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『シン・ウルトラマン』感想:道化的ヒーローと『野生の思考』

*本記事はあくまで個人の感想であり、製作者の意図するところを考察するものではありません。
*本記事は、映画『シン・ウルトラマン』と漫画『進撃の巨人』のネタバレを含みます。

はじめに

僕は小さい頃、ウルトラマンが大好きでした。
幼稚園のころは、両親に買ってもらったウルトラマン図鑑を隅から隅まで読み尽くし、色んなウルトラマンの名前を暗記して遊んでいました。
浅草で行われていたウルトラマンのイベントに、父親に連れていってもらったのは今でも覚えています。
そんな僕の中のウルトラマンブームは小学校に上がる前に終わり、つい最近まではその存在すらあまり意識することもありませんでした。
しかしそんな中、今回『シン・ウルトラマン』なるものが(しかも庵野秀明が総監修で)公開されるとのことで、昔を懐かしむ気持ちから映画館に足を運んでみると、意外にも今の自分にかなり刺さる作品だったので、つい長文で感想をつづりたくなってしまいました。

シン・ウルトラマンの道化的性質

さて、自分語りが続いてしまって恐縮なんですが、僕は今大学4年生で卒論を書いている途中です。テーマは、(ちょっと変わってるんですけど)
「道化」についてです。
この「道化」が深掘りしてくと面白くて(なぜか現代では研究が盛んではないのが残念ですが)、この映画が今の僕に刺さったのも、「シン・ウルトラマン」は道化の性質と結構重なるところがあって面白いなぁ〜って思ったからなんです。
道化の性質はいくつかあるんですが、そのうち「シン・ウルトラマン」と重なるのは
①曖昧・両義性/越境性
②道化役の宿命

の2つが大きいかなぁと思います。順を追って説明します。

①曖昧・両義性/越境性

越境性を持った存在が主人公の人間って面白いんですよね。例えば『進撃の巨人』のエレン(「壁の向こう」の巨人であり「壁の中」の人類)とか。
『シン・ウルトラマン』の主人公も、「人間(地球人類)でありウルトラマン(外惑星人)である」という越境性を持っています。
ちなみにここでいう越境性/両義性っていうのは、対立する2つの集団の双方に属していて、それゆえにその境界を行ったり来たりできる性質のことです。
このような存在は、原理的に曖昧さを持ちます。
人間は世界を二元的に認識する(つまり白か黒か決めたがる)傾向があるので、どちらにも属している存在は「曖昧なやつだな」となるわけです。
道化もまた、越境性を持つ存在です。
最も卑しい身分でありながら最も位の高い王様に無礼なジョークを飛ばしても許されたり、愚かに見えて実は誰よりも賢かったりします。
トランプ遊びで「ジョーカー」が果たす機能も似たような感じがしますよね。
広く知られている道化だと、シェイクスピアの『リア王』に登場する道化が挙げられます。
道化役(越境性を持った存在)が物語の中で果たす役割に注目すると、この映画に限らず、作品を鑑賞する視点が増えて面白いです。
後述しますが、『シン・ウルトラマン』が巧みなのは、「人間とウルトラマンという2つの存在が一つの身体にいること」によって、この越境/両義性を実現させていることだと思います。

②道化役の宿命

先ほど越境/両義性を持つ存在は曖昧である、ということを書きましたが、このような存在はその曖昧さゆえに、最終的には物語から退場していく(消滅する)宿命にあります。
例えば、先に挙げた『リア王』に登場する道化は、「夜が明けて陽が昇ってきたから、そろそろ寝なきゃ」的なことを言い残して突然舞台から姿を消し、それ以降登場しません。
『進撃の巨人』でも、主人公のエレンが自己犠牲的に全てを引き受けて(まさに「痛みを知るただ一人であれ」というシン・ウルトラマンのあり方と重なります)物語から姿を消します。
越境/両義的な存在は最終的に物語から消えてく宿命にあります。
その上、対立するもの同士のどちら側(『シン・ウルトラマン』で言えば地球人類と外惑星人)にも属していることで、道化的存在(ウルトラマン)は原理的に孤独な運命にあるのです。

