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1995年1月17日

毎年特別な想いを持ってすごす、1月17日が今年もめぐってきました。

少しずつ記憶がうすれていくあの日のことを、ここnoteにも記録しておきたいと思います。

成人式を終えて帰宅

27年前の1月。
15日の成人式に出席するために地元に戻っていたわたしは、翌16日に当時の下宿先に帰りました。

下宿、といっていますが当時
家族(多くは親)と一緒に住み大学に通う学生を【自宅生】
わたしのように実家を離れ、(親の名前で)大学の近くに部屋を借りて住み、そこから大学に通う学生を【下宿生】
と呼んでいたので、その意味での「下宿」先、実際はワンルームのアパートにひとり暮らしでした。

『明日は授業がある、宿題まだだったからやらなきゃ』
と深夜まで翌日の授業の準備をしていました。その日にやっていたのはロシア語の予習。ロシア語はほかの第二外国語とくらべると履修学生の数が少なく、同じ教室で学んだのは数名(3人とか4人?)でした。わずか2,3行のロシア語を訳すのに、単語ひとつひとつ全部辞書を引いていかないと解釈できなかったわたし。事前にあるていど準備しておかないと、まったくもって授業についていけません。大講義室に座っているだけの授業ではなく、あてられることは必至なのです。
なんだか懐かしい。(そんなロシア語も、もうほとんど覚えていませんが)

床についたのは恐らく2時か3時ごろ。まさかその数時間後にたたき起こされるとは夢にも思わず、いつもどおりに飲みかけのマグカップをテーブルに置いたまま電気を消しました。

大きな揺れ

ドーンと、それまで経験したこともない揺れで目が覚めました。暗闇の中、ふとんの上で固まったままどうして良いか分からず、ゆさゆさと誰かが建物ごと揺らしているかのよう。
これでもか、これでもか、と揺れは強くなり、思わず
『ぎゃぁ〜!!』
と大声で叫んでしまいました。

もうやめて!と心のなかで叫んでいました。

こういうときの自分の判断力というのは、冷静なときには全く予想ができません。

部屋の電気をつけようと、紐を引くがつかない。もう1回、そしてあと2回引いたら元の『消灯』になるな、と妙に冷静になっていたのは覚えています。震災のときは停電になる、停電が解除されたときに電気のつけっぱなしはもったいない、と判断したのでしょう。

暗闇の中で、ザーザーという音が聞こえてきました(たぶん)。部屋にはポータブルラジオがあって、それが落下して電源がついたのでしょう。もしかしたらそうではなく、わたしが自分で探しあてて、電源をつけたのかもしれない、でも今となってはどっちでも良いしあとで記憶を塗り替えている可能性は否めません。

窓際までいって、ベランダにでるところのサッシを細くあけて、外の様子を確認しようにも暗くてみえません。
アンテナの向きをあれやこれやといじっているとラジオから聞こえてくるのは、大きな地震があったこと、火災がおきている地域もあること、さて私はどうするべきなのか、一生懸命考えなくてはなりません。

夜明け

だんだんと外が明るくなってきて、ベランダから外の様子をうかがっていると、すぐ隣のクリーニング屋さんのおじさんが声をかけてくれました。避難したほうがいい、と。

こういうときって、どうしたらいいんだろう。
とっさに思いついたのは、とりあえず貴重品(現金や保険証)は持っていくべきだよね、ということ。歩いてすぐのところにある小学校まで行きました。いわゆる避難所、というやつです。体育館にたくさんの人、人、人。
トイレに行きたくて、使わせてもらいましたが、まぁなんというか、すごい状態でした。水は流れなかったのだろうか…?

