(フィクション手記)さらば『NHKから国民を守る党』。さらば立花孝志。あまりにも短かった狂熱への鎮魂歌

■ 第25回参議院議員通常選挙

2019年7月21日。例年に比べ長引いていた梅雨の中休みと言えるような暑い日だったと記憶する。

国政選挙のある日、私は必ず日本初のインターネットでの生放送ニューズ番組であり、私がプロデューサー兼アンカーを務める『ニューズ・オプエド』のスタジオがある芝公園で、これも私が代表取締役を務める『株式会社NO BORDER』の40名を超えるスタッフと一緒に各地上波メディアから流れる選挙結果を眺めながらその結果を分析することを常としている。半年以上も昔のことであり、本テーマから外れるため詳細な選挙分析をここに記すことは避けるが、立憲民主党の枝野幸男代表の致命的な戦略ミスにより、数々の安倍晋三首相の疑惑や失策の影響で勢いを無くしていた自民党が改選前から9議席を減らすだけに留まり、公明党に至っては3議席を増やしたため与党全体では過半数を大きく超える71議席を獲得した。明らかに勝てた選挙を前に、決してカリスマ性を持たないながらも分析力および戦略立案力に長けていると言われている枝野代表が何を失敗したのかについては別の機会に発表を予定しており、読者諸氏においてはしばしお待ちいただくことをお許し願いたい。

この立憲民主党をはじめとする野党の戦略ミスにより近年稀に見るほど盛り上がりに欠けた参議院議員選挙の総括を終えた私は、事後処理をスタッフに任せ帰路についた。自宅でシャワーを浴びた後、各放送局が流す選挙速報を再度確認し終えたのは、午前2時を優に超えていた。

翌朝起きると、私の携帯に同じ番号からの複数の履歴が残っていた。その数は10回を軽く超える数であった。履歴に残された番号は前日の参議院議員選挙の比例区で最後に残った一議席を獲得した『NHKから国民を守る党』の党首である立花孝志氏からであった。新聞各紙の参議院議員選挙報道に目を通しながらコーヒーだけの朝食を終えた私は携帯番号の履歴画面の中から立花の番号をタップしながら、彼と私のこれまでの関係の歴史を思い出していた。

ここで時計の針を15年ほど戻すことを許していただきたい。

立花と私は、彼がNHKの不正経理を内部告発した2005年からの関係である。当時彼は週刊文春に唆され、NHK会長であった海老沢勝二氏の下で行われた数々の不正を内部告発という形で発表し大きな話題となっていた。それら不正は立花自身が泥を被る形で手を染めていたため、最終的には立花が不正経理で懲戒処分を受ける形でNHKを退職している。日本唯一の公共放送局であるNHKの不正は世間の注目を集め、週刊文春は複週間にわたるキャンペーンを打ち発行部数を大幅に伸ばしていた。その間、立花は週刊文春に匿われる形で都内のホテルに大切な情報提供者として缶詰にされ、家族をも含んだ外部との接触の一切を断たされたという。

しかし大衆というのは残酷である。新しい刺激を求め続け、過去の情報がどれほど社会的に意義のあるものであっても、一度飽きてしまえば捨てられてしまう。間もなくNHKの告発キャンペーン記事だけでは週刊文春の発行部数を伸ばすことが出来なくなり、読者から新規性の無いニューズと受け止められ、読み飛ばされるようになってしまうのは思った以上に短かった。

NHKの内状情報の提供者としての商品価値の無くなった立花は週刊文春から簡単に切り捨てられる。出版社が用意したホテルから追い立てられた。かと言って裏切り者の誹りを受けた立花は自宅にも、ましてや職場にも戻ることを許されるはずが無かった。そんなときにNHKの先輩であり、当時フリージャーナリストとして国政を中心に活躍していた私上杉隆にコンタクトしてきたのである。

ニューヨークタイムスでの取材記者の経験のある私にとって、立花のこの内部告発は決して裏切りではなく、むしろ賞賛されるべき行動であることを彼に伝え、精神的かつ金銭的なサポートを約束した。この一件以来、四面楚歌により精神的に疲弊していた彼は一方的に私を慕うようになった。事ある毎に「上杉隆さんの弟子の立花孝志です。」と自己紹介をするようにまでになったのである。

私にとっても立花は、社会人としてのスタート地点をNHKという日本で唯一の公共放送でありながら、決して国営メディアではないという、捻れた空間を古巣とする同窓として親近感を持っていたのは事実である。

話を参議院議員選挙の翌日に戻そう。

数年ぶりに聞いた立花の声は疲れていた。その疲れは寝不足というよりも国政という初めての局面に直面し、改めて途方に暮れ不安に苛まれているように感じ取られた。そう、隠していた悪戯がばれた子供がその悪戯を教師に謝罪するような。その声音を聞いたとき、即座に彼は私に助けを求めていると理解した。そして私からお祝いも兼ねて会うことを提案したら「直ぐに会いたい」と面談を申し込まれた。

当時、『株式会社NO BORDER』の代表取締役であり40名超のスタッフを抱えていた私は分単位、いや秒単位の生活を送っており、10月までの予定が隙間無く埋まっていた。しかし、スマートフォンを通じて聞こえる彼の声音に強い不安を覚えた私はその日の夜に彼と会う約束をした。夕食会その他の約束を急遽キャンセルしてしまった諸氏にはこの場を借りて謝罪したい。

待ち合わせ場所に定刻通りに着くと、彼は既に到着し落ち着かない様子で店の隅に座って待っていた。入口から入ってきた私を目敏く見かけた立花は即座に立ち上がり、「上杉先生!」と決して狭くない店中に響き渡るほどの大声を発しながら私に近づき握手を求めてきた。私は衆目を集めるのは好まない。しかし立花は、そんな私にはお構いなしに「上杉先生の御陰で参議院議員になることができました」と大声で続け、大きな体を何度も折曲げ私に感謝の意を表し続けた。興奮状態の彼に祝辞だけ伝えその場を後にしようとした私の背中に、直前までの興奮状態とは程遠いか細い声で「これから私はどうしたら良いのでしょう?」と相談してきたのである。虚を突かれた私が振り向くと「助けてください」と頭を垂れているではないか。私は少なからず驚愕した。頭を下げ続けている立花の後頭部はNHKの不正経理を内部告発した頃の、週刊文春から捨てられながらもホテルから一歩も出られず震えていた15年前の立花と重なって見えたのだ。

