見出し画像

僕の頭の中、あなたの頭の中

ヴィジュアルシンカー、という言葉がある。
脳内で言語ではなく絵やイメージを使って思考する人であり、多くの人(?)が脳内で言語を使用しているのとは対極で、脳内思考にイメージや図、絵を多用する人という定義らしい。
必然アウトプットもイメージが先にあるため、言語化を通じて相手に脳内のイメージを正確に伝えるのが苦手という傾向にもあるらしい。

僕はこの言葉を知った時に自分もヴィジュアルシンカーではないかな、と考えた。
だが、僕自身言語化は特段苦手でもない。詳しくは後述するが、僕は普段言語化というプロセスにほとんどリソースを割いていない。
しかし僕は脳内での思考に明らかに言語を使っていない。
思えば僕は昔から"サトリ"系の怖さがよくわからなかった。
「思っていることが筒抜けになってしまう」という薄気味悪さは何となくわかるのだが、では僕の頭の中を読まれたらどうなるか、と考えると思考が読まれるというのがピンとこないのだ。
いや、もう少し正確に言うと頭の中に整理された文章が並んでいないので読む側としてもどうしようもないのではないかな、と考えていた。
つまり僕はヴィジュアルシンカーに近くありながら定義されたヴィジュアルシンカーとも微妙にずれているのだ。

ここから導き出されるのはつまり、思考という一連のルーティンは「インプット」から始まり「脳内思考」を経て「アウトプット」されるまでのそれぞれで分解されるのではないか、ということだ。
ヴィジュアルシンカーというとあたかも上記3プロセスの全てをイメージ優先という印象を与えるが、人によっては必ずしもそうではない。
勿論3プロセスだけで分解しきれるはずもないが、ここは一旦単純化して考えてみる。
僕は僕の脳内しかわからないので僕自身をモデルとしてこの先は話していこうと思う。

まず「インプット」
これは単純で、どんな形の情報が自分には一番適しているのか、ということで推測できると思う。
情報を取り込む際に、文章で読むことが楽な人、音で聞くのが楽な人、言葉で聞くのが楽な人、もしくは何かに書いたりすることがインプットとして楽な人もいるだろう。
ぼっちざろっくでぼっちちゃんがメニューを歌にして覚えたように、人によって収集しやすい情報の形はそれぞれ異なる(と思っている)。
だから人がメモを取っているのを見て真似をする必要はない。要点を抑えてメモを書くのが苦手ならそれは自分に適した方法ではないかもしれない。あなたにはあなたのインプットの方法がある。
僕の場合は……会話を通じた音声的な言語だろうか。本を読むのが大好きなので文章でのインプットも苦手ではないが、やはり会話を通しての言語の形が直感的にイメージに繋がって楽な気がする。

続いて「脳内思考」
これは思考そのものに何を使っているかというところだ。
これは出典が曖昧なネットの与太記事からだが、世の中の多くの人は「内なる自分と会話」をするらしい。
僕個人としては全く信じられない話ではあるのだが、これが多少なりとも正しいのであるなら大多数の人は言語・会話を通じて脳内思考をしていることになる。
確かにこれを仮定するとサトリという概念にも納得がいく。何も妖怪だけでなく心の中を読むという概念は今や創作の中では一般的なものであり、それが広く受け入れられているということ自体が言語思考の人間が多いことの証左でもあるだろう。
論理思考などもここに含まれる。
僕には想像するしかできないが、思考の筋道が言語で明確に示されるのであれば確かにこれ以上ないくらい淀みなく色々なことをアウトプット出来そうだ。思考自体も非常にシステマチックに分類出来そうでそれはそれで体験してみたい。
反面僕はといえば、ヴィジュアルシンカーであるかも、と考えた通りイメージ思考が大半を占めているように思える。
思える、と書いたのも何せ確固とした思考がないのでどういう風に考えてるのか自分にすらよくわからないからである。
脳が思考で埋まるということはなく、常にフラッシュのようにイメージが散発的に想起された状態で思考が進んでいく。
各イメージも鮮明な画像というわけでもないので浮かんだ次の瞬間には別のイメージに移ろっている。イメージそのものを説明することはないし、絵として表すこともない。イメージを想起することそのもので思考しているような状態ではないかと想像しているが、何せ後に残らないので検証のしようがないのだ。
ただ、思考した内容自体は何らかの方法で記憶している(はず)ので思考の筋道自体を説明することは特に難しくない。僕の中で思考と理解は別物であり、思考の結果理解できたものはまたイメージとして処理されて既知の情報になるのであろう。
基本的に脳内に文章が起こるのは非常に稀であり、文章を読んだ時にすらあまり出てくることはない。
文章を読んだ時には内容如何に関わらず言葉そのものよりもその言葉から連想されるイメージがぱっと浮かぶ。自分の語彙にない言葉の場合にようやく文字の推測が行われて文字が出てくるくらいだ。

