今年は桜を亡き祖母と
それは、かれこれ10年くらい前になるだろうか。
二月のとある霊園で、亡くなった叔母の納骨に参列した。この霊園には祖母の眠る墓もある。しばらく祖母のお墓参りをしていないことを思い出し、納骨のあとで行ってみようと考えた。そして、母にその旨を告げたら止められた。
今日は叔母さんの納骨に来ているのだから、ついででお墓参りをするのはおよしなさい。来月になればお彼岸ですから、そのときにいらっしゃい。
なるほど、そうゆうものかとその日は祖母のお墓参りはやめて、他の参列者とともに霊園をあとにした。
そして迎えた春の彼岸。
これまで祖母のお墓には両親や親族と来ていた。ひとりでお墓参りをしたことはない。東京近郊の広い霊園ではあるが、おそらく記憶をたどれば行けるだろうと考えていた。
わたしはすでに実家を離れ一人暮らしをはじめていたこともあり、あらかじめ両親に霊園内の道筋をたずねることもなく、ふらっと家を出た。
霊園に入ると右手に園内車道を進む。ここまでは記憶とあまり変わらない。祖母の墓は霊園の端のほうに位置している。このまま道に沿ってすすめばよい。
記憶では右手に霊園の外周を通る道があり、わりと車の往来もあった。いまもある。しばらく進むとT字路に差し掛かかる。記憶のなかでは、そこには給水とゴミ捨て場があった。これもそこにある。確かにこのあたりだ。
そして近くに大きなツバキの木があった。祖母はツバキの花が好きだったので、子供の頃、春の彼岸には落ちているツバキの花のきれいなところを拾っては、墓前に供えたりもした。
ところが、目印となる大きなツバキの木がいまはない。どうやら伐られてしまったようだ。
ここに至るまで、なんとかなるだろうとタカをくくっていたのだが、どうもすこし雲行きがあやしい。
もしかするともう少し先のほうかもしれないと、歩を進めてみるが、そのあたりは新しい墓苑のようで、木立もなく、背の低い似たような形の墓石が整然と並んでいる。あきらかに、違う。
やはりあの給水のあたりと見当をつけてあたりを歩き回ってみたが、まったく見当たらない。
そこで、親に連絡して聞いてみようと考えた。携帯電話で両親に電話をかけてみたが、出ない。これは珍しいことではない。うちの両親は「電話はかけるもので、出るものではない」といい日頃電源はオフになっている。
家の電話にかけてみたが出ない。おそらく出かけているのだろう。ぐるぐると墓石ばかり並ぶ似たような光景を廻ってみたが、無理と決断。事前に場所を聞いておくべきだったと諦めて出直すことにした。
この時、手にしていたのはブラックの缶コーヒー。
お墓参りなのにあまり深く考えてもいないので、供花もなければ線香も用意していない。ふらっと懐かしい人に会いに行く気持ちだけでここまで来ていた。
このまま帰るつもりでいたが、せっかくなので先日納骨にきた叔母のところへ寄ることにした。叔母の墓は先月納骨に来たばかりだから分かる。祖母にあげるつもりの缶コーヒーを供えて手を合わせる。
「婆ちゃんのところに来たけれど、どこにあるか分からないので、今日は帰ります、婆ちゃんに会ったらよろしく言っといてね」
今回は仕方がない、さあ帰ろうと霊園出口に向かおうとしたとき、ふっと、もう一度だけ、見当つけたところを廻ってみて帰ろうと思った。
そして先ほどまでぐるぐる廻った場所の隣の区画へも、何気なく回ってみたら…
あった。祖母の墓があった。
なんとなく周辺の風景が記憶とは違うが、お墓そのものは昔のままである。そりゃそうだ。墓を見つけられてうれしくなったとき、ふと思った。
叔母さんが連れてきてくれたのかも。
これは偶然たどりついたのだろう。
しかし、そうじゃないかもしれないと考えても支障あるまい。
こんばんわ、唐崎夜雨です。
今日は、お彼岸に行けずにいた祖母の墓参をしてきました。
午前中は天気もよく、よき墓参日和。サクラの花も咲き始めていました。
そして墓参に行くとかならず思い出すので、書いてみた。
幽霊は出ないし、怪談と呼ぶにはおこがましい。ほんとにささいな体験ですが、気持ちがほぐれる体験でもあります。
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