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頑張らないということ

これはもう完全に時代の変化と
年齢を重ねたことによる心境の変化になるのだが、
「頑張る」とよく口では言いがちだけど
全く頑張る必要ないし、
むしろ頑張らない方がいいまであると思えてきた。

頑張るというのは力業でなんとかする、
無理してなんとかするというニュアンスを感じる。
成功の秘訣は無理をしないこととさえ思える昨今、
なんで昔は執拗に努力しろとか、苦行に耐えろとか
非合理的な教えを叩きこまれてきたのだろう。
うさぎ跳びが科学的にNGと分かってからも
その教えは生きていて(習慣というのは本当に恐ろしい)、
しばらく修正される気配がなかった。
教えを刷り込まれた世代が信じて疑わなかったからだろう。

不安や焦り、落ち着かない状態では
思考力や判断力が鈍るのは明らかだ。
できるだけより良い答えを出そうと思ったら
先ずは余裕を作る必要がある。
余裕やゆとり、プレッシャーから解放された
リラックス状態でこそ柔軟な思考ができる。
投資で含み損を抱えていたら悪循環にハマるように
仕事も徹夜したり、掛け持ちしたりすれば
確実に悪循環に陥って、自己肯定感が低くなって
下手するとうつ病になるだろう。

睡眠の重要性が説かれ始めたのも割と最近のことだ。
脳の疲労や老廃物は睡眠でしか洗い流せないことを知らず、
寝てないとちょっと機能が鈍るだけくらいに考えていた。
ただ、この疲労は蓄積され、老化や寿命に直結する。
健康を語る上で、食事や運動は重要視されてきたが、
睡眠が最も重要であるとは誰も教えてくれなかった。

そんなわけだから、今重要とか大事と言われている教えも
未来永劫、不変の真理かといえばそんなことはないだろう。
「常識を疑え」とよく聞くようになったが、そういうことだと思う。

中学の頃、部活で学校の周りをあほみたいに走らされた。
夏も「水を飲むな」とかイカレた指導が行われていた。
国語とか数学の教師が、知ったかぶって野球やサッカーを教えていた。
上級生は学年が上というだけで意味もなく偉そうだった。
今にして思えばイカレてたし、何か刑罰を与えてやりたいとさえ思うが
当時はそれが当たり前で、そういうものだと思っていた。
ただ自分は後輩に偉そうにしなかったから舐められていたし、
社会に出てからも皆、当然のようにペロペロしてきた。
許容してやってることに甘え過ぎていた。

ただそれも全て自然なことだ。
甘いものがあれば欲するように、楽な方に流される。
特に目的や目標もなく、日々に流されて、環境に適応していく。
政治の失敗だか、経済の失敗だか知らないが
なにかよくわからないツケを急に払わされることになって
生活が苦しくなって、うつ病なって、自殺する。
生活が苦しくなくても、SNSで叩かれて精神を病んで自殺する。
そんな時代が来るなんて予想もしなかった。
ただ、そこに至るまでに何の疑問も感じることなく、
当然のように受け入れてばかりだと変化に耐えられないのだと思う。

頑張ることはないけど、自分の軸はしっかり持って、
常識とされてるようなこと、皆が当然のように受け入れていることでも
多少は疑っていった方が良い。と、経験的に思う。
総理大臣はコロコロ変わるし、当然、法律もコロコロ変わるのだ。
自然の流れは、こちらの状況などお構いなしだ。
台風を凌げるだけの家屋に住むように、
そうした変化を許容できるだけの
精神的・経済的余裕を常に蓄えておきたい。
できれば、できるだけ頑張らずに。

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