私は彼の正面に座り改めて祝辞を述べた。落ち着きを取り戻した立花は前日まで続いた参議院議員選挙のN国党の戦略を立て板に水の如く話し始めた。その内容のほとんどは財務の話であり、党運営についてが少し、政策や立法については一切の言及が無かった。興に乗ってきた立花の長い話を聞きながら私は参議院議員としての彼の将来に強い不安を覚えた。国会議員として最も重要な政策立案や立法について全くの素人であり、N国党内にそれらをサポートできる人間が皆無なのである。国会には外から見るだけでは知ることが出来ない細かな作法が多数存在しており、新人議員の一年目はそれを覚えるだけで終了してしまうといっても過言では無い。それら作法を踏み外すと簡単に足下をすくわれる。小さなミスを炙り出し、そのミスをまるで大きな責任問題として追及することで、あわよくば自分がその席に着こうとする輩が跳梁跋扈する世界である。故鳩山邦夫氏の政策秘書から始まりニューヨークタイムスでの取材記者、フリージャーナリストとして約30年の政界経験を持つ私にとって極めて基本的なことを幾つか彼に伝えた。そしてまずは政界の経験が長い参謀役、長期的な展望を描ける戦略家、そしてそれを強靱な意志で完遂できる実践者が必要であることを彼に進言した。真摯に私の話を聞いていた立花はその日何度目となるだろうか、頭を垂れた。そして、「『NHKから国民を守る党』の幹事長になってください」とお願いしてきたのだった。

私は縮こまりながら頭を垂れている立花孝志を眺めながら、劉備玄徳に三度居を訪ねられた諸葛亮孔明ではないが、経験が足りないながらも情熱溢れる一介の政治家の成長を支援することこそが、政界に30年以上係わってきた私が出来る恩返しになるのではないかと考えていた。

正直に言おう、待ち合わせ場所に向かう車の中でこの立花の申し出を予想していた。しかし私は政党政治に僅かな魅力も有していない。また今年に予定されている都知事選挙を見据えていた私はこの申し出には断固として拒否しようと考えていたのである。しかし、このまま立花が参議院議員として議会に踏み込んだら最後、四面楚歌になることは火を見るよりも明らかであった。それは、まさにNHKの不正経理を内部告発したことで、職場からは裏切り者の誹りを受け、家族からは見捨てられ、週刊文春からも捨てられた頃の写し絵となろうことを。

そう考えた私は党員全員が国政経験を持たない新しい公党である『NHKから国民を守る党』の教育係として幹事長を受け入れることを了承したのであった。

ここで明らかにしておきたいのは、当初私は幹事長としての給与の受け取りは断固として拒否したことである。そんな私に対して、どうしても受け取って欲しいと立花は譲らなかった。翌2020年に都知事選が控えており、四年前の都知事選挙においてやはり立候補していた立花の得票数の約7倍の得票数を得た私が、再び都知事選出馬を理由に党から短い期間で去られることに彼が畏怖していると理解した私は、コンサルティング料として月額100万円を私が代表取締役をしていた『株式会社NO BORDER』が受け取ることを了承したのである。それを聞いた立花は「やっと安心して寝られる」と参院選開始から初めてであろう安堵の表情を浮かべ、一口も手を付けず冷め切った紅茶を一気に飲み干した。

幹事長の給料として月額100万円は決して高額ではない。むしろ私の30年を超える政界経験から鑑みるに、安すぎではないかと、この金額を聞いたほぼ全ての政治家や政界関係者に呆れられる次第であった。しかしだからこそ、多くの方々が私の政治に対するフェアで誠実なスタンスに感心を寄せてくれたのも事実である。「上杉さんらしい」と半分の呆れと半分の尊敬で言われたものだ。

N国党幹事長に就任した私が最初に行ったことは、『株式会社NO BORDER』の代表取締役を辞することであった。2012年に設立し、2014年から一日も休むこと無く無料放送を続けていた『ニューズ・オプエド』から遠ざかることは決して簡単なことでは無かったが、日本の政治史上初めての民間人による幹事長として、フェアで透明性高く、強固な責任を全うする決意であった。そして、これは政治を達観し諦めを感じている若者や将来政治を志すかも知れない子供達の指針となるべく取った行動なのである。


■上杉先生から上杉君、そして上杉に

『NHKから国民を守る党』幹事長としての初仕事は新会派の結成であった。否、正直には立花に会派と党の違いをレクチャーすることであった。賢明な読者はご存知のとおり会派は2名以上でなければ組むことが出来ない。つまり公認党員が一人しかいないN国党だけで会派を組むことは出来ないのである。会派に属していなければ、各種委員会で質問時間が割り当てられない。これは国会議員としての活動が出来ないことと同意であると言っても過言では無かろう。

民主主義のひとつのしかし大きな特徴である数の重要性を直感的に理解していた立花は、参議院議員選挙以前から問題を起こした現役国会議員および国会議員経験者に向けて、N国党入党のラブコールを送り続けていた。それは国後島で戦争を肯定する発言により当然のバッシングを受けた丸山穂高衆議院議員(当時)を始め、第一秘書への暴力により自民党を離党し、平成29年第48回衆議院議員総選挙にて落選し現在も在野に下っている豊田真由子元衆議院議員などである。驚くべきことに、当時現役だった丸山穂高衆議院議員に対しては、丸山議員がN国党に所属することにより得られる政党助成金の全額を引き渡す約束をした。これがN国党のキャッシュアウトの複数ある原因のひとつとなった。NHKでは経理を担当し海老沢勝二元会長の裏金づくりのに暗躍、果てには数学の天才を自称する立花の首を絞めることになるのだが、それは次節以降に詳らかにしよう。

