オタク文化の変遷と表現に関する考察と感想

オタクの皆さん、ごきげんよう!本記事ではオタクに自負心のある現代人に対して考察を行いたいと思います。しかしお題があまりに広範なため、"萌え"とか"俺の嫁"みたいな死語を使っていた死後のオタクと今時の"尊い"オタクたちの差を焦点に考えてみようかなと思う次第です。恐ろしくまとまりのない文章ですのでご容赦ください。
以下、読む前に注意点のご紹介です。
・二次元、三次元、オタク等の表現を恣意的に使っています
・ここでいうオタクはほとんど男性オタクを指してます
・思いつきで書いているので論拠がない点、想像による補完があります
したがって、読む際は肩の力を抜いてご高覧ください。

"嫁"から"推し"、"萌え"から"尊い"へ

私がオタクもどきになってしまった原因を探るため、今時オタクたちの活動の根幹を成す、自分の好きな作品・人物をどのように称えるか?の象徴的ワードを取り上げたいと思います。
このタイトルを見て「2000~2010年代オタクかよ、旧世代らしいな」と思ったそこの貴方はきっと化石みたいな人種でしょうね。私と似たようなものです。

"嫁"と"推し"の整理

2000年代後半、「俺の嫁」という表現は今でいうミームとなっていました。「涼宮ハルヒの憂鬱」が放映されだしたころと併せて最盛期を迎えましたが、今では耳にすることも稀だと思います。なぜなら「ぺこーらは俺の嫁」って検索してもヒットしませんでしたから。
ジェンダー論も盛んな昨今において"嫁"は不適切な表現と感じられる一方、当時からこの表現は男性のみならず女性のオタク(というより腐女子)の間でもそのままの言い回しで使われており、"嫁"というワード自体に深い意味はなかったようです。言葉尻を捕らえてつっかかる現代よりは寛容な時代だったと思います。
参考:http://www.paradisearmy.com/doujin/pasok_yome.htm
この言葉は単に愛情表現の一つであって、"〇〇は俺の嫁"といった使い方をします。

次に"推し"ですが、これはAKB48の台頭と同時期(2009年頃?)に広く見受けられるようになった表現のようです。恐らくは48人中の誰がオススメか?みたいなところからやってきたのでしょう。私も中学生の頃(つまり2010年の少し前)に級友からAKB48の写真集を見せられて「誰が一番好き?」って聞かれたことあります。今思えばキモオタにも分け隔てなく声かけてくれる良い人でした。
その他、箱推しや一推し、推し変といった表現で使われますが、単に好意的であることの表現でもある一方で、以下のような意味が含まれています。

「推し」にも「好き」だという感情が含まれていますが、手の届かない距離感があり、不釣り合いな相手に対して見えない線引きが存在しています。恋愛は自分だけが相手と親しくなりたいと望むのに対し、推しは他者にも薦めたいという気持ちが含まれている点が異なります。

https://oggi.jp/6152878#heading01

主語(=自分)がその対象に好意的であることは共通していますが、対象を手中に収める意図があるのは"嫁"表現、対象との関係に線引きを作るのが"推し"表現なのでしょう。"嫁"表現は結婚の前段階にある恋愛の意味を含意している表現、"推し"表現は自身との恋愛という関係性を排した好意的表現だと私は捉えています。

"萌え"と"尊い"の表現とその対象

"萌え"って何でしょうね。いっつも怪しい表現だと思ってました。語源については以下のサイトをご確認ください。
参考:http://www.paradisearmy.com/doujin/pasok7k.htm 
"萌え"や"尊い"はそれぞれ動詞的、名詞的、感動詞的に現代に合わせて雑に用法を広げた用語であり、どちらも意味が曖昧で字面だけで意味を感じ取るのは難しいと思います。
特に"萌え"の概念はあまた議論されているところであり、個人的には東浩紀の言うオタクの動物化と閉鎖的性的消費の理屈も好きですが、"尊い"と区別するために本田透の「脳内恋愛」説を採択したいと思います。

「萌え」とは「脳内恋愛」であると本書では定義したい。もちろん、厳密にいえば 恋愛というレベルでは語れない「萌え」も多数あるのだが、あまりにも広範囲に拡散 してしまうと論じにくいので、本書では「脳内恋愛」としての「萌え」に限定して論じることにした。「萌え」系オタクの特徴としては、性格的に女性的、というよりも少女的な感性を持っている人が多いことがあげられる。女の子のイラストやフィギュア、 抱き枕、動物のぬいぐるみなどを収集するという行為は、二昔ほど前の時代の少女の 趣味と同じだ。ゆえに萌えオタクには、自分たちオタクをターゲットにして製作され た萌えアニメだけでなく、児童向きのアニメや少女小説の世界に「萌え」を発見して 脳内恋愛関係に落ちるという人が多い。

