#やさしい医療 の世界に寄せて ②

8月23日(日)、一つの医療に関するイベントがありました。

計7時間のライブ。このイベントに関するライブを見るまで、YouTubeすら登録のみでろくに見たことのなかった私が、7時間、PCの前で釘付けになって見てました。

その、7時間の話と、それを見ながら考えたことを備忘的にまとめて行こうと思い、この記事を書くことにした……までは良かったけど、なんせすごく濃いお話が多く、さらに抽象的な概念なんかも沢山だし……

本当はブログの方に書こうかなとおもったのだけど、すごい文字数になりそうなこと、となるとマガジンにまとめた方がよいかな、ということで、こちらのnoteに書くことにしました。

私の手元にノート取ったこと、およびその後思い出しながら考えたことなどの話ですし、今、アーカイブがないので、正確性は担保できません。また、イベントの全体のまとめとしてはとてもすごい(他に表現を思いつかない)文章があがっていたのでご紹介します(他にも見つけたら随時リンクします)

前回の記事はこちら

無料の裏側からやさしさの多様性、そして教育へ

さて、この記事からは、割と中身の話に移っていきたいと思います。

無料の裏側、といういきなり切り込み隊長みたいなほむほむ先生のお話。今、世の中はインフォデミックという言葉があるよね、とかそういうこと。

情報のレイヤーが多層化してるとはたして何が正しいのか、正しくないのか分かりにくい。そんな話があったような……気がします。その中でヤンデル先生が言われたのが「やさしさ」というのはそもそも「多様性」がある。ということ。

それは「やさしさ」というのは「人によって違う」ということで、やさしさという時にそれは画一的なものでなく、多様性のあるものではないのか、という話でした。

なお、ヤンデル先生がご自身がリアルタイムで感じられたことなどをまとめられている記事がこちら

すごく、すごくゾクゾクする文章です。これがヤンデル先生の文章なんだよ~~~(すでに言い方がミーハー)

上で紹介した文章とか、このヤンデル先生の文章とか、たらればさん(後で出てきますが、今回の登壇者のお一人です)のTwitterでのまとめとか見たら、もう私書かなくていいかな、という気になるんだけど、自己満足のためと、のちの自分が思い出すために、自分が見て感じて思ったことは自分にしか書けないし、と思って書いて行きます。

たらればさんのTwitter(まとめ連ツイ)はここから

博物館的に並べる

ヤンデル先生は以前から、情報は「博物館的にならべる」ことがいいんじゃないか、というようなことをずっと言っておられたと思うのだけど、この「多様性」というキーワードで、それのことかなぁと思いだしたり。

博物館は、そもそもが「その博物館のコンセプト」とさらに「学芸員のキュレーション」によって「絞り込まれた」ものにはなっているんですよ、なんでもかんでも並んでいるような気がするかも知れないけれど。

で、そこにさらに私たちが行った時、ですね、私たちの脳で「さらに」絞り込み、絞り込まれたその先に「その博物館」の最終形が出来るのではないかな、と思っているんです。だって行った博物館の「全部」を覚えてないですよね? せいぜい半分くらいも詳細に思い出せたら、それはかなりすごい情報量ではないですか?

でも、例えば半分しか覚えてないんだから、その博物館を見に行ったことは無駄か、というとそうじゃない。むしろその「自分が何を覚えているか」が重要なことだったりする……ような気がします。

という意味では「やさしい医療」は一人一人違うし、違って当たり前だし、それ自体は悪いことでも悲観することでもない、という所に行きつく。……趣旨は合ってると思う。そして、だから私は「お医者様の信頼」にこだわるのだな、と気づく。

私は自分でも自分の病気やその周辺や、あるいは流行りの感染症などの情報を拾い集める質の人間で。診察の時はその「拾い集めたがらくた」を先生に「これはどうですか」「これってなんでしょう?」と(願わくばあまりご負担にならない程度に)確認し、先生から「それは意味ない」「分かってない」「あ、そうですね」「気にしなくていい」などと色々判断してもらっては、不要なゴミを捨て、その一方、空いた箱の隙間に「今回の検査結果」とか「先生から説明のあった今後の治療方針」とかを入れて帰ってきているような気がするのです。

その「箱」が私にとっての「博物館」になっている。もちろん、それは私だけの。キュレーターは主治医です。

この時の先生のジャッジを信じられなかったら、私は不要なごみを捨てられず、あっというまに私の箱はいっぱいになってしまうと思うのです。

コミュニケーションは一つのスキル

で、……けいゆう先生だったかなぁ、一応ね、教育はあるんですよ、とかいう話が出たのは。そこから、緊張しっぱなしの京都組に話題が振られて、大塚先生が「(自分は)そういうのが始まった、本当に最初の方で、まずは自己紹介から、とかそういうレベルで」

「そうなんだ」っていう、なんだろう、あれは多分、鴨さんにも、見ている人にも「えー」「へー」っていう、不思議などよめきがあった。
「あるんだ」「なかったんだ」みたいな感じだったのかな? 私は多分、誰かの本でちょうどその位(2000年代に入って少ししてからそういうのが始まった)みたいなことを見た覚えがあり、うんうん、と思って聞いてたら。

「自己紹介、お願いします。やってみてくださいよ」って鴨さんが振った。

「え? ここで? 今?」

大塚先生が、困っている。戸惑っている。えー。うそー。っていうか、世代によってそういうのって出来る出来ないの差があるんじゃないの、っていう時、私はこの4人の先生は「出来る側」だと思ってたよ。出来ないのって、今の50代以上の先生とか、そういう意味かなと思ってたよ。

……そして、やっぱり大塚先生は、とてもやりにくそうだった。

「今の、若い先生は、本当に、当たり前に出来るよね」
「そうですね、研修医の時とかにすごくそれを教えられてると思う」
みたいな会話を聞いた気がする。
でも、私の今の主治医(大塚先生よりは年上)、変わってすぐの時に、きちんと自己紹介された気がする。決して、ながながとではなかったけれど、その前の先生も(もっと年上)

やっぱり、組織とか、どういうルートでどういう仕事をしてきたっていうのは関係あるんだな、と思った一件だった。けいゆう先生とほむほむ先生はむしろ、大塚先生のやりにくそうな感じが「えー、そう?」みたいな感じの気がしたし。ヤンデル先生は……あれ? たしか「患者さんとそういう風に会うことはないので」ってやりにくそう気味だったかな?

この部分を見て思ったのは、世代差はあるのかも知れないけど、それ以上にやっぱり「環境」なんだな、ということ。逆に「あいさつもない」(ぷんぷん(-"-))ではもったいないこともあるんだろうな、ということ。
でも、あいさつがない、ということでは判断しちゃいけないってことであれば、ますます「ちゃんと時間をかけてコミュニケーションすること」が大事ってことで、話はまた戻ってしまうことになるのであった。

ということで、まずはようやく1時間分が終わり。明日は2コマ目、シャープさんとタニタさんのお話を頑張って更新します。




ここまで読んでいただき、ありがとうございました。お役に立ちましたら幸いです。 *家飲みを、もっと美味しく簡単に*