物語のテーマ・構造について

物語のテーマ・構造について、僕は以下の2つの点が面白いな〜と思いました。
①道化的ヒーローが果たす役割について
②『野生の思考』と未熟さの肯定について

の2点です。これも順を追って説明します。

①道化的ヒーローが果たす役割について

道化研究で有名な山口昌男氏の『道化の民俗学』に、物語に登場するヒーローと道化役についての興味深い分析があります。
ざっくりと要約すると、

ヒーローは「規範(ルール)・秩序・限定された可能性」という性質を持ち、
道化役は「反規範・反秩序・開かれた可能性」という性質を持つ

という指摘です。
何故こうなるかというと、ヒーローはその性質上、人々から応援されるような存在だからです。
社会的な規範を守らず、全く秩序のないヒーロー(例えば、何の信条もなく人を殺しまくるヒーローなど)は応援されにくいですし、それはそもそもヒーローとは呼べないのではないかと思います。
ここでポイントになるのは、ヒーローが規範的であるが故に「限定された可能性」しか持たず、逆に道化役は反規範的な存在であるが故にヒーローにはない「開かれた可能性」を持っているということです。
普通に考えれば物語の主役はヒーローですが、実は(開かれた可能性を持つ)道化役の方が、物語を進める力(=物語の推進力)を持っているのです。
『シン・ウルトラマン』が面白いのは、
主人公が(みんなが応援したくなる)ヒーローであり、
(物語の推進力を持つ)道化役の性質を兼ね備えた、
いわば「道化的ヒーロー」である
からだと僕は思います。
ヒーローと道化、両方の性質を併せ持つ❤︎

『シン・ウルトラマン』では、「道化的ヒーロー」である主人公の越境/両義性が「人間とウルトラマンという2つの存在が一つの身体にいること」によって担保されています。
これにより、ウルトラマンが自己犠牲的に消滅することで両義性が解消され、本来消滅する宿命にある主人公(神永)が消滅しないで済む、という結末に繋がっています。
この方が、主人公の存在が完全に消滅してしまうよりも"グッドエンド感"がありますし、後述する「未熟さの肯定」というポジティブなテーマとも親和性が高いと思います。
道化的存在をヒーローとすることで物語に推進力を生みつつ、テーマとの兼ね合いが取れるようになっているのが巧みだなぁと思いました(斎藤工だけにね)。

②『野生の思考』と未熟さの肯定について

ウルトラマン(神永)が人間を理解するために読んでいた本の中に、レヴィ=ストロースの『野生の思考』という本がありました。
ちょっと話が逸れますが、最初のウルトラマンの登場以降、神永が(明らかに禍威獣とは関係ない)広辞苑を読んでいることから、神永が人間ではないことを暗示しているのが細かい伏線になっていて面白いですよね。
そのしばらく後に、神永(ウルトラマン)が『野生の思考』を読んでいることや、人類より遥かに”知的"な外惑星人が来たこととから、
徐々にこの作品のテーマの大枠が見えてきてワクワクしました。
この、レヴィ=ストロースの『野生の思考』ですが、本の内容そのものが『シン・ウルトラマン』の筋書きと大きく重なっています。
これもざっくりと要約しますが、

「私たち科学文明に暮らしている”知的"な西洋人は、未開民族の思考を"劣っている"と見なしがちだが、それは間違いだ。
彼らには"野生の思考"という科学文明の"知的な"思考とは別の思考様式があるだけであり、それら2つに優劣はなく、共存できるのだ。

というような内容です(間違ってたらすいません)。
『シン・ウルトラマン』では外惑星人という遥かに"知的"な存在によって、自らを知的だと思い込んでいる先進諸国の人々が、(自分たちが未開民族にしているのと同じように)「知的に劣っている」存在として扱われます。
個人的にこの作品で好きなのは、このように人類を俯瞰して捉えたときに、その未熟さや傲慢さをネガティブな方向に帰結させなかったことです。
(レヴィ=ストロースがそうしたように)「劣っている」とされる側の文明の可能性を信じ、人類の未熟さを肯定するような描き方をしているのが良いなぁ...と感じました。
そのようなあり方が、
「人類はまだ幼い」
というウルトラマンの一言に凝縮されているような気がします。
未熟さや限界性を認めることで成長できるというのは、一個人としての人間も、種としての人類も同じだよな〜と思うと同時に、人類が良き方向へと発展していく可能性を、僕も信じてみようという気持ちになりました。
ウルトラマンが人類を救ったのはこの作品の中の出来事ですが、ウルトラマンの人類に対する捉え方は、映画館に足を運んだ現実世界の僕たちのことも救ってくれたように感じました。

最後に

訳のわからないことをごちゃごちゃと、そこはかとなく書き尽くしましたが、この映画は理屈抜きにしても面白いので、是非見に行って欲しいです(散々ネタバレしておいて今更ですが)。
何歳になってもウルトラマンの変身シーンと効果音にはワクワクさせられますし、
昔の特撮っぽい雰囲気も懐かしいですし、
あと主演の斎藤工が役にハマってて最高です。
以上、『シン・ウルトラマン』の感想でした。
ここまで読んでくださった物好きな人々、ありがとうございます。


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