本田透『萌える男』筑摩書房、2005 年 11 月

次に"尊い"とは何か、今時なオタクの皆さんはもうご存じでしょう。説明不要だと思いましたが、私の備忘及び旧世代の皆さんのために少しだけ説明しておきましょう。

「尊い」の言葉そのものは、若者言葉として使われる以前から一般的に使われていた言葉です。例えば「尊い命」「尊い思い出」と使われるように、とても貴重である様子や、尊重すべきものであることを表しています。
しかし2010年代後半頃からは、尊い存在をうけて感動する気持ちを表した表現として使われるようになっています。
「尊い」の意味がわかりやすいのが「推しが尊い」という使い方です。「推し」とは、特に応援しているアイドルや、好きなキャラクターのこと。ここで言う「尊い」は、推しが手の届かない場所にいて、自分にとって光り輝いている貴重で崇高な存在であることを意味しています。簡単に言えば「推しが素晴らしすぎる」「推しの存在は自分にとってかけがえのないものだ」ということです。

https://gakumado.mynavi.jp/gmd/articles/53969

用語の意味についてはさておき、重要なのは"萌え"と"尊い"の対象が手に届く範囲にいる/いない(≒恋愛対象にできる/できない)という対照性です。"萌え"は対象として"私だけの"〇〇を選択できますが"尊い"は"みんなの"〇〇しか対象に取れないのではないか、と考えられます。"私だけの"涼宮ハルヒであれば、私の脳内では自由に私と恋愛関係になることができるので愛情表現として"萌え"を適用できますが、"みんなの"涼宮ハルヒはキョンに惚れている設定があるため"萌え"ではなく"尊い"を適用するのが一般的なのでしょう。

オタクの性質変化

上述の通り"嫁"から"推し"、"萌え"から"尊い"の変遷を整理した結果、愛情表現として対象と自分の関係が変化していることがわかりました。昔に比べて今日のオタクたちは愛情表現の対象と自分の関係の距離感を大切にするようになったのです。ではオタクたちはなぜ変化し、表現を変え、今なお存在しているのでしょうか。

"萌え"は1990年代後期に始まり今や死語と呼ばれる存在になり、"尊い"が2010年代に登場して今もなお隆盛を誇っていますが、あれほど流行した"萌え"が死語になってしまう(死語になってもオタクは問題なく存在している)理由は何か。それは「今時のオタクは(脳内)恋愛をしないから」ではないかという仮説を立ててみます。

まず前提のお話です。根本的な原因はわかりませんし複合的な要因だとは思いますが、最近話題になった通り自由恋愛の結果としてデートしたことない、恋人いない現代の若者は結構な割合で存在するそうです。

「恋人として交際」した人数を聞いたところ、「恋人として交際」した人がいないと回答した20~30代の独身の女性は24.1%、独身の男性は37.6%となっている。特に、交際経験がない20代の男性が4割近くとなっている。

特集 人生100年時代における結婚と家族~家族の姿の変化と課題にどう向き合うか~

理由としてよく取り上げられるのは自由恋愛における競争への疲弊やコミュニティ内の立場の重要度が相対的に上がったことでしょうか。また、上記のデータはお見合いの文化がなくなった結果、昔から潜在的に存在していた恋愛弱者があぶり出されただけという主張も見受けられます。社会論を論じるつもりはないので、これらの情報をもとにオタクに焦点を絞ったケースで私が考える原因を説明します。

一つ目は、オタクがオタク活動の中で自身の恋愛(≒結婚)という現実を持ち込むのを嫌っていることです。

2000年代初頭のオタクたちは軽率に「俺の嫁」というワードを使って愛情を表現できましたが、2008年のリーマンショック以降に蔓延する厭世観(あとインターネットで見かけるミサンドリー・ミソジニー的価値観)が人々の心を蝕み、それを受けてオタクたちも安易に恋愛や結婚、嫁といった表現を軽々しく使えなくなったのではないでしょうか。
上の世代から与えられた結婚のイメージに対する猜疑心や上述の理由はオタクに限らない話ですが、仮にオタクを恋愛が苦手な傾向にある人種だと想定すれば、結婚や恋愛に抱いていたオタク特有の幻想が破壊された反動と、「結婚・恋愛だけが人生じゃない」みたいな世間の意見とそれを諦めて悟ったこと言い出す恋愛弱者の感性が図らずも一致してしまったことが現代のオタクにとって追い風になっているかもわかりません。