立花と会派を同じくすることに抵抗感を持たない参議院議員として、まず思い浮かんだのが渡辺喜美議員である。渡辺喜美議員も『おおさか維新の会(現・日本維新の会)』を飛び出した後、無所属として単独で戦っていたのである。二世議員特有の大らかさと日本の将来への明確なビジョン、強いリーダーシップを合わせ持つ渡辺喜美議員のことを私は、彼が御尊父である故渡辺美智雄衆銀議員の主席秘書を務めていた頃から敬愛を込めて「喜美さん」と呼んでいた。彼も一廻り以上年下である私を「上杉君」と呼び可愛がってくれ、議員会館の廊下ですれ違った時などはどんなに急いだ様子であっても、彼は足を止めお互いの近況を報告しあった。喜美さんはフリーのジャーナリストでありながら政界に多くの情報源を有する私が持っている情報だけでなく、深い知見というフィルターを通した洞察を欲しがったのだった。60分を超えるほど長時間も議論したことも少なく無い。

私からの電話に喜美さんは必ず2コール以内に出てくれる。挨拶をそこそこにN国党幹事長を依頼され就任したことを報告した。その電話で私は、お会いして立花党首を紹介させていただきたいことを打診した。その日の夕方に地元茨城に戻る予定をされていた喜美さんは、それら予定をキャンセルし、海の者とも山の者とも分からないN国党のために時間を割いてくれることを快諾してくれた。

他にも幹事長就任の初日に、ホリエモンこと堀江貴文氏(元ライブドア社長)と玉木雄一郎国民民主党代表との対談を矢継ぎ早に取り付けた。加えて安倍晋三総理大臣をはじめ、二階俊博自民党幹事長(当時)、山本太郎れいわ新選組代表や枝野幸男立憲民主党代表に立花代表との対談を申し込んだ。しかしながら、立花の後ろに控えている参謀役の私への警戒心を強く持った彼等全員から拒否されてしまった。山本太郎氏からは回答さえ受け取っておらず、その後機会がある度に対談の依頼を『ニューズ・オプエド』やYouTubeで依頼しているのだが、梨の礫とはよく言ったのものである。

立花にとって喜美さんとの対談は散々なものであった。立花は私と喜美さんとの間で早口で取り交わされる会話の内容を理解することが出来ず、二人の顔を交互に見つめながら黙って頷くのが精一杯であった。約束の時間が終わりに近付いて来た。気遣いに長ける喜美さんが立花に意見を求めると「お二人の会話を全く理解が出来ません」と発言したのであった。正直私は背中に寒いものを感じ頭を抱えたのだが、喜美さんは「正直だねぇ」といたく感心した素振りを見せ大笑いした。

立花に幾ばくかの期待した私が間違いだった。恐る恐る私から会派の結成を提案すると決断の早い喜美さんは「是非やろう!」と二つ返事で答えてくれたのである。今から思えば、政界ド素人であり政治知識の薄い立花を組み易しと見切っていたのかも知れない。否、今となってはそう確信している。会派名は、何らの政治的思想を持たない立花がアイディアを持つはずもなく『みんなの党』に決まった。これは私と喜美さんのどちらからともなく出たアイディアであった。NHK以外に具体的な政策を持たない立花は、この会派名を何ら抵抗なく受け入れるしかなかった。

そうとなれば新会派結成の記者会見である。これも私が全てを取り仕切った。ド素人集団のN国党スタッフに基礎的なことから指示を出さなければならない。その日の夜のニュースに間に合わせるべく臨時の記者会見を設定し、新会派『みんなの党』の結成を発表したのである。これが大きな反響を生んだことは読者の記憶にも新しいと思う。

この新会派結成のニュースは、N国党の天敵であるNHKを始めとする全メディアを大々的に駆け巡った。今から考えるとこの新会派結成への注目の大きさが、立花の勘違いを増大させ暴走を促しN国党を崩壊させる最初の亀裂に違いなかった。日本の政治は永田町に位置する国会だけでは成立しない。それに霞ヶ関にある各省庁の思惑が重力となり複雑に絡み合い微妙なバランスを保ちながら成り立っているのである。さらに記者クラブという官報をそのまま流すことで権力に寄り添いながら既得権益を守ることを支援し、それにより自分たちの既得権益をも守護するという鵺のような生態系の構造を持っている。ニューヨークタイムスでメディアと権力はお互い尊重しながら独立すべきであるという当たり前である基礎を叩き込まれた私から見ると考えられない。ニューヨークから東京支局に着任する外国人記者にこの事実を説明し理解させる苦労を何度したことだろう。

その夜の各社が報じる新会派設立ニューズを見た立花は狂喜乱舞した。どのニューズも国政の長い経験を持つ渡辺喜美議員よりも立花の名を大きく報じていたのだ。翌朝、参議院議員会館×××号室の立花の部屋に入ると既に立花とN国党スタッフが登庁していた。昨日の喜美さんとの会談で小さくなっていた姿はこれっぽっちも見せず、彼を取り囲むのスタッフに新会派『みんなの党』がまるで自分が考え出したかのように自信満々かつ、いつも以上の大声で捲し立てていた。お気に入りの黒と水色のゲーミングチェアに踏ん反り返りながら。N国党スタッフは地方議員やボランティアスタッフばかりである。彼等は目を輝かせんばかりに立花の話に聞き入っている。立花も常々言っているとおりN国党の地方議員はポンコツばかりだ。そのポンコツぶりについては、筆が進まないのだが誌面が許すならば次節以降に紹介することとしたい。

立花から話される新会派『みんなの党』の結成の自慢話は、全て私上杉が計画し実行したものに違いなかった。入口に立ち冷めた気持ちで立花が話す主役が入れ替わった自慢話を聞いていた私は、彼の話が途切れるのを見計らい「党首、おはようございます。昨日はお疲れ様でした。」と挨拶した。人間的にも能力的もその資格を持つとは言い難いのだが、一応は公党の党首である。党首である以上は幹事長の上司として位置付けられる。

私から挨拶された立花は、つい今まで自分の話が嘘だということを唯一把握している私から目を逸らし、「上杉君、昨日は有り難うね。」と発した。ポンコツばかりのN国党スタッフを前に、些細なほんの些細な威厳に傷が付くことを恐れたのである。それは全てのシナリオを書き上げ、その実現を成功させた私がまるで立花の従者であるかのような態度であった。それは見る人が見れば、それは極薄な膜に覆われた触れるだけで簡単に破けてしまうような軽薄なプライドだと気付くはずである。残念ながらN国党は党首の立花を筆頭にポンコツしか存在しない。さすがは立花さんという驚嘆と感嘆が参議院議員会館×××号室を覆ったのであった。

