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#やさしい医療 の世界に寄せて ⑤ ただ滝に打たれていた気がする

8月23日、やさしい医療の世界、という一つのイベントが行われました。

上記がそのプログラムです。全部で7時間の長丁場。一部録画はあるものの、基本はライブ。それも中継あり。でも普段からいろいろと考えることも多かったこの話題、一日しっかり拝聴しました。その時に考えたあれこれです。

前回4コマ目の話はこちら

5コマ目 医療と和尚の、あうんの呼吸。

まず、ス・まとめさんはこちら

それから、たらればさんもTwitterにて、まとめTweetをしてくださっていました(このツイートからスレッドでご覧ください)

ということで、始まりました。が……声が……高野山と札幌が、繋がってない~~。お姿は見えますが、……。……。ヤンデル先生は頑張って話している……ぞ? でも……何も聞こえない。飛鷹和尚は、声も届いてないのかな?

ということで、プチパニックから始まった放送となりました。っていうか、一番最初は「あ、たらればさんだ。たらればさんも顔出しだ。そして……本当に声がハスキーだな」という感想でした(こんなことをぼんやり考えているとトラブルが発覚して、それどころじゃなくなった)

で、おおまかな流れというか、それを書いて行くとキリないので、例によって「私が見て、感じて、記録した物」を中心に思ったことだけ書きます。

宗教の死の取り扱い

私は、移植前一年くらい、宗教的なものからは、意識して距離を置いていました。あ、もちろん宗教=死と思っているわけではないのですが、自分のスタンスとして「多分、人って考えてる物に寄っていくんだよな。だから『悪い方に考えないようにしよう』とか『弱気にならないようにしよう』って思うと、悪い方とか、弱気な方に寄っていく気がする。だから、それはもう、好奇心に駆られても、とりあえず、見ない聞かない、考えないことにしよう」と思ってたんです。

もちろん、辛いことや苦しいことや、結果によっては命にかかわることになるかも知れないんですが、その時は「仕方ない」と考えて向き合うけど、そうなる前からあれこれそういうことを考えるのはやめておこう、と。

それは宗教だけでなく、闘病に関することとか、人が死ぬ話題とか、そういう「今の自分が近寄ったら、吸い寄せられてしまうかも知れないことすべて」に対して、予防線を張っていました。
あ、これ泣くな、という小説も禁止(十二国記だけは読んじゃいましたが)、深い宗教とか倫理観とかも、とりあえず考えるの禁止。動物出てくるやつも、ほんわか癒し系はいいけど、自然の厳しさとか、親子の愛情とか、そういうの禁止。なんとなく、伝わりますでしょうか。

そんな状態の私は、仏教だけではなく、哲学とか、他の方の闘病記とかも、結構避けていたんです。

で、年明けからようやく「あ、大丈夫な気がする……」となってきて、そういうものに触れることを禁止しなくなったのは、退院して結構経ったころ(それこそ、コロナで外出できなくなってからかも?)でした。

滝に打たれる

そういう中での、今回のセッション。私としても、少し怖く、そして楽しみなコマでもありました。

一番最初にガツンと殴られたのは、おかざき先生の「分からない所を掘っていくようにしている」という言葉。それってしんどくないのかな。っていうか、その覚悟でこの本に取り組んでおられるのだな、とそういう所がスタート。

そこから、飛鷹和尚の「人と言うのは自分の死は分からない、他人の死で『死』というものを知る」という所ぐらいで、2発目直撃、その後、札幌がつながってからの「医者にとって『死』とは前縁の向こうにあるもの」というヤンデル先生の言葉で3発目。

さらにおかざき先生からの「慈悲」の言葉が出た辺りで、もう頭はぐるんぐるんで、なんだろう、最初は波にあっという間にさらわれて流された感じだったのが、気づくと山の中の滝で茫々と打たれてたみたいな感じになってました(語彙限界)

今、この文章を書くにあたり、上でもご紹介しているス・まとめさんとかを参照しながら、自分のノートを読み返しながら書いているんですが、読み返すほどに「で?」みたいな感じになる。多すぎるし、重すぎる。分からなすぎる。ただ、すごかった。っていうか、すごいものを見せていただいたんだな、という実感しか残ってない。

慈悲と受け手

で、そんな中、この冠(やさしい医療)の話題に最後すごい勢いで収束していくわけですが、それはこの慈悲の話のことだろうな。
この話題は、おかざき先生から、飛鷹和尚への問い、という形で投げかけられました。「慈悲、というものがよく分からない。しかも成立しない、ということがあると聞いた。これはなんでしょう?」

慈悲というのは受け手がちゃんと受けないと成立しない、らしい。そうなんだ。慈悲という言葉は、まぁ普通に聞くけど、あまりちゃんと理解できておらず、自分では使えない言葉のような気がするなぁと思いながら聞いていました。

慈悲って、……私の印象ですけど、対になる動詞って「施す」だと思ってたんですが、違ったのかな。いや、そもそも「施す」っていうことの意味が違うのかな、とかそんなことを考え。
でもこの「施す」という動詞は多分一度も出なかったので、そもそも慈悲は施すものではないのかも知れない(不勉強ですね)

医療って、慈悲を施すこと、なんだろうか。それがやさしい医療なんだろうか。そうじゃないよね、だから「受け取る」側の話にもなり、相互の話になり、コミュニケーションの話になり、……いや、そもそもなんの話なんだろう? 絶対に関係あるのに、単純明快でなく何か「もやっと」する複雑な何か。そういうものを感じていました。

で、自分のノートに書いてるんですが、そこでヤンデル先生が何かを言った……はずなんです、私にとって、とても重要なキーワードになるような何か。でも、それがノートに「あ、今の、あれ、なんだっけ、聞き洩らしたけど何か大事なこと……!」としか残ってない。上のス・まとめさんにもなかったので、なんだったんだろう?

ここらへんは、アーカイブ公開されたら、あらためて追記するかも知れません(そしてもちろん、永遠の謎のままになる可能性もある)

やさしい医療と、やさしくない医療の話。なんかつながってきた……かな? という所で、この流れを持って、次は医者と患者の話の2。矢方さんの話からフェムテックに、という流れもすごかったけど、この哲学的な話題から、幡野さん&鴨さんVS(?)ほむほむ先生、ヤンデル先生、という「医者と患者の話」に行く、というシナリオもすごいな、と今あらためて感じます。

ということで、5コマ目は終了しました。ちょっと、色々なことが酸欠になったような時間でした。

本日もお読みいただきましてありがとうございます。




ここまで読んでいただき、ありがとうございました。お役に立ちましたら幸いです。 *家飲みを、もっと美味しく簡単に*