最後に「アウトプット」
これも多くの人は言語を優勢に行っていると思う。
そしてここ、僕自身の考えを述べるのであればここだけは皆自分の得意不得意に関わらず言語を使っているのである。
何故かと言われれば「そう教育されてきたから」、そして「人間の構造上の問題」だ。
頭のいい人の条件は言語化が得意な人、という言説にある程度説得力があるように言語化という行動はそれ自体が能力として評価される土壌がある。
それは人間が言語を通じてしか明確な意思疎通が行えない動物に進化してきたからに他ならない。
(余談だが、鳥には概念そのものを伝達する手段があるとかないとか)
本来言語というものは非常に穴というか遊びの多いツールである。
言語だけではその語彙一つが示す概念を満足に伝えることすらできない。
「嬉しい」という言葉を見た時に各人が想起する内容は全く別のものである。だがそれ以上に優秀で客観的なツールがないから人間は言語に頼らざるを得ない。
人間同士の橋渡しをするものが言語しかないなら言語化が得意な人間は他の個体よりも多くの情報をより正確に伝えることが出来る。
つまり、規格化された社会という枠組みの中で優秀ということになる訳である。
学校教育においても言語化が得意な生徒=優秀という図式になることはさしてずれた考えでもないだろう。
だが、言語化が単なるアウトプットの一つである以上前者二つと本質的には何ら変わらないのだ。
言語で伝えるのが得意な人もいれば絵や図面で伝えることが得意な人、文を通じて伝えることが得意な人もいる。
当然自分の思考に合った方法が一番であり、それが最も自身の思考を表すのに都合がいい。
僕はと言えば、ここはかなり特殊だと思っている。
僕自身イメージを使って脳内で思考をするのだが、口にその思考が下りた途端勝手に言語になって口から出ていくのである。
この思考を表に出そう、と思った瞬間には僕の口のあたりに装備されたコンバータが勝手に言語化して出してくれる。タイムラグは全くと言っていいほどない。というかそもそも思考が言語ではないのでタイムラグの発生のしようがない。
一旦話し始めれば話そうと決めた内容を話し切るまでは後は口が勝手にオートで動いている状態に近いから、次に話すことを後ろから装填してやればそれこそ無限に話し続けることもそう難しくない。
だから僕自身自分の言語化というプロセスを客観的に捉えられたことはない。自分の言葉であるのに他人の言葉を聞いている状態と同じなので、言ってから「お、これは結構上手いこと言い現わせたな」とか「あ、自分がこう言っているってことはこういうことか!」みたいに新たな閃きに繋がったりもする。
言語化は一瞬で出来るのに脳内の言語化は全くと言っていいほどされていない、とこうして書いていてもわかるくらい説得力のない機能で僕は動いている。しかし、何度自分の内面を見直してみてもこうとしか言い表せないのである。
だから僕は言語化が不得意な訳でもないが、かといってよくできた言語思考者のように筋道だった論理思考でもない。
話そうとしている内容について理解と把握をしているのであればこれ以上便利な機能もないのだが、反面理解が不十分なままに喋りだすと着地点が定まらない散漫な会話になりがちである。
言おうとすることは決められるがどう言葉にするかの決定権は多分自分にもない。我ながらピーキーな機能である。

今回は僕自身の例を挙げたが、同じように読者諸兄が同じやり方で自分の思考を分けて考えると、今までよりも物事を理解して把握することがいくらか容易になるかもしれない。
インプットは苦手な書籍を使わずとも音声トラックに変えてみてもいいし、人の会話を通じたインプットが得意なら自分で自分に話すというやり方もある。
思考に関しては流石にもう構築済みの方法を今から変えるのは容易ではないと思うが、自分の思考の癖に気を付けて思考の角度を変えることでも新たな発見があるかもしれない。
アウトプットについても言語化が得意でないだけで自分は知能が低いのだと決めつけてきたことへの再考察の機会にもなるだろう。
言語化という一分野の可否で能力全体のランクが決まる訳でもない。要は何だって自分の得意なやり方に変えてしまえばいいだけの話である。
言語化が苦手なら他のアウトプットを模索してもいい。若しくは単純に自分のアウトプットの形だけを変えた上でそこから言語化というステップを踏むだけでもやりやすくなるかもしれない。
例えば僕は、「理解が浅い分野における無理解で散漫な会話」を避けるために「一旦確実な内容を文章としてアウトプットしてその原稿を基に話す」ことにより、話が際限なくあっちこっちに派生することや、ランダムになってしまう話の展開の順番やゴール地点をある程度コントロールしている。
重要なのは自分の思考を自分の頭で出来るだけ追いかけてみることだ。

完全な客観思考は人間には不可能だが、客観思考をエミュレートしてみることは意外と難しくない。
一歩外側から自分の思考がどう動いているのかを見つめ直すと、意外と近いところにヒントが転がっているかもしれない。
ただ、思考の内部とは意図していないと普段全く触れる機会がなく、簡単に外側から見つめるといっても容易ではない。外から捉えようとするその思考自体が自分の思考を使ってしか考えられないのだから。
そういった観点から見ると、誰かと会話をするというのは非常に重要で、非常に有用な方法である。
他人とのギャップを会話で発見することにより、相対的に自分の立っている位置を炙り出すということも可能になる。

何が言いたいのかというと、皆もっと概念的な話を気軽にしようぜということだ。
僕がこういう話を気軽にできるのは同じような思考の傾向を持つある種の変態だけであり、どう考えても一般的な話題とは言い難い。
ただ、内容自体は例外なく人間全員に関係するものなのだということが今回わかって頂けただろう。話せば話すほど自分への理解も深まるし他人への理解も深まる。
こんな文章をここまで読む人間はハナから変態しかいないという指摘は聞かなかったことにしておく。
もっと形而上学的な話を気軽にできる社会になってくれ、頼む。

以上、リコでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?