加えて言うならば、別にキャラクター間の恋愛は特に問題ないんですよね。単純な話、自分が介入しなければ幻想は幻想のまま、オタクたちはそのキャラクターや作品の世界を楽しむことができるのです。自分が介入するだけで現実が襲ってくるからダメなのかもしれません。

2つ目ですが、これはオタク文化的な"二次元"に対するエピステーメーが切り替わったことにあります。

取り巻く環境の変化によるところが大きいです。
"二次元"を楽しむオタクたちは今まで作品の世界観やキャラクターについて楽しんでいたわけですが、SNSの発達、特に積極性がなくても情報を入手できるTwitterのようなものによって色んな情報を取得し、その中で作品の評価や知名度、メタ的考察等を意識せずとも受け入れていく内に、作品自体の情報を上回る価値を別の部分に見出すことが多いように感じます。

その結果、これまでのような二次元キャラクターを見るときに当てはめていた表面的な幻想(=理想のキャラクター及びそれが持つ性格、声やバックグラウンド等)を破壊し、二次元キャラクターの裏側にある現実(=声優、作者、資本主義的な諸要素)を覗き見ることで作品を楽しもうとする新たな見方を始めたのではないか、オタクたちの変容はそこにあるのではないかと考えています。コンテンツが量産される中で金太郎あめのようなキャラクター群の魅力を見出そうとする流れで、コンテンツのみではなく外側にある諸要素が重要視されてきたのではないでしょうか。(Twitterアカウント見てフォロー数で作品評価するとかね)

作中にいる誰もが理想とするヒロインなら"俺の嫁"にしたいけど、作品の外側を強く意識させられるキャラクターに恋心は抱けない。資本主義的な背景をもって作られたキャラクターだと無意識に認識していながら作品を楽しもうとしても、その作品のキャラクターを自分と結びつける妄想はどうにも整合性がとりづらい。逆に声優にはある意味でヒロイン幻想を押し付ける結果になるし、声優もアイドル的な売り出し方が有効なのだと思います。

まとめ

身もふたもない結論を述べると、オタクたちは時代に合わせて自身の立場を顧みながら表現を変えてきたというわけですね。コンテンツの変化は企業努力によってオタクたちに合わせて生み出され、オタクたちもそれに迎合しつつ時代の変化を経て今なおオタク活動をしていると。

ただ、その言葉の差分はキャラクター等を恋愛対象と見るかどうかを軸にしていて、現代の自由恋愛に疲弊した若者たちによって二次元キャラたちの立ち位置が変化してきたことは一つの真実だと考えています。加えて、コンテンツが流動的で濫造される中でメタ視点が加わり、"俺の嫁"という言葉で愛を表現するのは難しい時代が来たのでしょう。
実際、四半期に一度お嫁さんが変わるなんて揶揄され続けてきたオタクたちですが、今やキャラクターのフィギュア購入するよりFanboxでサブスクして色んなかわいい子の絵を見る方が主流ですからね。当然の帰結と言えます。

以下補足と感想

ここから先の文章は全部私個人がなんとなくの印象で書き綴った駄文ですので読まなくて結構です。批判は受け付けますけど対応はいたしませんので、自己責任でお読みください。

オタクの性質変化に対する補足

エピステーメーが切り替わった、なんて大層なことを言いましたが、説明不足なので私の感想と併せて補足していこうと思います。ちなみに本当に感想で何の論拠もないです。
また、雑にコンテンツ提供側を二次元と三次元に分けて説明しています。主語を大きくしてしまってすみません、一概に言うことができないとわかっていても、細かいところに目を向けるときりがないのでご了承ください。

オタクのメイン/サブカルチャー分水嶺

私が思うに、"萌え"から"尊い"の変化が起きるのは2005年が分水嶺です。三次元が二次元に媚びた結果、二次元が三次元性を纏う必要が出てきたのが原因です。

皆さん、電車男はご存じでしょうか?もう古すぎて知らないですかね。
あの作品に登場するエルメスは言ってみれば二次元的なヒロインが実在したら、という展開が当時のオタクたちを良くも悪くも盛り上げてくれた、いわゆる"オタク"のサブカルチャーの最盛期を象徴する作品でした。ちなみに2005年です。月面兎兵器ミーナは2007年ですよ、おじいちゃん。

