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#060 スカンノへの旅 (その7) 薪を運ぶ男性

 スカンノの標高は約1000メートル。山間部でもあり、冬は雪に覆われる。それぞれ家では暖炉に薪を焚べて暖をとる。家の屋根には煙突があり、それらもスカンノの景観の一つとなっている。
 石段の端に椅子を置き、腰掛けてスケッチをしていたら、石段の上の方にトラックがバックしてきた。見れば薪が積んである。どうするのだろうと思っていたら、トラックの荷台が上がり、積んであった薪をドガドガと道に容赦なく落とした。オオ! 大胆! 建物に挟まれた道は、道幅いっぱいに薪の山ができて、道は通行不能になった。
 すると年配の男性が一輪車に薪を乗せて運び始めた。平地を運ぶのではない。石段を下って行くのだ。直径20〜30センチくらいの木を割って4分の1にした薪を選んで石段の段に置き、段差を少なくするように並べていく。できあがった比較的段差の少ない「道」を通って下っていく。しかし、段差が全くなくなっているわけではないので、石段を1段下ればガタンと音がする。ガタン、ゴトン、ガタンと男性は一輪車に薪を乗せて石段を下っていく。下り坂だから腰を低くして一輪車をコントロールしなくてはならない。バランスを崩さなによう両腕には常に力が入っていることが分かる。年齢的にもきつい仕事だろうと思った。
 薪の長さは30〜40センチ。結構重そうだ。ガタン、ガタン、ゴトン。時々一輪車から薪が落ちる。男性は一輪車を止めて薪を拾い、再び一輪車を持ち上げて運び始める。
 男性は薪を家々に届ける仕事をしているようだ。何度も何度も石段を登っては薪を一輪車に乗せて、再びガタン、ゴトンと音をたてて石段を下っていく。私はその音を聞きながら絵を描き続けた。
 私はプロの画家ではない。趣味で絵を描いている。遠く日本から、この町スカンノにやってきて、明るい日差しの中、椅子に腰掛けて絵を描いて遊んでいる。一方、彼は生活のために汗を流して重たい薪を運んでいる。一輪車に、あの重そうな薪を乗せて、この石段を下っていくことは、さぞや辛いことだろう。私は、遊んでいる自分と働いている男性とを対比させ、申し訳なさを感じてしまった。
 そう思って見ていたら、私の座っている所から10メートルくらいの所でバランスを崩して、積んでいた薪の半分くらいを地面に落としてしまった。男性は一輪車を止めて薪を拾い始めた。手伝ってあげようかと私は一瞬思った。万年筆のキャップを締めて、スケッチブックを置いて、10メートルの距離を歩いて行く自分の姿を想像しているうちに、男性は半分近くを拾い上げてしまった。それに、何と声を掛ければいいのだ…などと思っていたら、残り少なくなっていた。
 もう遅い。今から行っても何も手伝いにならない。そう思った瞬間、男性がよろけた。身体のバランスを崩し、転びそうになった。疲れが出たんだ。私は一瞬腰を浮かせたが、その瞬間にできることは何もない。幸い男性は転ぶことなく、しかし、少しよろめきながら全ての薪を拾い終わり、表情を少しも変えることなく、再びガタン、ゴトンと運び始めた。

 その次の日の朝、スケッチポイントに向かう道に薪の山があった。そこに立っていたのは、昨日の男性だった。薪の山は完全には道を塞いではおらず、何とか一人が通ることができるくらいの余地があった。男性は、別の道を通ってくれと言いたげな表情をしていたが、無言だった。私も、別の道を通ってスケッチポイントに辿り着ける自信がなかったので、この道を進むことにして薪の山まできて、「ボンジョルノ」と男性に挨拶をした。
 薪を踏み付けてはいけない。薪と薪の間に見える石畳に左足を置き、次に見える石畳に右足を置き、薪の山と建物の壁の間を通り過ぎようとした。私はスケッチブックを2冊持っていた。水も持っていた。椅子も持っていた。結構な重さだ。その重さの所為で私はバランスを崩し、フワッと身体が傾いた。しかし、掴むものは何もない。移動する足場もない。このままでは薪の山に倒れ落ちてしまう。アッ!と思った瞬間、男性がサッと近づいて手を差し出してくれた。素早い対応だった。お陰で私は転ぶことなく、薪の山を通過することができた。
 「グラッツェ」と言ってその場を去ったが、歩きながら、グラッツェの一言では到底足りない感謝の気持ちが湧いてきた。彼が手を差し出してくれなかったら、私は成す術もなく転んでいた。薪の山に手をつくか、顔面から落ちるかして大怪我をしたかもしれない。
 そして、後悔の念も湧いてきた。昨日、彼が薪を半分落としたとき、私は駆け寄ってあげなかった。10メートルくらいの距離があったとはいえ、スケッチブックが膝の上にあったとはいえ、見て見ぬふりをしてしまった。申し訳ない。振り返って、私は彼の顔を見た。

 ブラックチョコレートのような、少しばかり苦い思い出。
 私と同じくらいの年齢の男性だった。今日も、ガタン、ゴトンと薪運びをやっているのか。
 スカンノに雪が積もる日は近い。

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