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만약 잘못이 있었다면 間違いがあったとすれば

잘못(チャルモッ)。過ちとか、間違いと訳される単語だ。

韓国語で最初に習う「ごめんなさい」は미안해요(ミアネヨ)だけれども、自分が悪かったなってときには제가 잘 못했어요.(チェガ チャルモッテッソヨ)もよく使う。自分に過ちがあった、自分がうまくできなかった。ドラマの字幕では、「僕が悪かった」とか「ごめん」って出てる。

なにかがうまくいかなかったとき、失敗したときにも잘못が登場する。
잘 못 알아들었어요(チャルモダラドゥロッソヨ).
よく聞き取れませんでした、とかね。

こんなふうによく使う言葉に紛れ込んでいるせいか、「過ち」「間違い」よりも「잘못」のほうが、思うにならないもどかしさを背負っている気がする。ネイティブはそんなこと思わないかもしれないし、잘못もそんなもの背負ってるつもりはないかもしれないけれど。

別れてしまったので、ふたりの間に잘못があったのではないか、と考えてみる。
わたしの잘못。彼の잘못。ふたりの잘못。

出会ったこと。
全然잘못じゃない。一緒にいた時間の幸せ、思い合っていた心強さがいまでも私を支えてくれる。
彼にとってもそうだといいなあ。

別れたこと。
これも잘못じゃない。出会って幸せに過ごして別れるまでの間に、わたしは今までの傷を癒すことができた。彼は彼で、自分の力で別れを決めて、気持ちをちゃんと私に切り出せたことで何か少し、強くなれているといいな。なんて、傲慢かな。

それに、喧嘩をしたことのなかったわたしたち。こういう大きな局面においてお互いの地雷を踏み抜く存在だということが最後の最後に露呈した。
困難に直面したとき、わたしは相手の気持ちや考えを言葉として聞かないと壊れてしまう。でも、それを求められることは彼にとっては凄まじいストレスになっているように見えた。
年明けくらいまで同じ未来を見ていたし、おじいちゃんおばあちゃんになってからの話を冗談めかしてよくしていたけれど、結婚していたら苦しかったと思う。平坦じゃない道を歩くときに、互いに無理をさせることになった気がする。

いちばんいい形で終われたね。
どんなに探しても、ふたりの잘못なんて見当たらないや。

きっと出会った時はわたしじゃなくてもよかったんだよね。でも、私じゃなきゃだめだって強く強く思ってくれていたときを知っている。相手の美点を見つけて、好きになっていくことができる優しいひと。

甘え過ぎて、わがままばかり言ってしまった。
遠距離がしんどいというシグナルを一度だけ出してくれていたのに、そのときちゃんと気がつかなかったことは、わたしの잘못だったなあと思う。
たとえばそこで広島に駆けつけていたとして、続いたかどうかわからないし、続くことがよかったとは今は思わない。でも、ぎりぎり出したサインを見逃された彼の気持ちを思うと今でも泣いてしまう。もう届かないけど、ごめんね。

こんど誰かを好きになったら、こういう잘못はしたくない。私のことを全く考えてくれなかった歴代のひとたちとの関係みたいになるのが怖くて、今度は自分のことしか考えていなかった。

ようやく、大事にすることもされることも覚えたから、次は本当に、ひとつも잘못のないように。

わたしも、あなたも。

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