕様上、見知らぬ人間にタップひとつで話しかけられる。「ぬるい」「浅い」感想などつぶやけば、いつなんどき通り魔のようなダメ出しリプを食らうかもしれない。リプがなくとも蔭で嘲笑されているかもしれない。
 「Z世代の子たちにとって今のTwitterは、「もう私たちのメディアじゃない」んですよ。"論破"したいおじさんたちがウヨウヨいるから」(ゆめめ氏)(152ページ)

 要するに、「フタを開けてみてのお楽しみ」は歓迎されない。
 Z世代の大学生を相手に教鞭をとる前出の脚本家・小林雄次氏も、その点はかなり意識している。
 「コロナ禍となり、大学の授業ではGoogleのclassroomというサービスを使うようになりました。対面の授業が始まってからも、次の授業で何の話をするか、事前にアップしておくようにしています。箇条書きで書類1枚のレジュメにして、学生が事前に見られるように。映画の予告編みたいなものです。何をやるかわからない講義に対して、学生たちは興味を抱かないので」(163ページ)

 このことは、職場の新入社員にも顕著だ。年長世代が懐の深さを見せたつもりで口にする「失敗してもいいから、まずはやってみろ」は、彼らにとっては「いじめ」にも近い。その結果失敗して、上司から失敗の理由を指摘されたら、「そんなに言うんだったら、先に正解を教えてくれればいいじゃないか...」と感じるからだ。(168ページ)

 森永氏は、ある大学の講義で受けた衝撃を話してくれた。
 「「無駄なことをたくさんやるのが、アイデアの発想につながる」と、ごく当たり前のことを話しました。すると、出席者に提出してもらった感想文の半分以上に「無駄なことをしてもいいんですね! 励みになりました」といった主旨のことが書かれていたんです。そんなにも無駄なことをしてはいけないと追い込まれているのかと、驚きました」(172ページ)

 一日中、したくもない仕事をしてストレスを溜め込んで帰ってきて、あるいはLINEグループの人間関係に疲れ果てているのに、考えさせられるドラマなんぞ観たくはない。だからこそTVドラマにもスポーツ番組にも、ストレス解消という機能を求める。
 自分にとって快適なものだけを摂取したい。それを突き詰めると、「自分にとって快適な視聴方法で観たい」に至るのは自然なことなのかもしれない。不快だったり退屈だったりするシーンは飛ばしたい、見たくない。
 そうして彼らは、倍速視聴に至る。(194-195ページ)

 第1章で、倍速視聴を「料理をミキサーにかけること」にたとえた留学生・陳質文氏は無類のゲーム好きで、関連する論文にもよく目を通している。その彼の持論がおもしろい。一般的な据え置き型ビデオゲーム(Nintendo Switchやプレイステーション5等)のプレイヤーは「ゲームを楽しむ」のに対し、スマホゲームのプレイヤーは「刺激を楽しむ」というのだ。これは、本書が最初に設定した「鑑賞」と「消費」の定義に近い。「鑑賞」とは、その行為自体が目的となっている行為、「消費」は別の実利的な目的が設定されている行為だ。(197ページ)

 映像視聴にあたって「気持ちを揺さぶられたくない」に類する気分として、「なるべく心を使いたくない」という意見も大学生から寄せられた。「通常速度で観て表現の微妙なニュアンスを受け取るには集中して心を使わなければならず、しんどいし疲れる。倍速でざっくり内容を把握したり、映像だけを楽しんだりするほうが快適」といった声もあった。
 もっと直接的に「倍速視聴は感情移入しにくくなるから良い」という大学生もいた。普通に考えれば、感情移入が阻害されるのは作品鑑賞にとってマイナスのはずだが、心を揺さぶられたくないフラットな気持ちで鑑賞するためには、そのほうがいい。心のカロリーをあまり使いたくない。感情を節約したい。経済運転でいきたい。そのためには、あえて作品世界に入り込まない方がいい、というわけだ。(208-209ページ)

 彼女たちは、監督が映画作品にとって重要な要素だとは考えていない。Fさんに、そんなに好きなら誰が監督なのかを知りたいとは思わないのかと聞いた。
 「興味がないです。私が好きなのは物語であって、監督が誰であるかとかは、特に」
 しかし、作品のクオリティを担保する総責任者は監督のはずだ。
 「映画自体が"表"だとしたら、その作り手って"裏"じゃないですか。私は"表"を純粋に楽しみたいのであって、"裏"には興味がないんです」(221ページ)

