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ある絵描きの手紙 1945.9.4

お元気ですか。

なんてかしこまった文句は私には似合わないね。
赤の他人ならまだしも。

でもあなたにとっての私は、そうなりつつある。

あなたは距離の問題ではないというだろうが。


玉音放送を境にこの國は腑抜けになってしまったね。
周りを見てそう感じないか。

いい人間はみんな死んでしまった。

南方に征った嶋津さんが最後に便りを寄越したのは2月だろう? 
嫌な予感がするよ。

これからはバカが威張らない時代になればいいね。

アメリカはうまくやってくれるだろう。日本語を捨てろなんて言われるだろうか? 少なくとも天皇は消えてなくなるだろう。

このごろは晴れが続いている。月がよく見える?
國がなくなったって、何がなくなったって、月はいつまでもあるんだろうからねえ。

愛や音楽が、せせっこましい思想で薄っぺらくならなければいい。
小鳥のさえずりはあいつらなんかに聞こえやしない。

科学に毒されて、自己を防衛し他人を攻撃してばかりの、
歩く損益計算器械には。


ねえ、僕は本当に君を愛していた。

遠くに見える焼夷弾の落下が、あまりにも綺麗だと君は言った。
僕は君を諌める口実を得たから、君の黒髪を束に結えて噛んだ。
糸切り歯に幾本か挟まって抜けなくなるほど強かに。

少し残った理性で、飲み込むことはしなかった。
でも手繰って噛み切った。

痛さに君は僕を睨んだ。

君の瞳には、燃える谷中の町が映っていた。

瞳の中で、僕の家と妻が燃えていた。

僕にはその瞬間、時代なんかどうでも良かった。

それだけを伝えたかった。もう僕は君に会えない。

最後に君と、丸い月明かりとに、固い握手を贈る。

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