我慢と真理
こんにちは、フェルです
私は今、辛抱の時期にいるのかもしれない。
それに伴い辛抱とは?我慢とは!?について考えていたら面白い学びを得ました。
仏教ではこの我慢という心には7つの種類があると考えられていて、それを七漫という。
心の状態で7つにわけた「七慢」は、「慢」、「過慢」、「慢過慢」、「我慢」、「増上慢」、「卑慢」、「邪慢」。4番目に「我慢」がある
「慢」
自分より劣った者に対して、自分のほうが勝っていると驕る心。
「過慢」
自分と同じ段階の者に対して、自分のほうが勝っていると驕り、自分より優れた者に対して、自分と同じだと言い張る慢心。
「慢過慢」
自分より優れた者に対して、自分のほうが勝っていると驕る心。
「我慢」
我意に執着して驕る心から離れられない慢心。
「増上慢」
悟っていないのに悟ったと言い張る慢心。
「卑慢」
はるかに上をいく者に対して、自分は少ししか劣っていないと思い込む心。
「邪慢」
悪い行いをしても正しいことをしたと思い込み、徳がないにも関わらず徳を積んだと思う心。
①漫、②過漫、③漫過漫などは、自分と他者とを比較せずにはいられないような心がありありと感じられて、まさに我意を押さえられない慢心というものを見事にあらわしている。
④我慢は、現在でも使われている我慢という言葉の原型で、「我」に捉われて驕る心から離れられないことが慢心の根本であることを示している。
悟っていないのに悟ったと言い張る⑤増上漫も、負けず嫌いな感じがよくあらわれている。
⑥卑漫は、劣っていたとしても少しだけだと言い張る卑しさが新しい。
最後の⑦邪漫だけは、ちょっと厄介な慢心であるように感じる。
悪いことをしても、正しいことだと思い込む。
⑦の邪漫は、どのような人であっても陥る可能性のある慢心と言える。
そもそも、善悪とは何なのか。
正しいとはどういうことなのか。
それを問わなければ、善悪も正しいもわかるはずがないからである。
しかもこのような本質を求めんとする問いには、正解がない。
正解がないにも関わらず、問わなければ摑めない。
摑んだ「それ」は、一体何なのか。
正解ではない正しい答えとは、何のことなのか。
真理とは、「本当に正しいこと」を二字にまとめた言葉
そして、この真理を問い続けた末に、ぐるっと一周して元の位置へと戻ってきたのが禅なのか、、、
曰く、真理とは「あたりまえ」に他ならないのか、、、。
真理と感謝も大事に育ませよう
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