 SNSでのコンテンツ紹介と言えば、2021年には、評論の存在意義について考えさせられる騒動があった。
 同年7月、TikTokで小説の動画紹介をしているけんご氏(当時23歳)が、1989年に刊行された筒井康隆の「残像に口紅を」を30秒ほどの動画で紹介したところ、なんと6回もの重版がかかり、合計11万5千部の増刷となったのである。どの出版社も初版数千部の新刊ですら販売に四苦八苦するご時世に、32年も前に刊行された小説が10万部単位で増刷。この件は朝日新聞で取り上げられ、出版業界では大きな話題となった。
 ところが同年12月9日、このことに書評家の豊崎由美氏(当時60歳)が嫌悪感を示す。同氏はTwitterに「わたしはTikTokみたいなもんで本を紹介して、そんな杜撰な紹介で本が売れたからって、だからどうしたとしか思いませんね。そんなのは一時の嵐。一時の嵐に翻弄されるのは馬鹿馬鹿しくないですか? あの人、書評かけるんですか?」とツイートした。
 この投稿は界隈に大きな波紋を巻き起こし、けんご氏は翌12月10日に「TikTokでの投稿をお休みさせていただきます」とツイート(1ヶ月後の2022年1月14日に再開を宣言)。けんご氏支持派は「若者に本を買わせるほどの影響力を持ち、出版・書店業界も歓待しているインフルエンサーを、ベテラン書評家が潰した」として、こぞって豊崎氏を攻撃した。曰く、「けんご氏に比べて、豊崎氏の評論でどれほど読書人口が増えたんだ?」「けんご氏に比べて、豊崎氏の評論がどれだけ本の売上に貢献したんだ?」。それをもって評論という仕事の"意味のなさ"を嘲笑する者もいた。言ってみれば「評論はコスパが悪い」というわけである。(230-231ページ)

 他人に干渉しない。すなわち批判もダメ出しもしないし、されることもない。これは一見して「他者」を尊重しているように見えるが、そこには「自分と異なる価値観に触れて理解に努める」という行動が欠けている。単に関わり合いを避けているだけだ。
 それゆえに、自分とは考えの違う「他者」の存在を心の底からは許容できない。異なる意見をぶつけられた時に、「あなたと私は意見が違いますね」で終わりにできない。自分に向けられる批判に耐性がない。流すことができない。心がざわつき、「不快だ」と遠慮なく悲鳴をあげる。
 これは多様性には程遠い、むしろある種の狭量さだ。Z世代が得意だとする「多様性を認め、個性を尊重しあう」には、「異なる価値観が視界に入らない場合に限る」という但し書きが必要なのかもしれない。(237ページ)

 かつてレンタルビデオショップでは、「新作は高く、旧作は安い」が普通だった。話題の新作をいち早く観るには追加フィーを積まなければならない。至極当たり前の理屈に思える。
 しかし現在、映像配信は必ずしもそうなっていない。たとえばAmazonプライム・ビデオでは、プライム会員向けに最新の話題作がいち早く見放題の対象に設定されていることが少なくない。逆に、リリースから時間が経っている旧作に追加料金を支払わねばならないケースは多い。
 つまり「新作は安く、旧作は高い」。レンタルビデオショップの逆である。
 なぜこんなことになっているのか。それはサービス提供者側が、ライトユーザー--リキッド消費の文脈における"ファンではない消費者"--をひとりでも多く新規会員に引き込みたいからだ。(255-256ページ)

 40代のある女性脚本家も、同じ結論に達している。小林氏とは違い、早送りに対処する脚本は基本的に不要と考える彼女は、「読解力の低い視聴者も楽しめ、かつ従来の物語を楽しみたいユーザーも納得させる多層的な構造を目指す。具体的には"間"や"行間"を使うが、それを理解できなくても楽しめる構成とする」と目論む。(266ページ)

 つまり倍速視聴に慣れた人たちは、倍速視聴に慣れていない人に比べて、コンテンツから提供されて「快適だ」と感じる単位時間あたりの情報量が多い。だから、単位時間あたりの情報提供量て少ないコンテンツは「間延びしている」と感じる。
 そのじれったさを解消するには、摂取スピードを自前で速めるほかない。
 青山学院大学のアンケートで最も倍速視聴されていた映像ジャンルは「大学の講義」だった。その理由として「効率的だから」と並んで目についたのが「その方がむしろ集中して聞けるので、頭に入る」である。
 実は大学教授には早口の人が多く、授業もかなりスピード感がある。それでも学生たちが早送りをするのは、もはや彼らが"生身の人間が話す速度"にイライラするためかもしれない。早送りに慣れた大学生たちは、実際に人間が喋る速度にまだるっこしさを感じる。そのギャップを倍速視聴が埋めるのだ。(271ページ)

 本書はこれまで、倍速視聴・10秒飛ばしという習慣がなぜ現代社会に出現したのかの理由と背景を、さまざまな角度から考察してきた。
 その基底にあったのは、①映像作品の供給過多、②現代人の多忙に端を発するコスパ(タイパ)志向、③セリフですべてを説明する映像作品が増えたこと、この3点だった。(281ページ)

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