30年近く前、乗り鉄だった頃

ある夏。私は一眼レフカメラを手に、のと鉄道能登線に乗っていた。
九十九湾小木駅で降り、ユースホステルに向かうべく、テクテク歩いていた。日差しのきつい昼間だった。

「どこに行くの?」という女性のしゃがれ声が聞こえた。見ると、車が止まっている。「ユースホステルです」と答えると、「⚪︎⚪︎さんのところ?」と聞かれた。ユースホステルのご主人の名前らしいが、私は苗字しか知らなかった。「△△さんのことですか?」と苗字を言うと、「⚪︎⚪︎さんのとこだわ、乗せていってあげる」。

重いリュックと共に半ば押し込まれるようにして車に乗った。車内で少し話した気もする。真脇遺跡に行くためだとか、ひとり旅であるとか。

そうこうするうちに、海辺に着いた。女性は私と一緒に降り立ち、「⚪︎⚪︎さん!」と呼んだ。男性が近づいてきた。

「今日予約している××です、お世話になります」などとその男性に挨拶して振り返ると、もう女性の車は遠ざかろうとしていた。御礼を言う暇もなかった。

その後はゲストブックに名前を書いたり荷物を部屋に下ろしたりした後、何もすることがなかったので、外に出た。さっきの男性が、岸壁にしゃがみこんで海を覗き込んでいる。

「何しているんですか?」と聞くと、岸壁につながっていたロープをたぐっている。ロープの先には壺状のものがついていた。

「ああ、空っぽになってる。さっきまでいたのに・・・タコに逃げられちゃった」。「今日の晩御飯にしようと思っていたのに・・・晩御飯のおかずなくなっちゃった」。

真顔で言われたので真に受けた。何せこっちは18きっぷの貧乏旅。素泊まりしかできないところに着いたら、食事ができるところがどこもなくて、日が落ちかけているさなか、ようやく見つけた雑貨店でパンを買ってそれが夕飯になったこともあった。「白飯だけというのもオツなもんだな」。

夕飯の時間になってテーブルにつくと、高級旅館の御膳と見紛うほどの料理の数々。新鮮な刺身あり、焼き魚あり。「豪勢」というのはこのことだろうか。

「晩御飯のおかず(の一品が)なくなっちゃった」ということだったのか、それとも、冗談好きのご主人ということだったのか、その両方だったのか。


ここ数日、ずっとこのときのことを思い出していた。車に乗せてくれた、親切であっさりした女性は大丈夫だっただろうか。ユースホステルのご主人はどうしているだろうか。ユースホステルを出て数歩でもう海だ。

ご主人のSNSを見つけてフォローしていたところ、やはり同じように心配の声が集まっていた。そしてようやく昨日、ご主人の言葉が発せられた。

心からお見舞い申し上げます。


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