その前か後かに、十円玉を何枚も握りしめて公衆電話に並び(長蛇の列でした)、実家にかけて生きていることは報告しました。なにをしゃべったのかは全く思い出せません。とにかく知らせなきゃ、と思ったのだけは確かです。

目にした惨状

小学校の体育館で、同じ部活の同期を見かけました。そういえば、彼はすぐ近くに住んでいたんだった。頭から血を流している? ひとことふた言かわした記憶があるのだけれど、どこか行かなくちゃいけないところがあるらしくすぐにどこかへ行ってしまいました。
ご近所さんに知り合いはいないし、このまま小学校にいてもどうしたらよいのか。

思いつくことといったら、知り合いの家を訪ねていくことだけ。同じ部活の先輩が住んでいるアパート目指して歩くことにしました。1つ上と2つ上の学年の先輩が、大学からすぐのところにある同じアパートに住んでいて、みんなのたまり場になっていたのでした。あのボロ(失礼!)木造アパートは、あの揺れで大丈夫だったのか? もしかして…。と最悪の事態も想像してしまいました。

いつもなら電車に乗るところ、とうぜん電車は動いていません。歩いて隣駅まで行く途中でコンビニに寄ってみると、もうほとんど何も残っていませんでした。かろうじて残っていたピーナッツチョコレートを買って、当座の空腹をしのぐことに。
目的地に向かって歩いていると、道沿いの民家の塀は倒れてきているし、信号機は消灯していました。むかし本で読んだことのある、戦争時代の話ってこんな感じなんだろうか、と思いながら何が起きているのか飲みこめません。

先輩たちの木造アパートに到着しました。
あの○○荘はあとかたもなく…とはいかないまでも、見事に1階部分はつぶれ2階の先輩の部屋が地上にありました。
人がたくさん出てきていて、簡易型の担架のようなもので運ばれていく人がいたような気がします。さいわいにも先輩たちは二人とも無事で、なぜか先輩の家の電話があの混乱の中でもつながったようで、一時的に公衆電話化していたのを覚えています。

それから何時間、そこにいたのか分かりません。
1階の住人がまだ行方不明だ、ということで捜索が続くのをずっとそこにつっ立ってみていました。
本当にこれが現実に起きていることなのか、まったく頭がついていきませんでした。

途中でやはり心配して駆けつけた同じ部活の先輩(院生)が、誰それは無事だったぞ、とか六甲道駅の高架は落ちていた、とかそんなことを知らせてくれたりしながら、「このあとわたしはどうしたらいいのか分からない、けどどこへも行けない」と途方にくれていました。

暗いところが怖い

そうこうしているうちに夜になり、倒壊した木造アパートの前にいても仕方がないので、その近くにあった小学校へ先輩方と一緒に避難することにしました。
配給のパンを受け取ることができ、解放されていた教室へ行きました。真っ暗な部屋にストーブひとつ。時おり余震もあり、ガタガタという音がするたびにビクッとするのでとても気が休まりません。

小学校を後にして、向かったのは大学の生協食堂です。
なぜ初めからそっちに行かなかったのか、と思うのですが…
大学の生協(購買部)と食堂が解放されていました。煌々と明りのついた食堂の長テーブルに突っ伏しながら朝を待ちました。
余震もありましたが、明るいというだけで少しは恐怖心もうすれるものだと知りました。
生協購買部ではテレビもついていて、そこで初めて高速道路が倒壊したとか長田の靴工場が火の海だったことなどを知りました。それとくらべたら、自分たちのいる大学は窓ガラスが何枚か割れたくらいで大きな被害もなかったのです。

改めていただいた命

あのとき、なにを考えていたんだろう。20歳のわたし。
もう、今となってははっきりと思いだせないけど、覚えているのはキンと澄み切った夜空に月がまぁるく輝いていたこと。
こんなになっても、お月様はきれいに輝いているんだなぁ…とぼぉっと考えていました。このあとどうなるのかまったく分からずに。

あとになって知ることになるのだけれど、わたしはあのとき本当に運が良くて、もしかしたらあの揺れの瞬間に命を終えていたかもしれなかったのです。母はよく、「改めていただいた命だね」と言います。あのとき死なずに助けてもらったこの命を。

そして翌日、わたしは被災地から救出されます。
本当にいろいろな幸運、周りの人の助けがあっての今があります。
しみじみと、あらためてその幸せをかみしめています。

だいぶ長くなったので、続きはまた明日にでも。

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