さて、三次元の美少女たちは我々オタクたちに恋愛的な、性的な視線を向けることはないと頭ではわかっていても我々はつい騙されてしまうものです。それを利用したのがAKB48だと考えています。ちなみにAKB48の1期生は2005年12月らしいです。
非常に悪い表現をしますが、初期のAKBのやっていた斬新な手法とは、偶像の存在であるはずのアイドルが人気投票を踏まえて客に媚びるという、二次元の常套手段を三次元にやらせたことだと思ってます。AKBのコンセプト知ってますか?「会いに行けるアイドル」です。

2000年代初頭から電車男を経て勢いづいたオタクたちが市民権を得たと思い、おおっぴらに活動するオタクが増えて、秋葉原の名を冠するAKB48というアイドルグループが台頭した。偶像の意味を捨て去った自称アイドルたちが媚を売って集客し、オタクたちはそれに群がりAKB商法にも金を落とす、完璧に成功したと言える流れです。
握手券付きCD等のAKB商法は昭和の時代もありましたが、アイドルにはまる中年なんてみっともないという周囲の視線もあったせいか大っぴらにはやっていなかったみたいです。ここが、市民権を得たオタクと過去の違いです。

アイドルと身近さという健全性を売りに出しつつ、それらを逆手にとって恋愛(兼性欲)のフックで男性に夢見させて集客する後ろ暗い部分を、アイドルというメインカルチャーを隠れ蓑にして売り出してる感があります。
そして一度メインカルチャーに乗っかれば勝手に若い女性もついてきます。女子中高生を中心にヒットしたのは、特に弱者男性に異性と触れ合う夢を与えたのと同様に彼女らもまたアイドルとして成功した自分という夢を与えてくれるAKBの虜になっていたからだと感じてます。
そのどちらも両立させてくれるのは48人いること、誰を応援する?という体を取っていることです。斬新で奇抜、天才の発想ですね。AKB48はこのようにオタクの、そしてオタクに対する世間からの見え方を一変させたのです。

結局、三次元は今まで世間から揶揄され続けた二次元の真似事をすることで資本主義的成功を収めました。もはやオタクとか関係なく受け入れられていますしね。ただ一方で、三次元は客に媚びを売ることを求められるようになったと感じます。お客さんからはカリスマ性より友達や恋人の振る舞いを求められがちになった、ぐらいの雰囲気でしょうか(完全なる感想、アイドルとか俳優とかよく知らなくてすみません)

サブカル(二次元)サイドの話

三次元が二次元のオタクどもを漁るので二次元オタク界隈は立場が弱くなってしまい、打ち手として三次元の真似事をします。アイドルみたいにかわいい声優の顔を出してひな壇トークショーやらせる等の行為はメインカルチャーを模倣した典型例だと思います。

ラブライブ等のアイドル兼スポコンものがこの潮流に乗り成功を収めるなど、オタクに金を使わせることに着目した各種業界はあの手この手でコンテンツを作り上げ、あまたの作品の栄枯盛衰が2010年代にみられました。私の視野が狭いせいかもしれませんが、2010年代はそれ以前より特に女性向け作品にも注力していた気がします。正直ここら辺も詳しくないので適当な感想です。

他にもスマートフォンの流行によってソシャゲが流行し、紋切型のゲーム性とキャラクターを博打のごとく濫造していき、結局は大手が成功をおさめIP化していきました。小説ではいわゆる"なろう"が流行ります。
どのコンテンツについても前述の通り、設定もキャラも大した差分が見いだせない状態に陥っていたので、声優とか作者の魅力による影響を強く受けるのは必然と言えます。これに関しては過去に比べて作品数が跳ね上がった影響でそう評価せざるを得ない側面もあります。

みんな大好きVtuberと"推し"について

さて、技術の進歩により登場した存在、皆さん大好きバーチャルYoutuberの登場は2016年のキズナアイから始まりました。2017年終わりごろがカグヤルナです。もう結構な月日が経ちましたね…。

そして現在Vtuberグループの代表格であるにじさんじの登場は2018年、ホロライブは0期生と呼ばれる存在が2017年からいたみたいです。これらは、私の目にはAKBの模倣の産物として映っていました。三次元が二次元オタクに媚びて~というAKBの説明は前述の通りですが、Vtuberは三次元を二次元でコーティングするという画期的な手法でオタクたちを虜にしたのです。

