見出し画像

映画「ソーシャル・ネットワーク」感想散文

「ソーシャル・ネットワーク」を見た。言わずと知れたFacebookの創業者の話だ。監督は「セブン」や「ファイトクラブ」のデヴィッド・フィンチャー。僕はデヴィッド・フィンチャーが好きらしい。この映画も面白かった。

以下、ネタバレを多分含みます。

実際のFacebookの創業者マークザッカーバーグの話。だが、史実とは少し異なるらしい。だから、実話を元にしたフィクションというのが正確だろうし、僕は実際のFacebook創業の話を本で読んだこともどこかで聞いたこともない。あまり興味がない (万が一というより兆が一、Facebookからヘッドハンティングされたら喜んで興味を持ちます)。そもそもFacebook社がFacebook以外なにをしている会社なのかも知らないし、どういった点で優れているのかも知らない。だけど、この映画は楽しめた。FacebookっていうSNSがあるよーぐらいの予備知識で楽しめると思う。

主人公が彼女にフラれるところから映画は始まる。話が噛み合ってもなければ、彼女の学歴をバカにしてしまう始末、悪気がないのが余計にタチが悪い。性格がクソだからモテないと辛辣なことを言われてしまう。

この手のサクセスストーリーでは、「少林サッカー」のように底辺だけど精神は誠実、そこから這い上がり巨悪を打ちのめすという下克上。または、具体的な映画が思いつかないが精神が最初はクソでも仲間とふれあい改心し、最後は成功を収めるようなもの(「NARUTO」の最初がそれに近いかも)。とまあ最終的に人格者になるような話が多いが、驚くべきことにこの映画では主人公が精神的に成長するということはないのである。ただただクソみたいな性格をした天才が見かけ上の成功していく話である。この映画のストーリーテーリングは、仲間だった人々に訴訟され事実を回想していく形で進んでいく。精神的な成長を遂げた人間が弁護士の前で悪態をつくわけがない。

彼女にフラれたハーバード大学のスクールカースト下のオタク。当然、性格が少しアレなので「自分のこういうところがいけなかった」という反省をすることもなく怒りをブログにつつる。そしてその怒りで「女性を格付けするサイト」を開設する。ひどい。とまあこういった精神性が改善されることなく物語は進んでいく。

人に怒られたから先ほどのサイトをやめただけで、結局この主人公は別れた彼女を見返したくて現在のFacebookを大きくしていった。コンプレックスをバネに彼は頑張った。幸い頭がとてもいいのであれよあれよと大きくなってく。だが、精神は成長しない。あくまでFacebookを大きくしていったのは主人公の頭脳であり、彼本人の精神性に惹きつける魅力がない。

この話、Facebookが大きくなっていく上で大きな壁というものほとんどない。彼の頭脳や彼自身ではなく彼の頭脳が作り出したものの魅力でほとんどすんなり解決していく。だが、Facebookの創業者は彼だけじゃない。彼の「親友」も創業者である。この「親友」がもっとも映画化の中では人格者で誠実で働き者なのだが、主人公の頭脳に追いつけていない。言っちゃえば仕事ができない (多分我々の次元で言う所の「仕事ができない」って話ではないのだが)。というのもこの「親友」は主人公と違い思い切ったことができない。何をするにも躊躇う。スパムメールを送るのもトイレでセックスするときも躊躇う。まあ普通躊躇うし、ある意味常識人の普通のいい人なのだが主人公の頭脳に置いてけぼりにされる。Facebookのために奔走してるだけに本当に切ない。

「天才の良き理解者」がいろんな話で出てくる。だが実際こんなもんなんだろうなって思う。主人公の性格がクソなのでそこを理解できないとも言えるし、逆にいうと「自分をフッた元カノを見返したい」っていう一心でやってるのだから理解できるとも言える。が、頭脳や考えてることは追いつけない。置いてけぼりにされる。映画「ビューティフルマインド」でも天才数学者の良き理解者として妻の存在が常にあったが、実際の世界では離婚してる。離婚の詳しい原因などわからないが、実際問題で考えると良き理解者など中々いるものではない。

結局、Facebookを大きくしたのは主人公自身でも「親友」でもない。主人公の頭脳、それだけだった。言ってしまえば主人公の使う道具がFacebookを大きくしていく。だから、主人公というのもFacebookの成功という観点から見ると「主人公」ではない。むしろ主人公の頭脳こそが「主人公」である。彼はただの宿主であり器だった。

その道具の駆動力こそが主人公の人間的な部分なわけで、むしろこの映画がもし仮にサクセスストーリーだとしたらそこが成功するはず・・・。なのだが、やはり精神の成長がないこの主人公がそこに成功するわけがない。最終的に彼は誰を見返すこともできず、愛されず終わる。ラストシーンこそがまさにその象徴。最後に自分をフった彼女のFacebookのページを訪れ友達申請する。当然すぐレスポンスがくるわけがない。が、F5キーを押し続ける。ダサい。彼自身は道具の器にすぎないことを象徴するラストだった。

カイジの利根川が「『勝つ』ことで人格そのものまで肯定される」みたいなことを言っていた。この映画はそう描かなかった。よくマークザッカーバーグは訴えなかったなと思った。でも人間ってだいたいこんなダサさを持ってるよね、まあ大半は成功すらせず死んでいくので映画以上にダサいんだけど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?