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手紙を書いて、とりもどせ“自分らしさ”


日常でイラッとしたことがあると、気分をとりもどすために、手紙をしばしば書く。
イラッとさせられた人宛てではなく、全く別の、しばらく連絡をとっていない人に向けて。

ほんとうは、「そういえば、あの人、お元気かな」という気持ち100%で書くのが理想だけれど。
でも、動機はなんにせよ、いったん紙とペンをもったら、その人だけのことを考えるモードになる。

私がイラッとするのは、たいてい「一対一の関係をないがしろにしている人」だったりするので、手紙を綴ることは、「自分は一対一の関係を大事にしたいのだ」という思いを確認する儀式のようでもあり…。
なんだかモヤッとした時にも有効!

この動画のコメント欄にあるように、人に押し戻してもらうための儀式のような感じもしている。ちょっと大げさだけれど。

楽器をチューニングをするように。
ラジオを聴きたい局に合わせるように。
自分の大事にしたいものにチューニングを合わせる感じ。
(さもないと、不協和音の日々になってしまう……!!)

あと、最近はDMなどで、何か用事があるときにインスタントに連絡をとることが増えた。
そんな中で、じぶんの用事とか、イベント集客などのタイミング以外で、相手を気にかけていることを伝えることは、大事なんじゃないだろうか。

お礼状や季節のあいさつ・グリーティングカードなども、そんなものの一種だ。
別に返信・返答を強いるわけでもない。
率直に、気にかけていること・ふとあなたの存在を思い出したことだけが、そっと伝わればいいんだと。

手紙=ペンで世界へ漕ぎだす感じ?

具体的に、心掛けていること

私が気を配っている点としては、
封筒に書く自分の住所は、若干読めないくらい、くだけた感じで書く、ということ。
これは、あまりきっちり楷書で書きすぎると、なんだか、返信を暗に強いている感じになるのでは?と感じるからだ。
私の考えすぎかもしれないが。

郵便番号の数字は、きっちり書く。
でも自分の住所と名前は、気持ちはこめつつ、さらっと。

そういうのが、なんだかスマートな感じがしている。
※そういうのもあって、返信の手紙の、私の住所がちょっと間違っていることがある。郵便番号が合っていれば、わりとちゃんと届く。

「手紙を書く」のド真ん中=真髄

手紙の真髄と言うと大げさだけれど……

特定の一人、だれかのために、その人仕様に仕立てる

これが自分の中では、手紙を書く理由であり、愉しみでもある。
手間がかかると考えるかもしれないが、
いちばん手っ取り早く・お手軽にできるオーダーメイドだ。
(「オーダー」された訳ではないので、カスタマイズに近いかも)

フリック入力やタイピングでもメッセージは送れるが、
手書きは、そうした入力方法よりも、もっとたくさんの神経を必要とするからか、何か別のものが生まれる気がしている。

その人に向けて綴ろうとしていなければ、出てこなかった文章や表現にも、たくさん出会えるのだ。
それがビリビリするくらいおもしろい。
名宛人についてあれこれ思いを巡らせることで、つづることができた言葉たち。
自分ひとりで考えているだけでは、形にならなかった思いたち。

名宛人のあなたがいたからこそ。

↑ 「あなたの名前を呼びたくなる曲 それを略した言葉が名曲」

住所を知っている人が少ない場合

よく考えたら、住所はかなり濃い個人情報だ。
SNSのDMを通じてやりとりしている人が多数かもしれない。

宛先は、すごく親しい人でもなくていいと思っている。
たとえば、

  • 旅先で、とても気持ちの良い対応をしてくれた旅館

  • コーヒーをサービスして、ゆっくりしていくように言ってくれた古書店

  • 使って、とても気に入った商品の製造元

  • 旅行先で、ふらっと入って、いい時間を過ごせたカフェ

「え? そんな、ほとんど知らない人にも?」
と思われるかもしれない。
もちろん、返信は期待しない方がいい。
私は、自己満足かもしれないが、上記のような時には手紙を書くことが多い。
実際に返信がきて驚いたこともあるが、根本としては、サービスに対して、お金とは別にきちんと報いたいという気持ち。
時間を費やすこと、心を向けることも、そのまま気持ちの現れになる気がしているから。

別の表現で言うと、
直筆で、「クレームの逆」を届ける、ということになる。
クレームはある意味では、一対一の関り合いの一つの形態である。
その逆も、あっていいのでは!? と思っている。

