負け戦こそ意味がある?諸行無常の虚しさを超越する砂曼荼羅
陰謀論とか言われているあたりの情報を探っていると、あまりにも敵が巨悪すぎて、絶望しがちです。
それで、「あーどうせだめなら、何もかもやる気しないなー」なんて思っていました。
またどうせ奪われる。どうせ負ける。意味ない。無気力。だらー。
・・・そう思っていました。が、そんなわたしに砂絵が真理を教えてくれました。
砂絵をWikipediaで調べるとこう書いてあります。
チベット密教では、瞑想を行いながら曼荼羅(砂曼荼羅)を描くという修行が存在する。 土の上に金属の漏斗を使用して着色した石英の粉を少しずつ撒き、曼荼羅を描く。完成した曼荼羅は一定の手順に従って壊し(破檀)、使用した砂を川に流す。作成から川に流すことまでが修行とされている。
作成から川に流すことまでが修行。川に流すのに大変な思いして作るんですね。
たしかに、人間は死ぬのに生きています(笑)生きるの大変なのに。
わたしの、「負けるってわかってたら闘う気しないなー」というのは、
「死ぬってわかってたら生きる気しないなー」っていうのとおなじことなんですね(笑)
でも意外とみんな、自分が死ぬってことわかっていないですよね・・・死ぬのが怖すぎて、生きた証を残そうと必死な人も多いですね。特に10代のころのわたしがそうでした。
生きた証なんて残りません(笑)せいぜい数年間、数十年間、めっちゃ偉い人なら数百年くらいは残るかもしれません。でも数万年もしたらそんなもの残らないでしょう。
そう思うと、何も残らないってわかってるのに生きるのがだるくなりますねwww
でも砂絵なんだなと思うと、そのプロセス自体が素晴らしいというか、「残すこと」ではなく、行為そのものが目的であることが重要なことがわかります。
(だからブログも書く気になりました。書いた途端からデータが飛んでもたぶん平気ですww)
わたしが、「どうせ奪われる」と思ってしまうのは過去世の経験によるところもあります。
大事に守ってきた村が、心を開いた人たちに裏切られ侵略され、虐殺され、許せない気持ちが激しくありました。
それでも・・・奪われる悲しみがあっても、守りたいから守るんだ。今守れるならそれでいい。奪われることは許す。そう思えるようになりました。守ること、許すこと、生きること自体によろこびがあります。
やっぱり絶望はしてしまいますけどね・・・そんな人間的な自分も好きです(笑)
うつろい・変化(奪われる悲しみも含む)を拒絶しないと、絶望こそしていても恐れがないので、わたし自身はとても心地が良いです(愛・受け入れの感覚)。
・・・わたしは良いのですが、人から見ると諦めているように見える(ネガティブな未来に自ら進んでいるように見える?)らしく、心配されてしまうので、そこが今のところの課題です。難しいですね。
読んでくださってありがとうございます^^
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