2016年に得度をしてから私は他人の成功を横取りするような人間に何の感情も持たなくなっている。そのような体験を多く経験し慣れきってしまったと言えるかも知れない。そういった人間には、寧ろ一種の哀れみを持って接するようになった。今回の立花のこの行為も記すつもりは無かったが、彼の狭量で猜疑心で満たされてしまった心を表すひとつの例として、気が乗らないながらも紹介しているに過ぎない。

この日以来、立花は私のことを「上杉君」と呼ぶようになった。私は他者からのどう呼ばれようと気にならない。そのような小さな事柄に拘らない性格である。しかし、つい前日まで「上杉先生、上杉先生」と参議院会館の中を圧倒的な速度で歩く私の後ろを、縮こまりながら付いてくるだけが精一杯であった立花のこの態度の急変こそ、彼の矮小な性格と歪んだコンプレックスを満たすための虚栄を張り、そして肥大した自尊心を表している好例ではないだろうか。

そんな立花が私を「上杉」と呼び捨てするまでにはそれほど時間が掛からなかった。

MXテレビの帯番組『5時に夢中!』の月曜コメンテーターのマツコ・デラックスが番組内の発言「ふざけて(投票を)入れている人も相当数いるんだろうなとは思う。(略)。ちょっと気持ち悪い。でも結局、こうやって(視聴者も)楽しんで見ちゃってる側面もあって、こうやって騒いでる時点で、彼らの思うツボなのではないか。」という発言に噛み付いたのであった。

この発言に怒り新党(震盪)した立花はYouTubeに反論動画を挙げた。「これは『NHKから国民を守る党』に投票してくれた100万人をバカにした発言だ。マツコ・デラックスへ謝罪を要求する。マツコが謝罪するまで追い掛け、講義を続ける。」と息巻いた。そして『5時に夢中!』の生放送中に、東京MXテレビの社屋の前での抗議活動を宣言したのである。

この発言を受け私は事後策を考えなければならない。幹事長として党首のこの発言を支援する姿勢を対外的に見せながら、裏ではこの言動を勇み足だと彼を直接諫めた。大徳は小怨を滅ぼす。人の上に立つ人間は、外野に批判されても泰然自若の心を持っていればよい。上杉隆犀(りゅうさい)という法名を持つ私は泰然自若という境地に常に立ち、敵対する個人や組織であっても尊敬の念を破棄したことは無い。立花にも私が持つ徳の及ばなくとも僅かでも持ち得ることを期待していた。

この立花のYouTube上でのマツコ・デラックスへの抗議活動が大きな反響を生んだ。2012年から始めた全ての動画のなかで最大の再生数を記録したのである。YouTubeの動画に挟まれる広告から得られる収入は再生数と比例する。当然広告収入も過去最大になった。これに気を良くした立花はマツコ・デラックスへの攻撃を一層強めた。マツコに言及すればするほど動画の再生数が増え広告収入も増える。国政に問うような政策や思想を持たない立花にとって、動画再生数と広告収入だけが国民からの目に見える支持であり、拠り所であったのだ。

しかし国会議員という権力者である立花がマツコ・デラックスという個人を攻撃する姿は、判官贔屓に陥りがちな日本国民から嫌悪されることはあっても決して支持されるものではない。立花の支持率低下を懸念した私は彼にマツコ・デラックスという個人を攻撃するのではなく、東京都をバックに持つ組織体である東京MXテレビおよびスポンサーへ攻撃対象をシフトすべきだと進言した。この時点ではまだ聞く耳を持っていた立花は、私の進言に従い次の動画のなかで東京MXテレビと『午後に夢中!』のスポンサーも攻撃対象に含めると宣言した。スポンサーの中からは最も認知度が高い崎陽軒をターゲットとして選択した。これはマツコ・デラックスの認知の高さこそが自身のYouTubeの再生数と広告収入を伸ばした、という立花の単純な分析に寄るものであった。

その日のうちに東京MXテレビに『NHKから国民を守る党』としての抗議書を、内容証明郵便で発送した。その内容は一方的な謝罪のみを要求するようなアンフェアなものではなく、『5時に夢中!』内でマツコ・デラックスとの対談を要求するというフェアなものであった。これはメディアが批判対象者に反論権を与えるオプエドと呼ばれ、私がニューヨークタイムスでの体験から得たメディアが持つべき世界標準のスタンスを示したのである。

対崎陽軒としては不買運動を促すという極めて簡単な対策を行った。不買運動を提唱する動画の中で、立花自身が崎陽軒のシュウマイのファンであり新幹線を利用する度にシュウマイを食していることを述べさせた。これは、決して崎陽軒が敵と言うわけでは無く反論権を用意しない東京MXテレビに向けた抗議である事を明確にさせるためである。これも私のアイディアを基にしている。

このように私の進言をもとに、巨兵ゴリアテに対峙する羊飼いダビデの如く、立花が一人で既得権益と戦う姿勢を分かり易くYouTube上でプレゼンテーションした。この演出戦略が功を奏し、8月のYouTubeからの広告収入は1,247万円を記録した。1,247万円を片手に狂喜乱舞する立花の姿が今でもYouTubeで観ることが出来ると思う。

ファイナンス面からもうひとつ8月から開始されたものがある。『NHKから国民を守る党』からコンサルティング料が、『株式会社NO BORDER』に始めて振り込まれたのも8月であった。この振込を前後して、立花は私を「上杉」と呼ぶようになったのだ。表では1,247万円を片手に太っ腹を装い、その実、100万円の金額をケチるというテキーラ用のショットグラス程の度量をも持ち得ない男の性を見せ付けられるようであった。この時点で既に私は立花への期待を全て捨て去った。

断じて表明するが得度の経た私は、呼び捨てられるという程度の小さな事で臍を曲げたり、相手との接し方を変えることは断じて無い。そのような相手には、寧ろ穏やかな水の流れのように接する。ただコンサルティング料の月額100万円は私の働きから鑑みるに安すぎるレベルであることは前述した。それは政策立案とド素人のN国党スタッフの教育の対価であり、そこには立花の接待費という費目は決して含まれていないことは明確にしておく必要があるだろう。

