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京都市東山区の八坂神社に参る

京都の七月といえば 山鉾巡行で知られる 祇園ぎおんまつり。京の街を歩くと祇園囃子がコン・チキ・チンと流れてきて まつり気分を昂揚させる。
この祇園まつりは八坂やさか神社の祭禮。七月に入るといろいろな神事が三十一日まで続き 山鉾巡行もそのひとつ。

さて 7月2日 八坂神社に参る。
朝10時ごろ参拝 この日はぐずついた天気で傘を手放せず。天気のせいかそれほど混んではいない。

国土地理院地図による八坂神社(赤丸)

八坂神社は京都市東山区にある。四条通りの東の突き当りに位置し 丹塗りの西楼門が目印である。市バスならバス停「祇園」がすぐ近い。
鉄道であれば京阪「祇園四条駅」から5分ほど 阪急「京都河原町駅」からは10分も要しない。ただし 観光地祇園を抜けてくるので すんなり歩けるかどうかは定かではない。

八坂神社 西楼門

御祭神

中御座 素戔嗚尊すさのをのみこと
東御座 櫛稲田姫命くしいなだひめのみこと
西御座 八柱御子神やはしらのみこがみ
 八島篠見神やしまじぬみのかみ
 五十猛神いたけるのかみ
 大年神おおとしのかみ
 大屋比売神おおやひめのかみ
 抓津比売神つまつひめのかみ
 宇迦之御魂神うかのみたまのかみ
 大屋毘古神おおやびこのかみ
 須勢理毘売命すせりびめのみこと
配祀
 東御座 神大市比売命かむおおいちひめのみこと:素戔嗚尊の妻
 東御座 佐美良比売命さみらひめのみこと:素戔嗚尊の妻
 西御座 稲田宮主須賀之八耳神いなだのみやぬしすがのやつみみのかみ:櫛稲田姫命の父母

主祭神は素戔嗚尊 妻の櫛稲田姫命 お二人の御子八柱。
素戔嗚尊と櫛稲田姫命は 姫が八岐の大蛇の生贄になるところを 尊が大蛇を退治して姫と結ばれた神話が知られている。
この神話は 大蛇を退治することは灌漑治水事業を意味し それにより稲田が作られるようになったことを示唆するものと聞いたことがある。
そこからハ柱の御子がお生まれになられたのであれば それは豊穣と繁栄の象徴といってもいいだろう。

〔国宝〕八坂神社本殿

現在の本殿は承応三年(1654)の再建。五代将軍徳川家綱による。入母屋造で檜皮葺の大きな本殿は南を向いている。

祇園造あるいは八坂造ともいわれる神社建築の本殿は 令和二年に国宝に指定。本殿と拝殿が大きな屋根で一緒になっている建築様式は 傍目には神社というより仏堂に近い。

八坂神社は創建当初から 神仏習合 の性格の強い神社だった由縁だろうか。

八坂神社 本殿〔国宝〕
八坂神社 手前から本殿 舞殿 南楼門
八坂神社 本殿と巫女さん
八坂神社 本殿

八坂神社の創建

創建については ふたつの説があるようです。八坂神社のホームページから引用させていただきます。

ひとつめは

渡来人が神様をお祀りしたのがはじまり
斉明天皇2年(656)に高麗より来朝した伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山(ごずさん)に座した素戔嗚尊(すさのをのみこと)を当地(山城国愛宕郡八坂郷(やましろのくにおたぎぐんやさかごう)に奉斎したことにはじまる。

というもの。そしてもう一つは

お坊さんがお堂を建立したのがはじまり
貞観18年(876)南都の僧・円如(えんにょ)が当地にお堂を建立し、同じ年に天神(祇園神)が東山の麓、祇園林に降り立ったことにはじまる。

というもの。

八坂神社境内

境内を巡っていましたら白い神馬と遭遇しました。このあと少年がこの神馬にまたがって乗馬の練習でもしているかのような光景でした。
詳しくは存じませんが 祇園祭のお稚児さんでしょうかね。なんだかエエもん見せてもらった気がします。

御朱印について

八坂神社では季節限定や摂社末社のものも含め いくつかの種類の御朱印があります。
唐崎夜雨は「祇園社」と書かれた八坂神社の御朱印と 「御霊会」と記された祇園祭期間限定の御朱印をいただきました。

「祇園社」というのは八坂神社の旧称です。明治に入り「感神院祇園社」と称していたのを 古くからのこのあたりの地名である八坂に神社名を改称しました。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり と言われなくとも「祇園」という言葉は仏門由来のことばですから控えようということでしょうか。また「御霊会」もかつての祇園祭の呼び方です。

八坂神社の御神紋は「左三つ巴」と「五瓜に唐花」

いつもならここで境内社のご紹介となるのですが ながくなりそうなので日を改めましょう。

それに 八坂神社の由緒についてもいささかの疑念があるし かつての御祭神である牛頭天王もミステリアスな存在なので こちらもいづれの日に想いを巡らすことにいたしましょう。

それでは また!

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