クレーム・・・その時ならではで起こってしまったこと・変えて欲しいこと
クレームの真逆・・・そのままでいて欲しいこと・素晴らしいことを伝える

気のきいた言葉が書けなくてもいい。
投函する行為と文の行間から、十分、伝わるものがある。
情報外情報だ。

そうして、ポストに カタン と投函するだけで、
自分のありたい人間像にふみとどまれる気がするのだ。

「あなたの心にそっと触れさせていただきます」の精神性

アイヌの人びとの「こんにちは」のあいさつ「イランカラプテ」の意味は、
あなたの心にそっと触れさせていただきます」だと聞いたとき、
とても温かい気持ちになったことを、よく覚えている。

博物館で、いろんなアイヌの生活用品・民具をみたけれど、
この言葉に込められた思いに、電流が走るようだった。

現代は、付き合いの深浅に関わらず、どこにいる人とでも簡単につながれてしまい、
ついこういった気持ちを忘れてしまいがちだ。
ほぼ忘れている。

私も、未来の不安に引っ張られたり、時間のなさを言い訳にしたりして、
ずいぶん、いくつかの心を踏みにじっただろう。
そんな行為は、相手も傷つけるし、自分自身もえぐる。諸刃の剣。
まるで、甘い蜜をとるミツバチが針を持っているように。
(時々、その生命を賭けて、刺してくるように)

だから手紙を書いている私は、
「イランカラプテ」の精神を日常に取り戻したいと思って、筆圧が濃くなる。

判断基準は、「この人に手紙を書きたいか?」

オンラインでやりとりする人も、基本は、
住所は知らないけれど、いざ手紙を出すときに、いろんな手間をかけてでも、この人に綴りたいと思うか? 思わないならば、少し距離を置くべきなのでは?
と問いかけて関わるようにしている。
SNSでフォローする人もそう。

人と関わるうえで、迷ったら、この問いに立ち返る。
それをしたいと思える人が、自分にとっての大事にし続けたい人なのだと。

ラジオ局を動かした、たった2通のハガキ

とある地方のラジオ局のパーソナリティーの方の話。

種子法の改正について、番組で取り上げた。
「種について考えよう」という内容で、何回か定期的にコーナーを作った。
そのパーソナリティーの発案でディレクターに掛け合って成立したコーナーだった。
短期間でそのコーナーは打ち切りになる予定だったが、その放送局宛てに、
「種子法について、種について話題にあげてくれて嬉しい。もっと知りたいから、ぜひ続けてほしい」
という内容の2通のハガキが届いた。
結果、それが決め手となり、そのコーナーは続くことになった。

たった2通。でもそれがディレクターを、番組の運営を動かしたんです
というパーソナリティーの言葉が、今も強く記憶に残っている。
リスナー二人の強いリアクションが、メディアを動かした。

SNSの発信に対して、いいねが1とか2だったら、ヘコむのかもしれない。
でも、ハガキや手紙の1通や2通は、とても重みがある。

リアクションしたいと思い立つ
   ↓
放送局の住所を調べて、ハガキを書く
   ↓
内容をしたためる
   ↓
切手を貼る。きれていたら、郵便局に買いに行く
   ↓
家を出て、ポストに投函する

したためる手間を考えれば、相当の「意志」がないと投函はできない。

前述したように、とてもお世話になった旅館や飲食店、書店、滞在先などにこういった気持ちを届けるのはどうだろう。
もちろん、受取人が忙しくて見る間もなく、チラシの束に紛れてしまうかもしれない。
でも、もしかしたら、そのサービスを辞めることを考えていた人にも届くかもしれない。
自分の一通と、他の何かの応援が重なることで、何とか続けようと腹を決めてくださるかもしれない。
その人が続けてくれることで、また別の人たちが豊かなサービスを受けられて、いい循環が続いてゆくんじゃないだろうか。

なんとなくSNSをスクロールするのなら、
そんなとびっきりの「一通」をどこかに投函してみたら? とおもう。
指先だけで、押しても押さなくても、どっちでも良いリアクションをするくらいなら、全身の神経を使って動けよ、と自分にも言い聞かせている。
(もちろん、SNSを通じて応援の交換をし合っている実感もあるが)

たとえ返信がなくとも、一方的で一人よがりだとしても、
ありったけのオーダーメイドを社会の誰かの届けてみろよ、とおもう。
SNSはどこかのエンジニアがプログラミングしてくれたものだ。
(そういったサービスの恩恵もたくさん受けているけれど)

池にポチャンと石を投げこむように、波紋が広がるかもしれないのだから。

忙しくて、心をなくしている時にこそ、立ち止まって「一通」をしたためたならば、それは名宛人にとっても、差出人の自分にとっても、素朴だけどとっておきのギフトになるんじゃないだろうか。

世界に変容を求めるなら、
まずは自分の生活を、昨日とはちょっとちがう冒険に変えてゆけたらと!

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