このマツコ・デラックスの一件で大金を入手し、軽薄な大衆からの人気と一部著名人にからのその珍奇さ故の賞賛を得た立花は、自身を天才と自画自賛し始めた。凡才が天才を自称し始める先には必ず崩壊が待っている。この自称天才立花の独り善がりは、N国党とそのスタッフを巻き込みながら、混迷と言う名の底無し沼に堕ちていくのであった。

■私の完璧な戦略の放棄と支離滅裂な立花の選挙方針

2019年7月の参議院選挙の直後に立花から懇願され渋々引き受たが幹事長だが、私はやるからには全力を尽くした。7月中から幹事長としての活動を始めていた私だが、正式には8月10日の臨時総会での承認をもって正式に就任の運びとなった。その場で選挙対策委員長(以下、選対委員長)の兼務も全員賛成により承認された。

30年以上前、第一秘書として仕えていた鳩山邦夫代議士に再三驚かれたが、私は仕事が速い。同月16日には記者会見を開き、次回の衆議院議員選挙の289小選挙区全てに候補者を擁立し、政権交代を目指すと発表した。これは私が考え立花が同意した選挙戦略である。このときのN国党の勢いを持ってすれば、11ある比例ブロックから3名もしくは4名の当選を獲得できたと今でも確信している。自民党のとあるベテラン議員からは「やめてくれ。」と懇願された。「それは選挙のことですか?私の幹事長就任のことですか?」ととぼけて問うと、彼は「両方だ」と沈痛な声で答え受話器を置いた。名前を出すことは出来ないが選挙に強いと評判の議員の彼でさえ、私のことを脅威に感じていることが手に取れた。この風を止めるわけにはいかない。即座に私は、丸山穂高衆銀議員(前)の副党首の就任、8月25日に投票が予定されていた埼玉知事選挙への浜田聡参議院議員(現)の立候補を矢継ぎ早に発表した。

最初の躓きはこの埼玉県知事選挙であった。立花は本選挙に、当選は無理でも10%の得票率は軽く超えるだろうと高を括っていた。しかし結果は惨憺たるもので得票率は僅か3.3%に留まった(獲得数は64,182票)。これに怖じけ付いた立花は当日に会見を持ち「(次回の衆議院議員選挙は)比例ブロックに1人ずつ出す」と発表。全小選挙区への擁立方針を撤回した。この発表は立花単独のものであり、選対委員長である私には一切の相談もなかった。立花が小心者であるが故の独裁による決定であった。

8月と9月にはいくつか地方議員選挙が行われたが、国政政党の幹事長である私が係わるべきものではない。国会議員たるべく薫陶を立花に教育すること、党としての記者会見への列席など忙しく過ぎ去った。そんな中、10月8日に驚きのニューズが駈け巡った。

「立花さんが辞任しました。」私が携帯に出るやいなや立花の第一秘書が息せき切っている。私が言葉を挟む余地もなく「10月27日の参議院埼玉県選出議員補欠選挙に出馬すると言ってます。」と続けた。余程のことでも私は驚いたりしない。ましてや激高することもない。常に冷静であることを、私がニューヨークタイムズに取材記者として勤務しているときに当時の東京支局長であったニコラス・クリストフから学んだ。過去に何度も世話をしてあげた者に裏切られてた私だが、裏切られる度に冷静沈着であることに「なぜ怒らないの?」と呆れられることがよくある。それでもよいのだ。私を裏切り批判した者も10年後かも20年後には、時代が私に追いつき、彼等も私の意図したことを気付くだろう。

立花の辞任を聞いて最初に頭に浮かんだのは喜美さんのことである。会派は2名以上の所属議員が必要であることは前述した。このままではせっかくの新会派『みんなの党』が会派としてなり得なくなる。立花の意思が硬いことを確認し即座に、iPhoneに登録されている喜美さんの電話番号に連絡を入れる。喜美さんは移動中であったが、2コールが終わる前に電話に出てくれた。私はことの経緯を説明した。時系列どおりに順を追って説明したが、具体的な会話の内容を思い出せない。冷静さを欠いていたのかも知れない。何はともあれ面会する約束を取り付けた。喜美さんが最後に言った「ありがとう。」は、N国党というド素人集団を纏め上げるという、私でなければ要請されても逃げ出すような幹事長職を勤め上げている私への労いの言葉だと受け取った。

その足で立花のいる参議院会館xxx号室に駆けつける。立花は三千万円を軽く超える年収を簡単に捨てる自分の自画自賛を続けている。その部屋にいた者の中で私だけが気付いていた。この辞任劇は如何なる時でも自分が注目されていないと気が済まない立花の気まぐれでしかない、と。

立花はすぐに記者会見で発表したい。目立ちたいのだ。記者会見の設定を私に指示してきた。その日のうちに記者会見をセットした。大手メディアも含め過去最大数の記者が会見場に集まり、入場を整理しなければならなくなった。幹事長である私の指導のもと、報道機関にフェアでオープンな姿勢を打ち出していたN国党はフリー・ジャーナリストやネットメディアだからというだけで記者会見場から追い出すようなことはしない。批判も多いかも知れないがN国党は幹事長の私のもと、グローバル基準のメディア対応を実行した日本で最初の公党なのだ。そんなN国党なので、少なくとも私が幹事長の頃に開かれた記者会見は活況を呈していた。この日、会見場からあぶれてしまう記者から「入れろ」、「入れない」で一悶着あった。ド素人のN国党スタッフだけの対応では混乱が増すだけで怒号も聞こえた。ここで私の指示で、各社から記者とカメラマンのそれぞれ一人のみの参加とさせることで混乱を終息させた。

この記者会見で立花は自身の埼玉県補選の当選を疑わず意気揚々であった。この時点では立花が本気で勝てると信じていたのは以下の発言からも伺える。「今回、十分に勝てる選挙だと分析した。(略)全体の国会議員の議席数を2から3に増やすという前向きな思いで挑戦することを決めた。」。「(得票率の)数字より勝つこと。他の政党が立候補者を立てない。(公党はN国党だけなので得票率は)50%を超える、50.1%で勝ちだ。トップ当選するという予想は立てている」。と。

