色々言う人もいるが、世の中は大体の人が優しく、優しい人が優しいものを作っているが、万人に優しいわけではない。

色々言う人もいるが、世の中は大体の人が優しく、優しい人が優しいものを作っている。その優しさが積もり積もって社会を構築している。僕は常々、そういった優しさが、”残酷で薄暗い現実から透ける光となって人々に希望を与えている”のではないかと思っている。

しかし、得手して優しさは過剰になり、皮肉にも優しさは反転し不親切になる。
端的に言い表すと、小さな親切大きなお世話ということだ。
そんな事をトイレの個室に篭り感じていた。

先日、僕は急かつ不可避で深刻な便意に襲われトイレの個室に駆け込んだ。
人の優しさで清潔に保たれ、同じく優しさでトイレットペーパーは十分に補充されていた。僕はその優しさに支えられ事なきを得た。

余談だが、優しさの光が足りないトイレも多い。そんな時僕は世界平和への道はまだまだ遠い事を実感する。”残酷で薄暗い現実から人々に希望を与えている透ける光”が足りない、不完全な世界を痛感する。

話を戻そう。
皮肉な優しさは不浄なお尻を拭うときに現れた。優しさで作られた柔らかく肌を刺激しないトイレットペーパー。そのトイレットペーパーのミシン目はやはり適切な間隔で入り、切りやすくなっていたが、そこに過剰な優しさが潜んでいた。

急かつ不可避で深刻な事態を無事に乗り越えたあと、疲労困憊した身体に配慮したトイレットペーパーのミシン目は優しさが過剰に供給されていた。
対象年齢を確認したわけではないがおそらく、まだか弱く世界の残酷さに抗う力のない乳幼児から、波乱の人生を全力で乗り切りあとは安堵と平静の浄土を目指すだけの老人まで、幅広い愛すべき弱者を想定して作られていることが感じられた。それほどに優しく、はかなく繊細な切れ目だった。
金の切れ目、卒業後の友情、地下鉄の電話回線、それくらい微力で切れやすい切れ目だった。

1出しするたびにトイレットペーパーは千切れ、手元に何枚も重ねられたトイレットペーパーのミルフィーユが作られた。もちろん、お尻を拭うのに十分な量が有れば結果はおなじだ。しかし、しかしだ。急かつ不可避で深刻な事態を乗り越えた勝鬨として、カラカラカラとトイレットペーパーを回したいのだ。なにより、一区間ごとに切れてしまうもどかしさ。僕はその優しさとは裏腹に不自然な前傾姿勢のままトイレットのミルフィーユを作り続けた。不浄なパティシエ。

余談だが、小さい頃の夢がケーキ屋さんだったわけではない。
男の子らしい、宇宙飛行士だったと記憶している。

こうして僕は優しさの難しさを再確認し、やはり何事もほどほどにすべきという真理を見出した。端的に言い表すと、すぎたるは及ばざるが如し。という事だろう。

余談だが、ここまで来てようやく、優しさではなく、コスト削減のために極限まで薄くした低コストのイレットペーパーだった可能性に気付いた。言われてみれば心なしか薄く光が透けていたようにも感じた。

残酷で薄暗い現実から透ける光となって人々に希望を与えているのではなく、ただコストカットから生まれた光だったのかもしれない。という話。

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