カバの谷と限界集落
少し埃が積もった白い布団に光が差し込む。ゆがんだ窓ガラスから差し込む春の光がまぶしい。
さも純白だと言わんばかりの光は土足で網膜に入り込み、無性にイライラさせた。
乾燥した空気と心地いい気温。一年の中でもトップクラスに快適な一日になる予感に満ちた午前だ。
窓から見える青空、高高度に渡り鳥が飛ぶ。
長い冬の眠りから覚めた家は重い静寂に包まれていた。
いつもならガヤガヤと、冬の間に溜まった埃や澱んだ空気を入れ替える忙しそうな足音が聞こえるが、今年は何も聞こえない。
家の中は冬と同じ、重くのしかかる心地よい静寂に満ちていた。
しかし、その静寂は明確な答えを示していた。
心地いい寝床から這い出る決意ができずにそのまま数日を過ごした。
その間も主のいない家には、春の訪れに抗う静寂が居座っていた。静寂に包まれる安心感は心地よく、それが世界のすべてに思えた。
しかし、このまま気づかぬふりをして心地よい静寂の一部となるか、覚悟を決め無邪気な残酷さに満ちた春の純白に抗うか、決めかねまま過ごすには、春の光は強烈過ぎた。
ようやく重い体を奮わせ家の中を這いずり回ると、寝床の中で幸せそうに息絶えた家族を見つけた。
やはり冬の静寂に飲み込まれていた。
ここでは、冬眠中にそのまま息絶えることは珍しいことではない、数年毎にそういったことはあった。予想以上の寒波や、雪による倒壊、不十分な準備による衰弱、毎年様々な要因で息絶える友達。
ここでは珍しい話ではない。ただ、そういうことなのだ。
今年はたまたま僕ではなかった。今まではたまたま僕らではなかった。
ただそれだけ。
そうやって、巡る事のない停滞した思考につかりながら数日間虚ろに過ごした。
暖かな風が無遠慮に家の中を荒らした結果、静寂の代わりにうっすらと腐敗臭が漂った。僕は父親のシルクハットと母親のストライプのエプロンとくすんだ金のアンクレットを身に着け旅に出ることにした。腐敗臭に紛れてうっすらと懐かしい思い出の匂いがした。
古い友人の真似をしてリュックにランタンやカトラリー、毛布を詰め込み、空いた隙間に乾燥肉や紅茶の葉、できる限りの食糧を詰め込んだ。できるだけ思い出の薄い、無機質な物を選びながら。
そして最後に、ロウソクのように長細い我が家に火をつけ燃え上がるのを眺めた。
この谷にはもう僕しかいない。長い間に友たちは静寂の冬に帰っていった。偲ぶ者のいない墓標を立てるくらいなら、煙と共に空に返し渡り鳥と共に世界を回ったほうがいくらかましだろう。父は昔から冒険が好きだった。
轟轟と燃える炎から上がる煙は冬の静寂と似て静かに登って行った。
いつのまにか、あたりは暗くなり始めていた。僕は燃え上がる我が家を背に曲がりくねった道を歩き始めた。炎が作り出した影は長く黒く静かに伸びていた。
家の窓から見えた一番奥の山、その中腹まで来たところで夜空のてっぺんに明るい星が光った。もうそろそろ寝る時間だ。子供の頃からのしきたりだ。僕は簡素なテントを建てて火を起こした。カバンの底から一本の瓶を取り出すと一口含み、色々な感情とともに飲み込んだ。
谷の友人達が両手で数えられるほどになったころ、ママが頻繁に作り始めた果実酒だ。野苺や無花果、酸っぱい山の果実が入ったお酒だ。
それまでも僕らは毎年、冬の最後に飲んでいた。年に一度のためにママは夏が始まる頃から仕込んでいた。その頃はまだ谷の友達を呼んでパーティーを開いて、飲んで笑ってまた春にと挨拶する習慣があり、僕は毎年それが楽しみだった。
何十回前の冬だろうか。呼ぶ友達も来れる友達も数える程になった頃だった。その頃になるとママは、頻繁に果実酒を作り、今月は大切な人が旅立った月だからと言ってバルコニーで毎日のように飲んでいた。僕もいつしか傍らに座り同じように飲み、ママがいなくたった年からは1人で飲んでいた。
今月はパパがいなくなった月だから飲もう。そして明日はママのために飲むのだろう。焚き火の音は静かに僕に寄り添い、悲しい子守唄を歌ってくれた。
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