私の進言により既得権益との戦いであることも明確にさせた。「(対立候補である)上田氏は3期しか知事をしないと言ったのだが知事4期目が終わったら今度は国会議員(に出る)。知事就任以前には国会議員をしている。よくわからない。まさに既得権だ。」、この70日という短い期間での参議院議員辞任と同じ参議院議員選挙補欠選挙への立候補を正当化させるのはそれしかない。この部分だけは一定の理解と支持をもって受け止められた。

しかし何度目だろうか、立花の発言で頭を抱えることとなる。「(立花に代わって参議院となる)浜田には6年後の5月に議員辞職してくれとお願いしている。1カ月、(7月の参院選選で比例3番目の)岡本に参院をさせ、その後(比例4番目の)熊丸(に1カ月、参院をさせてやってくれと(伝えた)。うちのような政治団体に600万円(供託金)も出して立候補してくれた同志なので、国会議員のポストを2人に譲っていきたい。」とさも慈善家であるかのような顔をして発言したのである。N国党スタッフには「立花さんの優しさ」と受け取られたが、とんでもないことだ。30年以上の政治経験を持つ私の旧来の仲間や関係者からは「あれ(あの発言)は酷い」と批判しか聞かれなかった。N国党幹事長である私と一緒の仕事を計画していた与野党所属の議員たちも離れていった。「(日本の)政治とは選挙である」と永田町界隈ではよく言われる。家族を巻き込み、命をかけて(政治ではなく)選挙に挑んでいる国会議員がほとんどだ。そこには新人とベテランにの間に差別などない。600万円程度の金を積めば記念的に国会議員にしてあげるという軽さに憤る彼等の胸の内は痛いほど理解する私には、立花が党首である限り、協力関係をお願いすることなど出来ようはずがなかった。

10月10日、告示を済ませた立花の第一声となる選挙演説をJR浦和駅西口で行った。副党首である丸山穂高衆議院議員(当時)はもちろん、渡辺喜美参議院銀も駆けつけてくれ、応援演説を送ってくれた。ロックスターを気取る立花のが発する「これは既得権益対反既得権益だ。悪対善の戦いだ。」、「消費税5%に戻すことで税収が上がる。税率下げて税収アップ。NHKのスクランブル放送実現はその次だ。」などの二日前の記者会見を知っている者からすると支離滅裂な発言でも、そこの集まった500人超の聴衆には政策などどうでも良いことのようだ。立花の発言ひとつひとつに歓声が上がる。

当日、私は10人を超える応援演説も含め最初から最後まで選挙カーの上から聴衆の様子を観察していたのだが、興奮状態の立花を横目に負け戦を悟っていた。それも圧倒的な大差での敗戦を。そこに集まっていた聴衆のほとんどが政治に興味があるように見えない、この様子をYouTubeに上げることで再生回数を増やしたいだけの者だった。埼玉県在住ですら疑わしい。それが証拠に、ちょっとした問題が発生すると大挙してそちらの方にスマホ片手に駆け寄りライブ中継なのか録画なのかに熱心になる者が多かった。彼らにとっては演説よりも炎上なのだ。2016年に私は都知事選に立候補したのだが、その際、候補者の中で最も優れた政策を打ち出した。新聞やテレビなどの大手メディアが候補者を平等に扱わないという選挙法違反により当選を果たせなかったのだが、政策に関して勝利宣言した。このとき私の打ち出した政策を熱心に耳を傾けていたような聴衆は、一人も見当たらなかったのである。

その日のうちに立花に、今回の当選は難しいだろうという私の意見を伝えた。対立候補である上田氏を圧倒的に上回る聴衆を集めて気を良くしている立花はそんな私の意見に気に留めない様子であったが、数日経過すると大手メディアも選挙情勢を報道し始める。そこで伝えられる全てが、圧倒的な大差による立花の落選であったことは言うまでもない。いつも私は他者に先んじてしまうため、疎んじられ嫌われてしまうのである。

間もなく敗戦を悟った立花は、許しがたい行動に出る。公職選挙法で決められている午後8時までに選挙活動を無視し、10時を超える時間まで街頭演説に立ちはじめたのだ。いくら欠点だらけの公職選挙法であろうと、そこに規定されている規則に反する活動は私がニューヨークタイムズ時代にたたき込まれたフェアネスに大きく反する。私は即座にそういった違法行為を止めるように立花に意見したのだが、やぶれかぶれになっている立花には何を言おうが無駄であった。そんな中で私が出来る唯一のことは、N国党の選挙対策委員長の辞任しかなかった。多くの与野党議員が、私のこの辞任に胸を撫で下ろしたと後になって聞いた。

予想通り参議院埼玉県選出議員補欠選挙に落選した立花は、続けざまに海老名市長選挙(10月3日告示、同月10日開票)、桜井市長選挙(11月17日告示、同月24日開票)、小金井市長選挙(12月1日告示、同月8日開票)に立候補し、落選を続けた。落選を前提とした立候補と強がりながらも、立花が一番気を揉んだのが得票率の低下であった。時間の経過とともに得票率が如実に下がり続けたのである。「悪名は無名に勝る」と息巻いていた立花もこの時期ばかりは自身の行動を振り返らざるを得なかった。

私の長期的視野に立脚し非の打ち所のない政策や選挙戦略を、その場その場の思い付きで簡単に減却してきた立花。私上杉個人としては何ら恨みがましく思っていない。しかし「もっと上杉さんの意見を受け入れるべきだった」と今頃になって臍を噛んでいると立花の側近筋から漏れ伝わってくる。しかしこれで良かったと私は確信している。現N国党幹事長である○○氏はグローバル基準で物事を考える私とは異なり、極めて日本的ムラ社会的な考えをよしとしている。私と異なり、イエスマンとして立花の自尊心を満足させ続けるだろう。

しかしそれは同時に『NHKから国民を守る党』と立花孝志の勢いを削ぐだけでなく現支持者の落胆を招き、更なる低迷に導くだけだろう、と断言できよう。

■誰も止めようとしなかった立花の暴走

知名度こそ全ての立花は、落選結果が見えている選挙の立候補を続けながら数々の珍奇な行動を繰り返した。すでに彼のYouTube動画には広告が掲載されなくなっていたにも係わらず、話題づくり、炎上を目的とした動画のアップロードを続けた。マツコ・デラックスへの1万人訴訟、年利10%での4億円の借入、論理が破堤している財務計画、負け続ける裁判結果報告、盆踊りなど、例を挙げれば切りがない。バラエティ番組として見るのであれば、この上ないエンターテインメントであろう。

