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情報社会でおざなりになること

いろんな情報が飛び交う社会でただただ情報を受けていると頭がおかしくなりそうになったりもする
本当に自分にとって生きた情報っていうのはなんだろうか
自分で出歩いて探しにいくことも素晴らしいことだし、偶然立ち寄った本やさんで手にした情報も素晴らしいものだ
そこにはだれか人がいて、だれかのぬくもりがあったりする
ただ、画面だけで流れてくるものをキャッチしたものというのは、その場しのぎの暇つぶしにはなりそうだが、それをどのくらい自分の心に響くのだろうか
自分にとって必要な情報ってそこまで多いのだろうかと自問自答したりしている

極力SNSはしない性格ではあったりするけれども、みなが今表現できる時代だからこそ本当に必要な情報や、自分とわかりあえるような情報、
また自分にとって有益な情報というものをみつけていきたい

私はスピリチュアルカウンセラーをしている身だから、あまりインターネットで情報をひろうというよりは、日々人の話していることなど、またこうかな?と思うことや、
直接神社にいって神様や守護霊様また、カウンセリングにきてくださるお客様との会話の中で
メッセージをひろうことが多い。
生きた情報というところでは日々自分の頭をクリアにさせていくのは本当に必要なものを手にしたいときに、
それがピンときたり直観というものが働くような気がしてならない。

そういった今ここ、この瞬間にというところで、自分の心がいかに揺れ動いたのか、を大切にしていきたい。

そういう情報というのは、長くたっても心に残っていたりもすると思う。

以前京都の旅行中に、2泊3日で、かなりハードなスケジュールを立てた。
2日目にいたっては、神社仏閣巡りに、京都の端から端まで自転車で走り回り、挨拶にいそしんだ。頭の中では毎回来るところにご挨拶しなければ!という思いでいっぱいになっていた。

ただ、その中でふと立ち寄ったお寺、予定にはなかったところ、で
お参りをする機会が得られたのだが、誰もいない静かな空間に
掃除をするおばあちゃんが一人、親鸞聖人の髪の毛が飾ってあるお寺だという。
本堂に靴を脱いで入らせてもらう。そこでご挨拶をした。今回は忙しくて親鸞聖人には挨拶をしない予定だったのに、こちらに呼ばれたことを感じた。
する降りてきた言葉は
「頭にとらわれて、心を今ここで感じることをしなさい。そうではないと生きていることにはならない。」
「心で今を感じなさい」という言葉を頂いたときに、我にかえった
そうだ、私はすべての場所に行くことが目的になって
心から今を感じずに、予定を遂行することに、心も持っていかれていたということを。

そういった意味では、あのゆるやかな時間の中に、諭すように言ってもらえたあの言葉は、私の中で生きた言葉であることに間違いがなかった。
なので、今も、そしてこれからもその言葉を大切にしていきたい。

本当に必要なことは、今ここで
自分の心がどう感じたか。かもしれない。



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