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生きる

この頃人生について話すことが多い

「生きる意味って何だろう」
「後悔しない生き方ってある?」

結論の出るはずない議論をしまくって不安をごまかす

こんな話をしてたらあらゆる行動の輪郭がはっきり見えてくる。


例えば、起床する。

目を開ける。腕を伸ばす。胸を張る。布団を捲る。体の中の空気をほとんど出すように息を吐く。足を床に置く。服を脱ぐ。シャワーを浴びる。服を着る。コーヒーを淹れる。座る。パソコンを開く。

どこまでが起床と呼べるか、また議論がはかどりそう。


「生きる意味って何だろう。」

人それぞれ意見は違うだろうが、全人類に共通した意味はない。

「幸せになる。」みたいな漠然としていて誰もが頷くような意見はもはや意味とは呼べない。


人生に意味があったなら、朝寝坊をしたり、自棄を起こして酒を飲みまくったり、衝動買いをしたり、ふとした気持ちの騒ぎを鎮めるために車を走らせたり、そんな行動を起こせなくなってしまう。

人生に意味があったなら、意味に沿った行動しか許されなくなってしまう。

人生に意味がないからこそ人は勝手に行動し、ほんの小さな出来事に一喜一憂する。

人生に意味がないから人生に意味を作りたがる。



「後悔しない生き方ってある?」

ないと思う。というか、あってほしくない。

よく、何かを選択するときに「やらない後悔よりやる後悔」といって実行を急ぐことがある。

後悔の質に優劣はつかない。どのみち後悔はするんじゃないか。

自分を慰める手段でしかない。

後悔をどうにかして小さく見せているだけでしかない。

「現状維持」の選択肢をわざわざ無くす意味は何だ。


せっかく生きる意味がないんだから、選択の幅は広がるべきだろ。



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