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NHK‐BS『犬神家の一族』を一気に見ましたので、原作も再読しました。

 録画してあったNHK‐BS『犬神家の一族』を一気に見ました。大いに堪能しました。以下、ネタバレを含めて勝手に感想を書いていきます。一方で登場人物やあらすじの説明は思いっきり省略します。つまり以下は『犬神家の一族』については、誰もが充分に知っている、という前提で書かれております。

 まず何といっても小林靖子さんのシナリオが良かった。
 原作はさまざまに魅力のある小説ですが、今回のドラマでは、小説の「地獄のホームドラマ」とでもいうべき側面を強調している感じでした。
 原作の人間関係は異常なまでに錯綜しており、ある意味ではそれがこの作品の魅力でもあるのですが、あの複雑さをそのまま映像化することに意味があるとは思えません。大ヒットした市川崑監督作品以来、人間関係の整理整頓はシナリオライターの腕の振るいどころなのでしょう。
 今次ドラマ版『犬神家』でなるほどと思ったのは、松子、竹子、梅子の三人が、犬神家の屋敷であれだけイバっているにもかかわらず、父親の犬神佐兵衛と戸籍を同じくしていない、だから法的な相続権を持っていない、と設定されたところです。
 原作では父娘の戸籍上の関係には(たぶん)言及されていないし、これが当時の相続法の正しい解釈なのかどうかも知りませんけれど、これを古舘弁護士(演じたのは皆川猿時さん。この人の個性が存分に発揮された役ではありませんでしたが、僕はこの人が出てさえいれば満足なので、満足)が語るのを聞いた時には、(ああそうか、なーるほど!)と思いました。これを強調することで、松子たちの、父親の遺言状の中身に対する切迫感がいやますわけです。
 俳優は小さな役を含めて全員素晴らしかった。吉岡秀隆さんの金田一は、どんどん横溝正史に似てきているし、松子を演じた大竹しのぶさんの凄味は、今さら言うまでもないという感じ(脚本や演出は、大竹さんの力を頼りにしている印象がありました)。佐清役の金子大地さんは、テレビで見かけるたびに芝居がうまくなっていると思います。野々宮珠世は僕が今もっとも好きな古川琴音さんが演じていて、今回もニコニコしながら見ていました。
 しかしそんな大きな役ばかりでなく、先述の皆川猿時さんのように、脇がみんな好きで達者な俳優ばかりなのが楽しくてしょうがなかった。南果歩さん、堀口敬子さん、野間口徹さん、小市慢太郎さん・・・。そんな中で今回、恐らく初めて拝見して(いい俳優だなぁ)と思ったのは、小夜子を演じた菅野莉央さんという方でした。

 今次のドラマ化では、事件がすっかり解決されたあとに、金田一が佐清に語るラストシーンが話題になっていますが、僕は、あれだけコンを詰めて原作に向き合った脚本家が、ああいうラストを作るのは自然なことだと思います。「金田一さん、あなた、病気です」という最後のセリフは、原作を掘って掘って掘りつくした人間の、本音でしょう。
 ドラマ化された『犬神家』で僕が見たのは、市川崑の二本の映画と、今回のと、あとひとつだけですが、劇化に当たって最も苦労するのは、恐らく佐清と青沼静馬の行動(と運命)に説得力を持たせることじゃないかと思います。
「偶然でした。恐ろしい偶然でした。恐ろしい偶然が何度も何度も重なってきたのでした」
という原作の台詞は、映画でも使われていましたが、今度のドラマにこの台詞は、確かありませんでした。製作者側の意図は判らないし、無関係に僕が考えたことですが、それは理由のあることだったのではないかと思います。
 ひとつには、「偶然」というのはこの物語にふさわしい言葉ではない、ということがあります。
 偶然というのは「現実的でない」という意味合いを含んでいます。しかし『犬神家の一族』に、現実的な事件はいっさい起こりません。佐兵衛翁の遺書から謎ときに至るまで、この物語は徹頭徹尾、誇張と大仕掛と荒唐無稽、そして偶然の連続です。何を今さら佐清と青沼静馬の部分だけをあげつらう必要がありましょう。上記の台詞は原作にある数少ない瑕瑾だと思います。
 今度のドラマで僕が最も感心したのは、青沼静馬の人物造形でした。映画のイメージだと静馬は、犬神家を乗っ取る怨恨と妄執の塊みたいな人間でしたが、原作ではそこまで怪奇で単純な悪役ではないようです。といって無論、善良な人物でもありません。それを今度のドラマでは、どちらかというと気弱で母の愛に餓えた青年としています。原作にしかない設定――静馬の実母が名を変えて犬神家に出入りしている――をなくして、静馬のなりすましの動機を「母恋い」に設定したのは良かった。ドラマの静馬はオドオドしてろくに自己主張もできない感じで、そのぶん佐清の負担(?)が大きくなり、先述のラストシーンにつながっていく。見ていて静馬への同情が自然と湧いてきました。

 原作を読み返しながら、思うことはいろいろとありました。
 識者が指摘する通り、横溝正史という推理作家の基本は戦前のモダニズムにあり、作品に漂う「日本的風土」とか「因習」といったものは、デコレーションにすぎません。「真犯人の知らない事後共犯者がいて、犯罪の後始末をしていたのが、この事件の特徴なんです」という映画の台詞(原作にも似た台詞があります)が、『犬神家』の最初の発想だったのではないかと僕は思っています。これはトリックとして優れていると思う。これを物語に仕立てるのに、あの設定が必要だった、ということではないでしょうか。奇妙奇天烈なトリックを、荒唐無稽な物語が肉付けしていった。それが横溝正史の一連の傑作推理小説なのだと思います。
 そういう発想で作られた推理小説を「本格派」というかどうか、僕は詳しくありませんが、やがてこのような小説は、高度経済成長期に「松本清張」という一発の凶弾に倒れました。売れっ子作家だった横溝正史は急速に忘れ去られ、角川映画が『犬神家』を撮ると企画した時、最初は作者が生きているかどうかも定かでなかったという噂さえあります。あの映画は1976年公開だそうですから僕が13歳になる年で、テレビもラジオも新聞も、それから角川文庫の栞も、カバーの折り返しも、この映画の広告であふれかえっていたのを覚えています。以後、横溝正史の小説であればどんな愚作でも復刊され、累計数千万部という狂乱状態が現出しました。
 日本初のメディア・ミックスといわれる『犬神家』の刷り込みは時代的にも世代的にも大きなものがあり、そのために今でも思い出したようにドラマ化されるのかもしれません。
 しかしやはりそれだけではないでしょう。今度のドラマで強調されていたのは、登場人物たちの愛でした。それも執拗で根深い愛と、それと同じくらい徹底的な愛の不在がテーマになっていました。実際『犬神家の一族』の荒唐無稽は、それが狂奔する愛に依っているという動機で一貫されています。
 物語はこうでなくちゃ、と思います。犯罪も、犯罪の後始末も、犯罪の背後にある血の系譜も、すべて愛の狂奔に起因する。これがこの小説の最大の魅力であり、今なお多くの人を惹きつける理由でしょう。過剰な愛の狂乱に較べれば、憎悪など一過性のつまらぬものです。
 

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