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「生きる意味って何ですか?」

「生きる意味って何ですか?」
この問いは有史以来、人類によって最も多く発せられた問いのうちの一つだと思います。また、答えによってその人の価値観が分かる面白い問いでもあります。
親に対して、尊敬する師に対して、あるいは自分自身に対して、誰もが一度は問うてみたことがあるのではないでしょうか。
今回は、この問いに対する僕なりの答えを書いていきたいと思います。

ホモ・サピエンスとしての人間が生きる意味

僕の答えは2通りあります。
すなわち、「人類種:ホモ・サピエンスが生きる意味」「個人:加藤慎也が生きる意味」です。まずは、人類が生きる意味についてです。

単刀直入にいうと、人類が生きる意味はありません。
理由は2つあります。
1つは、これが最も根本的な理由ですが、人類をはじめとする生命は意味をもって生まれ、進化したものではないからです。
現存する生命は、「何らかの意味があったから生き残った」のではなく、
「地球の環境にたまたま適応してきた結果、たまたま生き残った」個体の集まりです。
つまり、「人間は二足歩行するために直立している」のではなく、厳密には「初期人類のうちで二足歩行をしなかった個体は死に絶え、二足歩行をした個体が生き残り、その末裔が私たちである」のです。
そのため、人類が生きる「意味」があるのか?という問い自体、問いとして殆ど成立しないのです。
そもそも、「意味」は常に「誰かにとっての」意味です。
つまり、意味は常に相対的なものです。
このように(誰にとってのものでもない)客観的な事実を考慮したとき、意味は常に存在しません。
では「誰かにとって」、例えば「地球上の他の生命にとって」人類が生きる意味とは何でしょうか?
それが「人類は生きる意味がない」と考える理由の2つ目です。

2つ目の理由は、「地球上のほとんどの生命にとって、ホモ・サピエンスは害悪でしかない」からです。
7万年前、人類は狩猟民族として、自分たちの食糧となる大型の動物を絶滅に追いやりながら繁栄し始めました。
1万2000年前、人類は農業をするようになり、定住をするようになりました。
自分たちの定住エリアに近づく邪魔者(虫や動物、他の村に住む人類)を殺すようになり、殺して食べるための動物(家畜)を飼い始めました。
そして、工業化が進み資本主義が台頭した現代では、他の生命のほとんどは「人類の役に立つか?」という評価関数で判断されるようになりました。
科学の発展により、「役に立つ」生命は「効率的に」生まれたり殺されたりするようになりました。
例えば、現代では「卵を多く産むようになるが、すぐに足が折れやすくなる遺伝子操作」をされたニワトリが、養鶏場の柵の中いっぱいに飼育されています。
あまつさえ、そのように「効率的に」管理され食糧になった動物を、人類は「お腹いっぱいだから」食べ残し、捨ててしまうのです。
ちなみに、日本の食品廃棄率(一人当たり,2021年)は世界第6位です。

引用元<https://www.forbes.com/sites/niallmccarthy/2021/03/05/the-enormous-scale-of-global-food-waste-infographic/?sh=1aa5df1026ac>

この国では、食べる前に「いただきます」食べた後に「ごちそうさま」と、
命に感謝する儀式が、毎食行われているらしい
です。
きっちり感謝して、がっつり捨てるのがCOOL JAPANのやり方らしい。
本題から少し逸れましたが、ここまで見てくれば、人類がいかにその他ほとんどの生命にとって害悪であることが腑に落ちるかと思います。

個人としての人間が生きる意味

人類の歴史を振り返ってみると、人類は滅んだ方がよさそうです。
とはいえ、これまでの人類が犯してきた罪の数々など、加藤慎也にとっては知ったこっちゃありません。
個人としての人間が生きる意味は、「僕にとって」の意味だからです
個人としての私が生きる意味は、「自分が幸せになること」です。
これ以外ありません。これが最優先です。
僕はたった一度しか生きることができず、死んでしまえば僕の意識は永久に消滅してしまいます。
そのため、できるだけ長い間、自分が幸せであることが一番に決まってます。
ただし、「自分自身の幸福を追求すること」と「自己中心的に生きること」は必ずしも両立しません。
自分の大切な人が嫌な思いをしていたら助けたくなるし、見知らぬ人が困っていたら(気が向けば)助けたくなります。
でもそれは、「そうすると自分が気持ちいいから」で、「無視すると自分が気持ち悪いから」です。
だから、自分に余裕がないときには、友達がいくら困ってようがあんま助けたくないし、
すごく暇で気分が良かったら、知らないおじさんとかでも助けるかもしれません。

心に余裕があれば(どの生命も奪わない)果物だけを食べる日を作るかもしれないし、豪勢にいきたい気分のときは(非人道的に屠殺された)牛肉を美味しくいただくこともあります。その代わりに、丁寧にごちそうさますることで少しだけ贖罪の気持ちを満たす、というずるいこともしています。
これら全ては、自分が幸せに生きることに繋がっています

そして、今は「できるだけ多くの人や生命が幸せに生きられたらいいなぁ」と思っています。なぜなら、今の僕には余裕があるので。


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