ゲーム実況配信等、Youtuberが顔出しをする一方で彼女らはアバターを用いてかわいらしいモーションを映し出すので、オタクたちに刺さるのは納得でした。また、キズナアイ等のいわゆる四大と呼ばれる存在は都度投稿される動画を中心にしていた一方、後発組だったにじさんじやホロライブは配信によって人気を博したようです。

今時のVtuberのコンテンツ性

VtuberのオタクたちはVtuberに何を求めているのかという問いは、現代のオタクがどういう存在なのかを結論づける一つの手立てになりそうです。

隆盛を誇るにじさんじやホロライブに群がるオタクたちはVtuberに二次元性というか、ヒロイン幻想を抱きません。むしろ三次元的な存在感を見出そうとする傾向にあると私は思っています。というのも、にじさんじ・ホロライブのどちらもアバターを被っているだけで、その中身は自身の日常を話題に出せるからです。

二次元性を追求したキズナアイ等はバーチャル空間で生きている私と貴方という構図を貫いていましたが、後発組のVtuberは建前上の設定があるだけで、その構図に縛られていない印象は誰もが持っていると思います(ぺこーらのマスクに化粧ついちゃう発言とか)。あとVtuberがよくやるTwitterでサブ垢作ってそこで本人が営業以外のツイートをする、みたいな手法もまさに今時のオタクに合わせた手法だと感じます。

またVtuberの配信では、実際に女性が自分に対して声をかけてくれている一方、生々しい女性からの表情、視線や発言が全てかわいいアバターと演出された声に変換されています。しかも自分の姿を見られない。
安全に異性とのコミュニケーションを娯楽として受け取ることのできるVtuberは、まさに自分に自信がない男性が楽しむための女性的アイコンと言って差し支えないでしょう。これがVtuberも三次元性を求められる理由です。性別を逆にしても概ね一致するでしょうが、理解が及ばないので割愛

百合営業等も同様ですが、エンタメ的に人間関係を消費している、というのがVtuber界隈の人気の本質だと思っています。作品に登場するキャラクターより実在する人間の方が消費コンテンツに向いているんです。今まで生きてきたバックグラウンドを自動的に持っているので、設定を作りこむ必要がないですから。しかも今時のオタクは二次元性より三次元性を求めるので齟齬がない。
二次元コンテンツを三次元で得られなかったものの埋め合わせと認識している人たちにとって、Vtuberから与えられる娯楽は最高にハマっていると言えます。これはスパチャによる他人への自己顕示に対しても言えます。

Vtuberはなぜ"嫁"じゃないのか?

上述の通り、Vtuberのオタクたちは二次元に三次元性を求めます。とすると、より自分たちの側に近い印象を与える"嫁"の方が適切かと私は思いましたが、現に"推し"という言葉が使われますよね。時代の潮流も当然あると思いますが、もう少し詳しく考えてみましょう。

Vtuberが模倣したであろうAKBのアイドルたちは"推し"と表現されました。三次元の女性が資本主義的な理由で握手してくれるんですが、営業だと理解していてもその魅力につられてCDを何枚も購入してチェキを撮り応援していると言い…キャバクラ×アイドルみたいなコンセプトで勝ち上がったAKBに対し、それを模倣したVtuberは当然"推し"と扱われます。Vtuberを二次元キャバクラと揶揄する声は皆さんも見たことあるでしょう、まさにそれです。でもキャバクラにも同伴とかアフターの概念がありますよね、返礼の義務的な。実際、対価を求める人はTwitter上で見かけると思います。

もう少し言うと、AKBが三次元アイドルの品位の幅をここまで下げたからこそ、二次元で同じことをやってるVtuberにも"嫁"という表現が使えないのでしょう。アイドルに対して"俺の嫁"は言いづらいですよね、だって本来は偶像ですから。
二次元では主人公(=自分)という立場で作中ヒロインとの恋愛関係を示せたかもしれませんが、三次元のアイドルが二次元レベルまで落ちてきてなお"推し"と呼ばれる以上、ある意味AKBより遠い存在となったキャラクターに"嫁"という愛情表現は相応しくないのかもしれません。その意味では、もはや"俺の嫁"と"萌え"がセットで死語になるのは必然かなと思います。

