人生の最後の言葉を決めよう
人生の最後に何を言うか。
他人にとっては至極どうでもいい話だが、当人にとっては意外と重要なことかもしれない。
少なくとも僕は度々この問題を考える。
ひとつの理想としているのは「ヘメロ・ペカペカ」である。
これは海皇紀という漫画に出てくる登場人物の遺言で、「最後は意味のない言葉を言って死ぬ」というポリシーの元発せられた言葉である。
人生の最後に無意味なことを言うのは結構難しい。
どうしたって僕らはきっと未練を抱えて死ぬだろう。その時に最後は何かを遺したくなることは想像に難くない。
人は本質的に誰かに何かを遺したいと常に考えている。と、僕は思っている。
どんな行動でもいい。社会や人間に、人は爪跡を残したいのだ。
その本能のままに最期を迎えた時、僕らはきっと懸命に何かを遺そうとするだろう。
当然その行動自体は全く悪くない。
ただ、僕は出来ることならそういうものは持たずに死にたい。
その方がなんだかさっぱりしていて僕には魅力的に映るからだ。
しかしこの言葉の何が難点って、こうして使われたことでこの言葉自体が意味を持ってしまうことだ。
少なくとも僕が死ぬ時に「ヘメロ・ペカペカ」と言ったところでそれは意味のない言葉ではなくなってしまう。
という訳でこれは目標であり実際には使えない。
遺言ではないが、もう一つの僕の望みは「笑って死ぬ」ということだ。
どうせ最期を迎えるのであれば、後顧の憂いなくどんな状況であっても笑って死んでみたいものである。
実際笑って最期を迎えられる人はどれくらいいるのだろうか。
こんなことを言っているが、準備万端であろうが唐突であろうが、僕はきっと死ぬ間際になったらあれもこれもやりたかった、やれなかった、と際限なく考えるのだろう。
笑って死ぬというのは相当準備していないと難しい気がする。
最期であるとわかった上で、何も遺さずに俺はこれで良いんだ、と言い切るのは生きている時に同じことを言い切るよりも遥かに難しい。
だからという訳ではないが、僕は少しでも笑って死ぬために様々なことを後悔しないようにしている。
やりたいことをやりたいようにやり、後に残るようなことは極力しない。
好きな人達と楽しいことをするためにはコストも行動も惜しまない。合わない人とは我慢して付き合ったりしない。
好き勝手極まりなく生きているが、案外これでもなんやかんやと仲良くしてくれる人は多い。
しかし意識してこうして享楽的に生きていてもやはり死ぬというのはいつだって予想外で恐ろしいものなのだろう。
死を経験して尚生きた人間は人類史上一人もいない。唯一行ったとされた存在は人間ではなく神とされている。
誰にも経験し得ない事象をみんながさも当たり前のように共有しているというのは考えてみれば奇妙な話だ。
死そのものにはどれだけの恐怖があるのだろう。
多くの場合僕らが死という言葉に持つイメージはそこに至るまでの様々な苦痛である。
仮に苦痛の末に死ぬのであればそれこそ死は苦痛からの解放になったりするのだろうか。
または苦痛なく死ぬ方法など存在しないから死と苦痛は常にセットで扱われるのだろうか。
誰もが必ず一度は経験するがその経験を誰にも遺せない、という体験は他にないような気がする。
人間以外ではまず、象が死という概念を理解しているようだ。
彼らは人間以外で唯一埋葬という文化を持つらしい。
また、昔手話を覚えたあるゴリラが「死は眠り」と語り、「死んだゴリラはどこへ行くのか」という問いに「苦痛のない穴に さようなら」と答えたというのは、真実かどうかはともかく有名な話だ。
当然ながら彼らは個体間で人間に理解できるコミュニケーション手段は持たないが、裏を返せば彼らにしか通じないコミュニケーションを以て「死の概念」をやり取りしているということだ。
これらはたまたま人間が知り得た範囲のことであり、その他の動物にも各々の死の概念はあるのだろう。
それだけ生死という概念は重要な情報ということなのかもしれない。
僕らが知らないだけで、もしかしたら地球上のあらゆる動物は死という概念を人間よりも身近に感じているのか。
であれば、やはり彼らは僕らよりもよっぽど死について切迫しているのだろう。
僕ら人類は自らを地球上の支配者と称し、個体として常に命の危機を感じることはほとんどない。
先進国で生きるだけなら他の社会的に困難な目標を成すよりも大体容易いという始末だ。
そんな僕らはいざ回避し得ない死という事象に直面した時に、初めて自らの持つ命というものを実感を以て把握するのだろう。
しかし逆に言えば、ここまで生存本能が薄まった人間という種族だからこそ、最期を安寧の中迎えることが出来るかもしれない、とも考えられないだろうか。
笑って死ぬ、というのは実際のところ未来に対する期待がなくなるということと同義であり、その瞬間になんだか生きる意味もなくなりそうだ。
つまり生存本能が極限まで薄れた結果が「笑って死ぬ」ということなのだろう。
そうなるとあれもやりたいこれもやりたいと日々全力で人生を楽しんでいる僕はもしかしたら誰よりも生き汚くなるのだろうか。
だとすると、笑って死ぬというのは僕にとっては大変難しい話になる。
考えてみればTHE YELLOW MONKEYも「笑いながら死ぬことなんて僕には出来ないから」と歌っている。
確かに日々の生活に後悔を残さないように生きるのが最期の諦めの悪さに繋がるのなら、それでいいような気もする。
ここまでの思考の足跡を踏まえて、何となく考えた上で決めてみた。
僕の最期の言葉は、「明日になったら死のう」にしたいと思う。
今日やり残したことを終えて明日になったら死んでもいい。当然明日になったら、「明日になったら死のう」と言ってその日にやりたいことをやる。
目標があり続けるのなら永遠を生きるのも悪くないかもしれない。
という訳で2000年後の人類諸君、よろしくお願いします。
以上、リコでした。