そんな立花の行動を少数ではあるが有名人が言及しはじめた。私が立花に紹介したホリエモンこと堀江貴文氏、メンタリストDaiGo、炎の講演家鴨頭嘉人、青汁王子こと三崎優太などである。これら有名人から言及されることで、この上なく得意になった立花は「(上杉隆も含め)天才は自分を誉めている。避難してるのはバカばかりだ。」と息巻いた。しかし残念ながら、堀江貴文氏は私との関係性からできた繋がりで、メンタリストDaiGoは立花の勢いが無くなるにつれ言及する機会が減り、鴨頭はあくまでビジネス。脱税で執行猶予中の三崎優太は立花個人ではなく参議院議員バッジに期待して近付いてきたのは明かだった。

請われる形でN国党幹事長職を受け入れた私と数人を除けば、N国党はポンコツの集まりである。これは立花の発言である。そんなポンコツを地方議員に当選させるためにはN国党の名前だけでは足りない。選挙期間中はその選挙区に立花が張り付かなければならい。柏市の大橋昌信(2019年8月)、海老名市の三宅紀昭(同年11月)、佐藤えりぃ(同年11月)。一般層からの支持率も体力もないN国党は唯一人名を知られている立花が出突っ張るほかに当選を得ることが出来ないのだ。それは、我孫子市の坂本雅彦(2019年11月)の市議会議員選挙落選を見るまでもない。

メッキが剥がれはじめた立花のもとから多くのN国党スタッフや地方議員が去っていった。N国党と立花が空っぽであることに気づき、目が覚めてしまったのだ。彼等にとって地方議員の選挙に当選してしまえば、その後の四年間はN国党の名前が無くとも安泰である。そしてその四年間を市民のために費やすことで再選できるかも知れないという甘すぎる展望を抱いて。離れて行く者に立花が出来ることは、恨み節をYouTube動画に寄せることくらいだった。仁瓶文徳現中央区議会議員への執拗な脅迫は、逆に相手から訴えられるという笑うに笑えない事態になり、現在も裁判を継続中である。この裁判に立花が勝つことは、駱駝が針の穴を通るよりも難しいだろう。

急速に支持を失い、支援者も離れていった立花は他党との協力に頼るという選択肢に出る。『れいわ新選組』の山本太郎党首へYouTube動画を通じて秋波を送りはじめた。当時幹事長として、山本太郎と組むことについてはあまり賛成はしなかった。私は山本太郎とは「メロリンキュー」の30年前から旧知の仲である。借金のプレッシャーで正常な判断力を失っている立花は、勢いに乗る『れいわ新選組』と連合することを目指した。そんな立花に対して、「(N国党と組むことは)メリットが無い。お互い小党だからといって同じと思われたくない。」と山本は突き放す発言した。慧眼であろう。しかし私上杉隆について「利用されるだけで終わる。係わるつもりはない。」とも言っていることを人伝に聞いた。総理大臣を目指すという彼にしては、失望でしかない。

昔、山本太郎が政治活動をはじめたばかりの頃、私がプロデューサー兼アンカーを務める『ニューズ・オプエド』に出演させたことがある。東日本大震災を切欠に政治に目覚めた山本太郎に、日本の政治の形態や作法を教え、小沢一郎氏を紹介したのは私である。また、『ニューズ・オプエド』で発言の機会を与えるなど、私は表に裏に山本太郎を支援してきた。時代を15年先取りしている私は、凡人からはその行動理由が理解できない。すなわち嫉妬の対象となってしまうのだ。立花よりも他者の意見に聞く耳を持つ山本太郎は、何時しか私の意図に気付くときが来ることを期待している。しかし残念かな、それは15年後になるのだろう。

話を立花孝志に戻す。

立花の言動は酷くなる一方であった。最も酷いのは金に対する執着であった。過去に何度もYouTubeで金を貸してくれる人を集めた立花が、何度目かの借金のお願い動画を上げたのだ。その中で立花は、一口100万円の五口以下で公党『NHKから国民を守る党』に金を貸してくれる人を集めはじめた。それも利息を年利10%という消費者金融並みを約束したのである(その後、高すぎることに気付いたのか、初年度10%、2年目以降は5%と修正)。この借金がN国党崩壊の決定打であった。利息すら返せなくなってしまったのだ。挙げ句にはポンコツと罵っていた地方議員を務める党員に、500万円を半ば強制的に党へ寄付させ、借金の利息を払うというその場しのぎを続ける立花から精神的に離れていった党員も、このときばかりは多くいると聞く。

それにしても数学の天才を自称しておきながら借金と金利の計算ができない立花を見ていると憐れみさえ覚えてくる。億単位に10%~15%の金利を約束している時点で、政党助成金が期待できるとは言え、私が活躍したニューヨークとは反対側の西海岸のカリフォルニアの山火事を水鉄砲で消そうとしているようなものだ。日本の読者に分かり易く例えるならば、2011年3月11日の東日本大震災を原因に爆発を起こしメルトダウンをはじめていた福島第一原発を水圧の弱い放水車で冷却しようとするものだ。自身当時、私上杉隆唯一人が、メルトダウンという言葉を使って福島第一原発の状況を報告した。東京電力から多くのスポンサードを受けている多くのメディアは私のことを「デマ野郎」と寄って集って避難してきた。当時レギュラーを張っていた番組は、東電への避難を続ける私を降板させるという暴挙に出たのである。降板を伝えられたのは、最終の出演日の2週間前という考えられない短さであった。しかし今となってはどちらがデマを報じていたのか多くの国民の目に晒されている。福島第一原発の3号機の水素爆発の写真などは日本のメディアではあまり報道されないが、欧米メディアでは当然のように報じられている。真実を報道する者はこの日本では排除されるのだ。

