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海の家がちょっと汚かった時代

 小学生の頃、海の家に入って食事するのが苦手だった。蒸し暑さと日の光の充溢した木造の建築で、床のうえに、その日やって来た海水浴客たちの足跡がいっぱいついている。もちろん僕も周りの人もパンツ一丁。そんなに潔癖な性格ではないけれど、海から上がった砂利と塩まみれの手足で、また砂利と塩まみれの座席に就いて食事をするということに慣れなかった。ラーメンやカレーが美味しいという気持ちが60%、けれどなんだか衛生的に不安と言うか落ち着かないという気持ちが40%くらいだった。

 そんな海の家にロマンを感じる人もたくさんいると思うのでこれ以上は悪く描きたくない。申し訳ないと思っています。けど当時の小学生としては海の家よりも、なんとなく「まっさらにクリーンな場所」を有難がる気持ちがあった。

 「まっさらにクリーンな場所」。清潔感があって、いい匂いがして、美男美女しかいない場所である。どんなBGMがかかっていても好ましく感じる。そして何より自分自身に救われた感覚がある。胸がスッとしていて静かな満足感に満ちている。そんな気分になるの天国みたいな場所だ。

 今こうして不衛生な海の家でラーメンを啜っているのは僕が無力な小学生だからで、いつか大人になったら「まっさらでクリーンな場所」に行くことになるのではないかとなんとなく思っていた。子供の錯覚である。

 あるいは、ふだん勉強机に顔を伏せて何時間も不健康な暇を持て余している時では絶対に浴びられない日射しとか、海とか、砂浜らがこんなに美しいのだから、その美しさに比例して海の家も美しく改良していったほうがいいんじゃないかと思っていた。

 まとめて言うと、巨大で綺麗な社会の一員になっていく未来にロマンを感じていて、ちょっと汚い海の家に入っているのはまだその道半ばだから、という思いがあった。

 これを最近、建築的な人生観だったなぁと感じている。

 ある哲学者は、昭和時代の子供たちの一定数が、疎外感を感じずに学校や地域社会の一員になっていた理由として「自分の家よりも学校のほうがきれいor立派だったから」というような理由を挙げている。つまり、立派な建築が生活の中心にあるといいよねという話である。たしかに階段も廊下も大きいだろうし、生活で目にする建築のうちでもっとも美しいものだったという話はちょっとわかる気がする。それだけ自宅での暮らしが過酷だったのかと思うと切ないが。なにはともあれ、この分析が現代の街にどれほど応用・貢献するのか僕はまったくわからないけれど、人が、自分は大事にされていると思うにはある程度の空間の質が必要なのだと思う。

 ゼロ年代後半においては既に海の家は綺麗になっていて、都会的というかカフェ的なお洒落な感じになっている。シティボーイがカクテルを飲んでそうな洗練された海の家だ。

 小学生の頃の僕が見たら「これだ!」と思うかも知れないが、勝手なことに、今の僕は海水浴に行くことがないのでどんな感情も呼び起こさない。身近にいる昭和世代の方は「綺麗すぎて落ち着かないんだよ」と言っていたが、正直白状すると、外野から見ると僕もそんな感じである。


 実際に行ったらどんな風に感じるんだろう。あまりにもイケてる場所でパンツ一丁になるのは恥ずかしい気がする。スーパーフラット的な建築から海を眺めるのって、絵面として綺麗すぎて、なんとなくインスタグラマー的なキラキラしたものを感じて恐れ入ってしまう。

 今の小学生が今の海の家にどんな感情を抱いているのかを知りたい。


 ここから先は余談・・・


 現代は、「学校や会社のほうが立派で家よりもキラキラしてて良い」という世界観からは遥か遠く隔たっている。出勤自体が苦痛だし、自分が大切にされていると思う人の数は少ない。なるべく家にいたい。会社も学校も疲労を溜める場所で、給料は慰謝料のようなものである。そう考えるとつい理想の社会像を探したくもなる若い人もいるだろう。

 最近のアニメのキラキラした背景は、そんな世界も美しいよというメッセージに見えるのは僕だけだろうか。主人公の生きている現実は辛い。眼にもクマができている。にも関わらず背景はキラキラしていて、毎日がエモーショナルに語られていく。世界が美しいということに主人公は気付かない。恐らく周囲の誰も気づかない。

 大抵の場合、最終盤あたりで世界の美しさに眼が開かれるのだが、そういうまなざしで僕も汚いほうの海の家を見に行ってみたいなと思う。現実はアニメのようにはなかなかいかないだろうが。

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