結論、三次元と二次元の境目に位置するVtuberは三次元的偶像性と二次元的ヒロイン性を掛け合わせた二次元的存在として"推し"と"尊い"が適しているのです。

個人的な感想と総評

"推し"と"尊い"に切り替わったことの論拠なき考察

率直な感想として、男性が使う"推し"ってワードは対象への性欲を隠すための隠れ蓑的な表現でしかないと思ってます。"嫁"や"萌え"じゃなくなったのは、オタク文化がメインカルチャーに近づくほど女性の存在を意識してしまい、未成年のアイドルとかアニメキャラ相手に発情してますと言うことの体裁の悪さが表れているんじゃないかと。そもそも最近、男性が性欲を示すと犯罪者予備軍扱いされてしまうので適切な時代の流れだとも感じてます。
女性が参入するサブカルはメインカルチャーに近く、女性から拒絶されないための愛情表現は"尊い"なんだろうって思うのは邪推でしょうか。

例えばウマ娘はエロ禁止と言われていてもエロに準ずるようなアピールポイントがある絵とかトレーナー(=読者)との恋愛模様が描かれた絵が大人気ですよね。「うまぴょいしたんだ」とか言う人たちがそれの表れです。
でも"尊い"ってコメントが送られます。前述の通り"尊い"には「手の届かない存在」という意味が含まれてるって…それともトレーナーと自分は分離してますって?ちゃんちゃらおかしい話です。そう考えると、アグネスデジタルとかいう読者の代弁者キャラクターを立てることでオタクたちの認識を錯覚させてまとめ上げたサイゲームスはすごいです。
これに付随しての疑問ですが、ウマ娘LINEみたいなあれ、見たことありますか?あれを見てて思ったんですが、女性オタクの中にはメル画や夢女子ってワードが普遍的に使われる中、男性オタクの中で夢男子って表現は見かけないのが不思議です。

オタク的なコンテンツが性欲と結びつく以上はメインカルチャーを代表することはかなり難しいという印象を受けつつ、ワードや意識を切り替えるだけでここまで健全っぽく見せられるのはすごいですよね。マンホールをメンテナンスホールに変えるとか、ニートをレイブルに変えるみたいなアホみたいな施策にもいくらか価値があるんだろうなとこの記事を書いていて思いました。

なぜ私はオタクもどきに成り下がったのか

私がオタクもどきに成り下がったのは紛れもなく文化の変遷に置いて行かれたからです。未だにFanboxとかサブスク系のコンテンツ流通に慣れていません。CDは手元に持っておきたいし絵は冊子にして売ってほしいです。サブスクが流行る理由でもあるコンテンツの増加等にも、社会人になってからは全然追いつけませんでした。

ただ今思えば10代の頃も艦これにも乗り遅れたし、以前からオタクの潮流には乗れていなかったかもしれません。アラサーになった今でも大学生の頃にやってたゲームを繰り返し遊ぶばかりで、あとは人気の出たアニメを流行を追うように見るだけ。ゼーガペインをリアルタイムで観ていた小学生時代の方がよほどオタクだったんですよね。

思うに、コンテンツの流動性が高まる中でオタク特有のコレクター欲を満たす流れは消費者も創作側も厳しいと理解していて、目まぐるしく生み出されるゲームやアニメ漫画をそのまま楽しめたらそれで充分なのだと思います。オタクとか以前に、世界観の深堀が…とか言って固執すること自体、誰からもあまり求められてない。自分の世界に浸ることができる人なら良いと思いますが、SNSの存在が邪魔してそうなり切れない人も多いでしょう。
その点Vtuberの存在は、中身の人間が流動性に合わせて打ち出すコンテンツを変えて行けるからこそ今時のオタク活動とマッチしていて親近感もわき合理的だと感心するばかりです。投げ銭が流行るのも納得で、すぐに皆が興味失う作品のグッズ買うより満足度高いです。Vtuber本人に対しても周囲に対しても自己顕示欲が満たせるんですから

こうして私は恋愛市場に負け、アイドルにもVtuberにも興味を持つ機会を逃し、今なお古の東方Vocalを聞きながらオタクリフレインを繰り返す化け物になってしまったのです。

おわりに

本当に本心ですけどオタクコンテンツ全般叩いているつもりは全くなくて、私が理解できる範疇で流行したことの考察を綴っています。オタクとしてコンテンツにはまると愛とか恋とか色々あるので、ここまでの表現が現代のオタクたる皆さんの目にはひどく攻撃的に映る可能性はありますが、そこはどうかバカなオタクもどきの戯言としてご了承いただけますと幸いです。
長くなりましたが、ご高覧下さり誠にありがとうございました。

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