金銭についてあまり頓着しない私は、これら立花の借金に係わらなかった。私に借金のお願いがあったこともない。ただ一度、私が懇意にしている鳩山家の紹介を頼まれたことがある。小池百合子さんの『希望の党』結成当時、私の紹介で10億円の寄付を鳩山家から『希望の党』に提案したことがあった。借金に苦しんでいる中、誰かから入れ知恵された立花が鳩山家に擦り寄りたいのは当然のことだろう。しかし日頃から、「一人(一つの組織)から多大な寄付や借金を受けてしまうと、(その組織に)忖度せざるを得なくなる。N国党は多数から小口の寄付や借金を募ることで制限されない活動を続ける。」と発言する立花の政治スタンスに反するため、そのお願いを断った。ここから立花の私に対する態度が明確に反抗的になっていった。

立花の私上杉隆に対する態度を更に反抗的にさせる原因があった。彼が彼女としてYouTube動画で紹介し、数多く共演していた加陽麻里布(かようまりの)である。興味がないので覚えていないが彼女が私に気がある素振りを見せてきたのだ。更に彼女は事ある毎に「上杉さんは優秀だしカッコいい。」、「(記者クラブなどの既得権益と)一人で戦ってる姿にしびれる。」など言いふらしていたらしい。ここで「らしい」と書いているのは、日本で初めて民間人として公党の幹事長を務め他党の連携や調整を主に行う私と司法書士である彼女との接点は、あまりにも少ない。私の知るよしの無い場所での発言であり、彼女に対して無関心であったのも事実だ。後で彼女のこの発言を聞いた私は自分の鈍感さに恥じるばかりであった。

立花が私への嫉妬に燃え上がってしまった。あること無いことをもって私の批判・非難を続けたのである。ニューヨークタイムスの経験からフェアであることを信条とする私が批判はされど非難されるようなことはあろうはずが無い。私は感情を抑えられなくなっている立花を諭すようにたしなめた。しかし、私と彼が持つ能力差と人間性の差への嫉妬に加え、彼女が私に傾倒したことへの嫉妬に溢れた立花は、発言するほど興奮度を増していき、自分が何を言っているのかすら理解できない状態になった。前述の通り立花にも『NHKから国民を守る党』にも冷め切っていた私の辞任、すなわち立花と彼女の加陽麻里布の目の前から消えることだけが、彼のこの興奮状態を抑えられるだろうと考えていた。

『NHKから国民を守る党』の幹事長を辞した今、これでよかったと私は確信している。昨年短い期間であったが風を起こしたN国党。その大きな原因となったのはYouTubeでの立花の言動に違いない。今でも立花はYouTubeで気勢を上げているのだろう。しかし昨年奇跡的に巻き起こった風は二度と吹くことはないだろう。


■立花への拝辞


立花と決別してから私は、彼のYouTube動画を全く見ていない。それでも30年以上のキャリアを通して構築してきた政界のネットワークから、そして現在もN国党に残りながらも私を師と仰いでいる多数のスタッフから、立花の言動の連絡が私に入ってくる。「立花は上杉さんのことを裏切り者と言ってます。」、「立花が、上杉さんの首を切った判断は正しかった、と党会議で絶叫しています」、「上杉に払った給料はドブに捨てたようなもの」、果てには「上杉は頭がおかしい」など。名誉毀損で訴えられれば、確実に敗訴となるような罵詈雑言である。視野の狭い人間は恩を直ぐに忘れる。自分の目の前で起こっていることだけが全てだからだ。

対称的に私から立花について言及したことは幹事長当時から限りなく少ない。それは今も変わらない。近日発表予定の新計画や日本で初めてのネットニュースメディア『ニューズ・オプエド』のプロデューサー兼アンカーとしてN国党幹事長の頃よりも多忙な日々を送っており、立花の名前を思い出すことも無い。風の噂で耳に届いても、何ら感慨が去来しない。

立花は今でも彼はカメラの前で怪気炎を上げ、YouTubeに動画掲載を続けているのだろうか。つい先ほどの発言と矛盾することを恥ずかしげも無く大声で述べる立花。自分の発言を理解できず、矛盾点を指摘する輩を「バカ」と言ってのける立花。明らかに破堤しているN国党の金策を自信満々に語る立花。私のような思慮深さやフェアネスを持たない立花。しかし大衆は気付いてしまった。その矛盾を。その無計画さを。その強がりのペルソナの裏に隠れた小心さを。

私、上杉隆は常に時代に先んじてしまう。よく「上杉さんは15年も時代先んじいる」と指摘される。石原慎太郎元都知事の側近の横暴さを誰よりも早く世に問うた『石原慎太郎と「5人の参謀」』からはじまり、記者クラブに制限された記者会見を開放し縛りのない自由な報道を目指す『公益社団法人 自由報道協会』の設立しかり、旧来メディアが無視している権力の横暴に提唱を挙げ続けている『ニューズ・オプエド』しかり。そういった私の世界基準でフェアな行動を理解できない既得権益側は私を嫌悪し排除する。そんな彼等も時代が過ぎると私の真の意図を理解しはじめるのだ。大手メディアに所属しながらもジャーナリスト精神を忘れない記者は、当時の自身の言動を恥じ謝罪してくる。残念ながらそのような記者は少ないのが現状ではあるのだが。そしてやっと、先の参議院議員選挙で立花孝志もしくは『NHKから国民を守る党』に投票した多くの国民も気づき始めた。自分たちが見ていたのは立花孝志がその卑猥さを隠すためのペルソナでしかなかったことを。

そんな私だから予見できる。大衆から見放され、手足と思ってたN国党のスタッフからも見放され始めた立花は、これからもYouTubeの中で怪気炎を上げ続けるだろう。しかし残念かな、立花が拠り所にしていた大衆は既に彼への興味を無くしている。大衆からの無反応に怯えた立花は、今まで以上の無計画で無謀な行動を続けるしかない。大衆からの注目こそが彼が熱望した彼のレゾンデートル(存在意義)なのだ。

大衆は熱狂しやすいが飽きやすい。近い将来、立花とは異なる扇動家が出てくるだろう。その時に、その人間を冷静に見極めなければならない。そのために今こそ、情報に対する高いリテラシーが必要になってくるのだ。

私上杉隆はこれからも警鐘を鳴らし続ける。

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